純白紗智の残した物

その夜。彼が来るまで私は起きていた。

彼が今日も来ると約束してくれたわけではない。それどころか昨夜の出来事だって、本当にあったことなのか疑わしい。私は引出しから純白先輩の本を出して、それを抱いたままベッドに腰掛けて彼を待つ。その本だけが彼の存在を証明してくれる気がした。

親しい闇に包まれ、心穏やかな時間だったが、それでも時折急に不安が私を襲った。

茜が部屋に戻り、おおよそ一時間ぐらいの時間が経った頃、廊下を誰かが歩く気配に気がついた。気配は迷うことなく私の部屋まで来て、静かに扉を開ける。

私が彼の為に出していた椅子がぎしりと軋む。

「約束どおり会いに来たよ」

少年のように抑えられた声はまるでアルトのようなだった。

「昨日の今日では来てくれないかと思いました。中々来るのは難しいというような話だったので」

「まあ、来れるうちは来るよ。紅緒べにおのことも心配だしね」

彼の気遣いにふと頬が綻ぶ。

「ありがとう」

たった一言がこんなに嬉しいことがあるのだと、初めて知った。まるで彼に新しい感情を見つけてもらっているようだ。

「お話したいことがいっぱいあります。それにこれのことも」

私が本を差し出すと彼は受け取った。

この本を一緒に読むという約束だ。たがその前に話さなければならないことがあった。今日部室に現れた侵入者のことだ。

そんなことは初めてのことだったし、純白先輩と何か関係がある気がしてならない。離れに戻ってからもしかしたら、侵入者はこの本を探していたのではないかなどと考えたりもした。

私は結局何もされていない。タイミングを考えても、やはり純白先輩の死が関係していると思えてしまう。

事のあらましと自分なりの考えを彼に話すと彼は黙り込んだ。

「君の推理はそんなに外れていないかも知れない。その侵入者は本当にこの本を探していたのかも知れないね」

「どういうことですか?」

「その本にはね、黒薔薇の会という読書会のことも書いてある」

「黒薔薇の会?」

「そう。学院には内緒の読書会なんだ。別に疚しいことはしてないんだけど」

「もしかして、あなたもその読書会に?」

「そう言っても、間違いではないだろうね」

純白先輩と彼の関係はこれまでずっとなぞだった。彼らは明らかに親しかったが、それがどういったつながりなのかわからないままだった。その謎が少しだけ晴れた。

「秘密の読書会だからね、学院に見つかりたくないし、他の生徒にもあまり知られたくないんだ。先輩が記録をつけたいたことは、会員全員が知ってたはずだから、それを回収に来たのかもしれない」

ページを捲る音がする。

「うん、やっぱり書いてある。今日はこのあたりと、紅緒と初めてあったときのことが書いてあるところを読もうか」

彼はそう言って、先輩の本を呼んでくれた。初めに、私が初めて文芸部を訪れたときのことが書いてあるところを。その次に、とある日の読書会の様子が記された部分だった。

先輩の記した言葉に胸が暖かくなる。私のことを先輩はそんなふうに見ていたのだと、知れて嬉しかった。

読書会の方でも私の名前が出ていた。この館が黒薔薇館と呼ばれていることも初めて知った。確かに庭園の通り沿いは薔薇が植えてある。

「庭園の薔薇は黒なのですか?」

「そのとおり。名前の由来だね。だが君が想像してるほどは黒くないと思う。赤黒という感じだ。ただものによってはかなり黒に近いものもある」

「そうなのですね」

館へと続く薔薇に縁取られ道。この目で見られたら良かったのに。きっと美しい景色なのだろう。

本は私の知らないことをたくさん教えてくれた。

「いくつか理由がはっきりして、少しだけすっきりしました」

黒薔薇の会という秘密の読書会。この館がもともと会場だったのか。

「あなたと初めてこの館で会った時、ここが隠れ家だったというのはそういうことだったのですね」

「ああ……そうだよ。週に一回ここに集まってみんなで本の話をしていたんだ」

「きっとそれは素晴らしい時間だったのでしょうね」

「どうだろうね。君からすると不良みたいな本を集まって読んでいると思われても仕方ないと思うけれど」

「共感できるところもあれば、できないところもある。本とはそういうものだと思います。みなさんが気に入られたなら、きっと良い本ですよ」

「はは、ありがとう」

「文芸部には、この会のため蔵書が保管してあった。他の人に見られる訳にはいかなかったから先輩は文芸部に誰も入れなかった」 

なるほど。私が例外として受け入れられたのは目が見えないからだったのか。確かに私が文芸部の奇妙な蔵書に気づくことはない。

「ああ、そうだ。先輩はあの部屋の管理人だった。黒薔薇の会で評価がよかった本は文芸部の部室に保管されていたんだ」

「どうしてそんなことを私に話すの? 会のことは秘密だったのでしょう?」

「先輩がいなくなったからね。秘密にしておく理由が僕にはもうない。それよりも君のことのほうが心配だ。君にちょっかいをかけてくるなら、それは黒薔薇の会の可能性が高いからね」

