グレープ・メモリー

香久山 ゆみ

グレープ・メモリー

「おじいちゃん、ブドウ!」

 孫の声に顔を上げた私は破顔する。

「ちがうよ、晃太。あれは葡萄じゃなくて、藤の花だ」

「フジ?」

 不思議そうに首を傾げる孫を余所目に、遥か昔の記憶を思い起こす。なるべく思い出さないようにしていた、古い記憶……。

「あら、葡萄」

「ちがうよ、あれは藤だ」

 そう指摘すると、彼女は頬を染めた。植物に詳しい彼女が間違えるのは珍しい。

「ごめんなさい、私の故郷には無いものだから、つい」

 未だ二十代の頃、トラディッショナルな場所に行きたいという彼女に応じて奈良の春日大社を訪れた。社紋の下り藤を説明するため、萬葉植物園に立ち寄った。満開の藤を目にした彼女は感嘆の声を上げ瞳を輝かせた。

 懐しい思い出。今になって思い出すなんて。

 ゴールデンウィークに遊びに来た孫にせがまれ散策に出た。なんでも「タンポポ調査」に参加するのだと。タンポポ調査とは一般参加型の学術調査で、五年に一度実施される。各地で生息するタンポポの種類を調査して、発見場所とともに事務局へ報告し、その分布図を作成するという取組みらしい。そこで、タンポポの自生場所へ案内しろとせがまれた。

 うちは旧家というだけあって、広いだけが取り柄の郊外の住まい。タンポポなんてその辺に好きなだけ咲いているだろう。と思ったのだが、なかなか見つからない。昔はあちこちに黄色い花を咲かせていたと思ったが。

 代わりに、オレンジ色の薄い花弁の花がよく目に付いた。昔はこれほど咲いていなかったと思うのだが。そう呟くと、孫が振り返る。

「この花? えーと……」

 科学クラブに所属する孫が一生懸命花の名前を思い出そうとしている。だが、心配無用。

「ヒナゲシだろう」

 孫に教えてやる。この花は知っているのだ。彼女との思い出があるから。

 藤の一件以来、いっそう研鑽した彼女から、さまざま知識を得た。藤は英語でウィステリア。グレープフルーツは葡萄の一種ではない。そう信じていた私は彼女に笑われた。一枝にいくつもの果実が成る様が葡萄の房に似ているために名付けられたのだとか。また、欧米ではたんに「グレープ」でワインを指すこともあると聞いたのは、まさに二人でグラスを傾けていた時だったろう。私たちは深く酔っていた、恋に。

 かつて巷にはもっとタンポポやオオイヌノフグリなど雑草が多く自生していて、オレンジの花を見ることはほとんどなかった。二人で歩いていた時、ふと路傍にオレンジ色の小さな花を見つけた。ただ一本ですらりと立つ可憐な姿に、私は言った。

「まるで君のようだ」

 彼女は喜んでくれるだろう。そう振り仰いだ彼女の表情はなぜか苦しそうに歪んだ。

 数ヵ月後、私たちの関係は終焉した。彼女は研究に没頭していたし、私も実家の父が調子を崩して慌しく、自然に間遠くなった。

「ちがうよ、おじいちゃん」

 孫の声にはっと我に返る。抑えていた思い出が、蓋を開けたことで溢れてきてしまった。――嫌って別れたわけではない。私は彼女のことを愛していた。けれど、時代が。

「あれは、ナガミヒナゲシだよ」

 そう言って孫が説明する。ナガミヒナゲシは外来種で、アレロパシーが強いといわれている。アレロパシーとは、他の動植物に直接または間接的に何らかの作用を及ぼすことで、ナガミヒナゲシを日本の在来種を駆逐する危険外来種とみなす声もあるという。

 それを聞いて、私の脳がぐらりと揺れる。ああ、だから彼女はあの時。

 彼女との交際を、私の家族は大反対した。古い家だったから、家系に異国の血が混じることは強く否定された。彼女にそれを直接告げはしなかったが、感じ取っていたろう。結局家族を説得することはできず、私の態度はどこかよそよそしいものになっていき、彼女もまた私との未来を諦めた。なのに、ずっと。

 ナガミヒナゲシは繁殖力が強く、一本の花から二千もの種子ができる。私の思いも、どんどん溢れて。もしもあの時、彼女と一緒になっていたら――、詮無い思いが膨らむ。いやしかし、時代が時代、幸せにはなれなかったろう。

 彼女が教えてくれたイディオムを思い出したのは、孫が描いた絵日記のせいだ。紫の藤を見上げる私は、まるで葡萄を見上げる狐のよう。語源はイソップ寓話。腹を空かせた狐は葡萄を食べようとするも、届かない。そして、手の届かぬ葡萄に向かって吐き捨てる。

 ――Sour grapes.――きっとあの葡萄は酸いに違いない。

 手に入れられなかった負け惜しみだ。

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