紅は園生に植えても隠れなし

枉路 尋

プロローグ

朝から雨が音を奪うように静かに降っていた。知らない町の知らないセレモニーホールまで、僕たちはバスで向かった。乗り慣れない路線のうえ乗り継ぎが必要だったから、向かうあいだ中、慌ただしく時刻を調べることに追われて純白ましろ先輩を思い出す暇もなかった。彼女の死を悼む気持ちを邪魔されたようでもどかしかった。

「大丈夫? 酔っていませんか?」

駅前から離れ、町並みがただの民家へと変わっていくのを無言で眺めていると、紅緒べにおがそう言って僕を気遣ってくれた。彼女の華奢な手が僕の手をギュッと握りしめている。紅緒は辛いときを過ごしていることだろう。きっと僕よりもずっと。これ以外悲しませまいと僕は平気な声を出した。

「いや。次に降りるのはどこだったか思い出していたんだ」

「そうでしたか。確か20分ぐらいあったはずです。休んでてください」

音なら聞こえますから、と紅緒は微笑んだ。

繋いだ手が微かに震えていることがわかる。怖いのだろう。目の見えない彼女にとって知らない町は大変な恐怖だと以前聞いたことがあった。彼女のことを思うと心が痛んだ。

「いや、眠くはないんだ」

返事のかわりに紅緒は少しだけ笑った。

穏やかな紅緒の笑顔を見ていると、彼女が感じている喪失が急に理解できて、僕は目を背けた。背けた先では町並みが雨でずっしりと濡れている。

「ごめん。やっぱり、ちょっと寝るよ」

「ええ、顔色が悪いですから、そのほうがいいと思います」

「見えないだろ?」 

「こういうのは見えなくてもわかります。あなたは今、とても辛そうな顔をしています」

なぜこの少女は大きなハンディキャップを抱えながらこんなにも強く生きれるのだろう。

僕は紅緒に見透かされた酷い顔を腕枕に埋めた。

窓側にもたれて、こつこつと雨音が窓を叩く音を聞きながら目を閉じた。

紅緒より先に泣いてはならない。僕が先に泣けば、紅緒はきっと感情を出すことができなくなる。雨が一粒、窓をすり抜けて僕の頬の表面を滑って落ちた。僕はその痕跡を隠すように腕枕をして目元を拭った。停留所につくまで一睡もしなかった。

セレモニーホールは停留所からさらに十分程度の距離があった。途中に団地があり、寂れたスーパーがあり、年老いた病院があった。

僕は彼女に傘を差し出しながら、肘を掴まれゆっくりゆっくり進んだ。

「不思議なことに、純白さんに実生活があったと納得できない部分があるんです」

紅緒の声は雨音に幾分吸われて、聞き取りにくかった。けれど、僕の耳は彼女に集中していたので、難なく聞き取れた。「わかる気がする」

「先輩は文芸部の部室で、ずっとそこにいるのではないかと、そう思えるところがありました」

先輩が帰る家も、食べる夕食も、宿題も、そんなものは何一つ想像できなかった。古い紙の匂いがするあの小さな部室にしか存在しない。正直に言って、それが純白紗智という女生徒の印象だと、紅緒は語った。

僕もその意見に反論はなかった。

「歳は一つしかかわらないのに、先輩は同世代の女の子よりずっと歳上に思えることがしばしばありました。先輩がいたなら、この気持ちの置き場だって、きっと教えてくださったのに」

「……わからないよ。あの人ならきっと、人によって悲しみとの付き合い方は違う、というようなことを言うかもしれない」

「……ええ。そうかもしれません」紅緒は微かに耳をこちらに向けた。「きっと、そう言ったかもしれませんね」

「うん」

ポツリと呟くと、隣を歩いていた紅緒が足を止めて肘から手が離れた。

「ごめん。歩くのが速かった?」

僕はすぐに彼女の隣に戻って手を取った。

「いいえ」紅緒はそう首を振った。そしてじっと閉じた瞼を僕に向けた。瞳を透かして僕を見ているようだった。僕の言葉を彼女は待っているのだと、わかった。

「……見たくない気がするんだ」

「私は見れることなら先輩の顔を見たいです」

僕は彼女の言葉にはっとした。見れない彼女に「見たくない」なんて、気遣いのない酷い言葉だった。

「ごめん」

紅緒がくすりと笑った。

「私のほうこそ、ごめんなさい。そんな顔をしないで。今のは私も意地悪でした」

そう言って紅緒は僕の顔を触った。

「顔は見たい。見たくないっていうのは、それ以外のことなんだ。それ以外のことは全部。先輩の家族になんか会いたくないし、過去の写真とかエピソードとか知りたくない」

先輩は完璧なまま過去へ去っていった。今更、彼女のことを知ったってそれはもう蛇足でしかない。自分勝手かもしれない。でもそれが僕の感じている正直な気持ちだった。

「好きだったんですね。純白さんのこと」

その穏やかな声は不思議な力を持っていて僕の視線をすくいあげた。

彼女の顔を正面から見ると、どうしようもないほど涙が込み上げてきて、僕は抵抗することもできなかった。

体のうちに溜まった熱い涙が紅緒の手を濡らしていく。

「あの人のことだけじゃない。僕は君にも酷いことを……。僕は君を……」

「許します。あなたが私にどんな酷いことをしたとしても、私がそれを許します。純白先輩だってきっと同じことを言いますよ」

ふわりと僕の頭が抱き寄せられた。それが余計に僕をやるせなくさせた。

僕たちは雨の中ふたりで、時間が止まったみたいにじっとしていた。

結局僕が先に泣いてしまった。けれど、それはこれっきりにしなければ。これから先、紅緒は僕が守らなければ。なのに……。今の僕にはできないことが多すぎる。

僕たちは純白家告別式と看板が出たセレモニーホールの前まで来た。ぎゅっとお腹のそこが痛くなる。

玄関の向こう側に人の気配があった。このまま入るのか、それとも紅緒の案内はここまでで諦めるのか、決めなければならなかった。

やはり……僕は入ることができない。

心苦しかったが、やはり僕が紅緒を連れてこれるのはここまでだった。これ以外先に、僕は進めない。

「紅緒。すまないけれど、やっぱり僕は入れないよ」

「そうですか。なら私だけでも純白さんにご挨拶してきますね」

「きっと中に知り合いがいるだろうから、誰か連れてくるね」

「ありがとうございます」

さっと自動ドアが開いた。玄関の入口近くにいたのは黄路おうじ志安しあんだった。黄路が入口に一人で立っている紅緒に気づいて「まあ」と上品な驚き声をあげた。

「紅緒さんもいらしてたの?」

黄路が紅緒に駆け寄ってきて、志安はその後をゆっくりと歩いてきた。

「お一人でどうしたの? 茜さんは?」

「茜は来ていません。彼に連れて来てもらったんです」

「彼?」

紅緒の言葉に黄路があたりを見回したがそこにはもう紅緒と黄路、それに志安の三人しかいなかった。

紅緒は「あら」といって、ともに来た友人の気配を探している様子だったが、もうそこに僕がいないことにようやく気づいたのか顔色が少しだけ曇った。

「黄路さん。志安さん。純白さんのところに連れて行ってくださらない?」

紅緒が気を取り直して言うと

「ええ、もちろん。そういえばマジェンタも来てるのよ」

三人は連れ立ってセレモニーホールの中へと入っていった。

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