「なら、今日。文芸部にいたのは……」

「たぶん黒薔薇の会の誰かだ。君は今、黒薔薇館も文芸部の部室も占領してる状態だから、誰かが行動を起こしてもおかしくない」

確かに先輩の手記では私を悪く言っている人がいた。よると呼ばれていた人だ。

「夜が短気を起こしかねないのはそのとおりだし、すみだって何か考えてるかもしれない。うるしはけっこう狸だから、表面的に言ってることを信じるのは危ない」

「そのニックネームみたいなの、素敵ね。あなたのはどれなの?」

「ああ、僕のは……。ってだめだよ。僕のことを探ろうとしてるね?」

「だって、あなたはちっとも教えてくれないんだもの」

彼は深々とため息をついた。

「けれど、部室に来た人はどうやってあの部屋から消えたのかしら。部屋の隅までは絶対にいったはずなのに」

黒薔薇の会。何者が忍び込んできたのかはわかったが、部屋からの消失は謎のままだ。

「そうだね。何かに気を取られて、逃げ出す気配に気付けなかった、ということはないの?」

「ないと、思う。外がうるさいなんてこともなかったから。廊下を走ってくる灰谷先生の音はちゃんと聞こえました。それより大きな音なんてなかったと思う。ねえ。あの部屋にこの館みたいな隠れ部屋はないの?」

「正確には違うかもしれないけれど。そんな感じに、なっちゃってる部屋はあるよ」

「え、あるの?」

「うん。ある。ただ、出入りはできないと思う。あの部室には準備室のようなものが本当はついてるんだ。入って右手側の奥にドアがある。但し、本棚が潰していて開閉はできないから、実質部屋ごと潰している。そこに逃げ込むのは無理だと思う」

「入ってから奥ってことは窓側であってる?」

「そうだね」

「そうなると、侵入者が隠れた場所とも反対側だわ」

侵入者が秘密の部屋に隠れたというほどやはり謎は簡単ではないか。

「部室の出入り口は一つ。そこから君が入ってドアを閉めたから、そこから音を立てずに出ることはできない。一階だから、窓側から校庭に出ることはできるけど、そこには君がいて通れない。秘密の小部屋はあるけど使えない。凄い。絵に書いたような密室だ。なんかミステリ小説みたいだね。君、貴重な体験をしたんじゃない」

彼が楽しそうに言うから、思わず深刻さを忘れて笑ってしまう。

「したくてしたわけじゃないわ。でも、たぶん、何か考慮漏れがあるんだと思う。じゃないと人が消えるなんてありえないから」

「ミステリ的に起こったことを順番に整理してみよう。よい?」

「いいよ」

「一、紅緒が部室に入り、ドアを閉める

 二、紅緒は本が倒れた音を聞き、元に戻そうと倒れた本を探すけれど見つからない

 三、紅緒は窓際の席に座る

 四、紅緒が侵入者の気配に気づく

 五、侵入者は廊下側の隅へ移動し、その後何の音も出さなくなる

 六、紅緒が灰谷先生を呼ぶ

 七、灰谷先生が教室にくる

 八、紅緒が侵入者がいた隅を調べるが無人。

 九、紅緒が教室に侵入者がいないか灰谷先生に尋ねるが他には誰もいないと言われる」

彼が起きた現象だけを抽出して整理してくれる。私は黙り込んで聞いていた。

「言っていて思ったんだけど。これ君が入る前に退路を確保されていた可能性は、ないの?」

「とういうこと?」

「正面から考えて、答えがでないなら前提が間違ってるんだよ。だいたいね。この場合間違ってそうだと思ったのは、『出入り口は廊下側の扉と校庭への窓の二つ』という前提かな。他に脱出口があるんじゃない?」

「そう思ったから秘密の小部屋がないか聞いてみたの。でもそれは使えそうにないんでしょ」

「それはそうだね」

「廊下側には窓はないでしょ。現実的に出口はその二つしかない」

「なるほど。窓側を君が塞いでいる以上、侵入者は廊下側の扉から出るしかない。じゃあこの出口を閉じたという前提が間違ってる可能性は?」

「どういうこと?」

「例えばつっかえ棒みたいなものをレールに仕込んでおけば、扉はこの棒にあたって完全には閉まらない。何かに扉がぶつかったから、君は扉を閉めたと勘違いをする。けれどじっさいは隙間があるからそこから脱出できる。まあ、人が通れるぐらい隙間を作れるかはわからないけど」

「……なるほど」

それは考えてもない案だった。

「文芸部の部室には君がいつ来るかわからない。そこに忍び込むわけだから、何か準備して入ってきてもおかしくはないよ。君にとっては、侵入者と部屋に二人きりになったことは想定外でも、侵入者からは十分に想定できることだ」

それはそうかもしれない。

「けれど、それはないわ。扉はちゃんと閉めた」

「断言できる?」

「できます」

「どうして? 君は閉まっているかどうか見えないじゃないか」

「見えないからよ。扉の閉め忘れもね。昔は本当によくやったの。だから、もうやらないの。確認してるから隙間があったら気づくわ」

「……なるほど」

「でも、前提が間違ってるというあなたの意見は正しいと思う。あなたが起きたことを整理してくれたおかげで、疑うべき前提が二つ思いついた」

「へえ。凄いな。聞いてもよい?」

「一つ目は、侵入者がいたということ。つまり全部私の勘違いで説明できる。侵入者がいたと思ってるのは私だけだから」

言いながら、言葉にしようのない懐かしさが込み上げてきた。この部屋でこんな話を彼とまたすることになるとは。

「うーん。まあ、説明はつくね。ただ君がそんな勘違いをするかな? それにタイミング的に黒薔薇の会の人間が何かをしかけてもおかしくない。全部勘違いというのはちょっと楽観が過ぎる気がするしね。あんまり採用できない気がする。その案は」

「ええ。そうね」

「じゃあ、次は何?」

私は急におかしくなってふと思い出し笑いをした。

「こうやって前に話した時のこと覚えてますか? その時にもこの可能性の話をした。あのときは、きっぱりとあなたが断ってくれたけれど」

「具体的に言ってくれよ。何のことだか……」

「ええ。ごめんなさい。つまりね。部屋に本当に誰もいないかどうか確かめるのに、私は人の力を借りるしかないの。いないと言われればいないと思うし、いると言われればいると信じるしかない。茜は私に絶対嘘をつかないけれど、灰谷先生はどうなんだろうってこと。灰谷先生は優しい先生だけど、状況次第で嘘をつくかもしれない。部室に他に人がいないことを担保してるのは、灰谷先生の言葉だけよ」

灰谷先生に嘘をつかれたと考えるのはショックだった。けれど、誰にでも優しい灰谷先生が侵入者を庇うこともあるかもしれない。

「灰谷先生が侵入者を庇ったとするなら、灰谷先生はきっと部室を一目見て状況を察したということになる。何も知らないで、部室に部員以外の人が居るのに私の質問に嘘をつくとは思えない」

そう。そうだ。これが考慮漏れだ。

「つまり灰谷先生は黒薔薇の会の一員なのね?」

私の質問に、彼が逡巡した。秘密の会の仲間を売るように思えたのかもしれない。

「……そうだ。そのとおりだよ。彼女はうるしだ」

「……そう」

逆説的に、これでほぼ侵入者が黒薔薇の会の人間だと考えられる。

「ねえ。他の会の人って……」

ノックの音が、私の言葉を遮った。驚いて言葉を飲み込む。彼も急なノック音に驚いていた。

「お嬢様。まだ起きてらっしゃいますか?」

茜だ。とうに部屋に戻ったはずだったが、私たちの話し声が聞こえてしまったか。

「茜?」

「ええ」

「そう。夜ふかしがバレちゃったわね。よかったら何か暖かい物をもって来てくれる?」

「かしこまりました」

そう言って、茜の足音は部屋の前を離れていく。

「こんな時間に部屋にいるのを茜に見られるのはまずいわ」

間違いなくひと悶着起こるだろう。

思わず私は小声で彼に話しかける。

「ああ。そうだね。僕は一度退散するよ」

同意して、彼は廊下とは反対側の壁へと向かった。使用人通路を使うつもりなのだ。

彼が扉を動かす音がした。壁の一部が内開きに開いているのを触って確かめる。本当にこんなところに隠し扉があったのか。

彼が扉の内側に消え、扉が閉められた。逆の正面の扉から今度はノック音が聞こえてくる。

「お茶をお持ちしました」

私は音を立てないようにゆっくり急いで、机までいく。適当に点字のテキストをとって机に開いた。スタンドライトを付ける。ライトは私が起きているときの習慣だった。私にとってライトをつける意味はなかったけれど、夜に部屋を暗いままにしておくと父に叱られた。

「どうぞ」

言うと茜が部屋へ入ってくる。ギリギリの間一髪か。

「失礼します」

ドキドキと胸が強く打っていた。茜が部屋に入ってくるだけでこんなにドキドキしたのは初めてだ。

茜はまっすぐ私のところまで歩いてきて、机にお盆を奥音が聞こえた。

私の緊張が茜には見破られてしまうのではないかと不安になる。

「お勉強中でしたか。何か声が聞こえましたが」

「ごめんなさい。起こしてしまったかしら。ぶつぶつと声に出して読んじゃってたから。だらしないとお父様に叱られるわね。気をつけるわ」

「いえ、ご自由になさってください! 私のほうこそ、差し出がましいことを申し上げました」

「いいえ。いい香りね。ルイボスティーかしら?」

「はい。夜ですので、あまり目が冴えすぎるのもどうかと思い……」

「ありがとう。いつも気遣ってくれて」

「いえ。あまりご無理はなさらないでください」

「ええ、そうするわ。茜も休んでちょうだい」

「はい、失礼します」

彼女が出ていったことを確認して私は反対側の壁で彼が隠れた使用人通路への扉を探した。なんとなく忍び足になる。

彼に聞いてから、使用人通路への扉は初めて実際に使われているところに遭遇した。嘘ではなく本当にあったんだ、と思った。彼は手早くここを開けていたが、私には開け方もわからない。扉があったと思われる場所で困っていると、カチッと小さな音がして内から開いた。

「危ないところだった」

彼が小さく言った。

「ええ、本当に」

「今日のところは退散するよ。これ以上いるのは本当に危なそうだから」

「はい」離れそうになる彼の腕を引き寄せる。「また、来てくれますよね?」

「もちろんだよ」彼はそう言った後、一瞬躊躇った。「黒薔薇の会には注意するんだ。あの中には君をよく思ってない人間もいる。それに今、黒薔薇の会は混乱してる」

彼が読んでくれた先輩の手記を思い出す。

本と読書会の会場の話。それと、私の話を彼らはしていた。

「マジェンタだ。彼女は特に今情緒不安定で、何をしてもおかしくない。今は彼女に気をつけて」

「え、マジェンタ……」

静かに扉が閉まる音だけが返ってきた。

私は思いも寄らない名前を告げられ、深く困惑した。黒薔薇の会には、確かに私のことを悪く言っている人がいた。それがらマジェンタだというのか。けれど、マジェンタは友人だ。今日も彼女は特別教室に遊びに来ていた。親しく会話をしたのは数時間前の話。

「なんでマジェンタが……」

その呟きは闇に吸い込まれて消える。あたりの闇がそのぶん深くなったように感じた。

私は机のスタンドライトを消して、ベッドへと戻った。

マジェンタが私のことを……。信じられないという思いが先立つ。しかし、彼が嘘をつく理由はあるだろうか。彼は私に会のことを教えてまで警告した。そもそも黒薔薇の会なんて彼のでっち上げの可能性だって……。しかし、そんなことをしなければならない理由は思いつかない。

だが、マジェンタが私を嫌う理由は、残念ながらすぐに思いついた。学院の生徒なら誰でも思っていることだろう。

マジェンタが純白先輩を慕っていたことも痛いほど知っている。文芸部へ私が入部したことが、彼女の逆鱗に触れていたとしてもおかしくはない。

「少しは人の悪意にも慣れることだ」

赤星先生の言葉が耳に木霊した。

先生の言葉は、知らない生徒から良くない噂を立てられることだと思っていた。他の人から腫れ物のように扱われることだと。

それは間違いだった。悪意を向けられるというのは人に嫌われるということだ。

マジェンタが私を嫌っているかもしれない。

今日私に笑いかけてくれたあの声は、裏では笑っていないかもしれない。笑っていたのは声だけで、マジェンタは違う表情をしていたのかも……。

見えないことは怖い。私は強く再確認した。

私が過ごしていた楽園がゆっくりと薄暗い闇へと暮れていく。

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