Q7 泉の言う「バランス」と、世界とつながろうと努力した真

Q7

 おっしゃっていたように「十代前半って、みんなと同じ(チャム)、ということが大事な時期で、そこからそれぞれの違いを尊重できる時期に移る、というのもあるのでしょうが。」は確かにそうですね。まずは個人としての成長が始まり、将来、成人として社会的な集団行動をとるための学習がなされる期間なのかもしれません。そのために「まわり」を意識し始めるんでしょう。

(すいません、チャムってなんですか……?💦)


 お話の中で「バランス」を考えられる泉はある意味大人ですよね。「まわり」に合わせることができる。真や千津のように手段を持たないわけではない。しかし表立って真や千津の立場から「まわり」に向かうことはできない。そのジレンマそのものが、中学生時代の自己が確立するという危うい過程を表しているのかな、とも思います。高校生になって違いが認められるようになるのは、「自分」というものがもう少し確立してきて余裕が出てくるんでしょうね。あとは、中学とは違って、地域のいろんな子供全部が同じ場所に詰め込まれた状態ではなく、同じ(学力)レベルの生徒が集まって、違いそのものが少なくのもあるでしょうね。


 そう考えると、千津が花実高校に居場所を見つけられたのは、同じ「普通じゃない」タイプの生徒が集まる場所として自然だったのかなとも思います。ただ、プラナリアさんのおっしゃりたい点は、なぜ千津の居場所は「普通」の学校の中に無いのか、ということですよね。アウトサイダーになってしまう子どもたちのための特別な学校を作るのではなく、普通の学校の中で包括的に受け取められればいいのに、というのがプラナリアさんの視点ですよね(であってますか?)。花実高校はそういった多様性を受け止めるモデル校として現れていると考えています。そういう意味で制服のスカート丈も揃えて、髪も黒くなければならない「普通」の学校生活は、多様性とは真逆の方向を向いていて、プラナリアさんの感じた息苦しさがそんなところにも現れているのかなと思います。


 さて、千津は花実高校に居場所を見つけ、真は高校に進んで再び「世界と僕との断絶を見」ました。しかし、真は言います。


 消えてしまいたいと思っていた。けれどそう願う強さで、僕は誰かと繋がりたかったのだ。ずっと。

 僕は断絶に手を伸ばした。この世界について知ろうと思った。僕が僕として、ここで生きていくために。


 私はこの文がとても好きです。私が棺桶に入れて欲しい本に「デボラの世界」という統合失調症の若い女性の半自伝小説があります。原題を「私は薔薇の花園を決して約束はしなかった」というのですが、これはデボラを治療する女医の言葉です。デボラは治療を通じて、自分は「統合失調症」というフィルターを通じて複雑な家庭環境を含めた世界との折り合いを付けようとしているのだということを理解するのですが、このフィルターを外す勇気が出ません。そんなときに、主治医は「あなたに薔薇の花園は約束できない。安寧や幸せも約束できない。私ができるのは、あなたがそれらに向かって戦えるようにしてあげられるだけ。私があなたにあげられる現実は、それらに対して挑戦できるということだけ。健康ということは、現実を受け入れるかどうかの選択権をあなたが持つということなの」と言います。


 私は手を伸ばす真が、デボラに重なって見えました。友人、学校、社会と、この世界そのものを理解し、内在化し、自分なりの解釈を付けるというのは、生涯を通じた壮大な作業だと思います。人間は集団社会の中で生きていくようにプログラムされている動物なので、社会から取りこぼされるということは死をも意味します。であるからこそ、慎重にもなるし、同化を試み、失敗したくない、と思う。と同時に挑戦し続けなければ、社会の中で生きていく一歩も踏み出せない。そう考えると、中高生の時期はなかなかに厳しい経過地点なのだなと思います。


 このあたりの真の心情をもう少し説明していただけますか……?


A7

 チャムとはチャムグループです。発達心理学の用語でして、こども集団がどのように変化していくかを表しています(普通は知らないですよね(^_^;))私も大学で習ったうろ覚え知識ですが💦


①ギャンググループ

小学校中〜高学年。同じ行動をすることで同一化しようとする。小学生男子が仲間内で秘密基地作ったり、「これをやらなきゃ仲間と認めない」みたいなことやったりするイメージ。


②チャムグループ

中学生。言葉による同一化。思春期女子が「私たち、一緒だよね?」と言ってるイメージ。


③ピアグループ

高校生以降。類似性だけでなく相互の違いも認めあえるようになる。


 前回のコメントでは「顕微鏡」を丁寧に解説して頂き、ありがとうございます。花実高校に関する考察、私自身「そうだったのか……!」と腑に落ちるところがありました。イカワ様の推察力、半端ないです。


 さて今回も難問でして、うまく伝えられるかどうか分かりませんが……。


 真は「周囲と話すことができない」という生きづらさを抱えていました。それは同時に、「話さないことによって、これ以上の不適応を防ぐ」という意味も、もしかしたらあったのかもしれません。現に、真が教室で話すようになっても、問題は解決しません。話すようになったことで、真の場の読めなさ等が露呈し、相手を困惑させてしまいます。周りとの違い、「断絶」を突きつけられるわけです。以前はここで口を閉ざした真ですが、泉との出会いを経て、人との繋がりを求め、周りの世界を知ろうとします。


 「僕が僕として、ここで生きていくために」という一文は、私がかなり悩んだ末に辿り着いた表現です。

 どういうことかというと。


 ここで仮に、真が「こんな自分ではダメだ。誰とでも話せる社交的な自分にならねば」と考えたとしたら、どうなるでしょう。

 周囲を観察し、流行りのドラマや動画を見て共通の話題を探し、微生物だの顕微鏡だのの話は封印して、ひたすら周りに合わせて会話するようになったら。

 もし真がものすごく頑張ってそれをやり遂げたなら、もっと周囲に溶け込み、より多くの人と話せるようになるでしょう。

 でも、それは本当に真なのでしょうか。


 社交的な振る舞いを身につけたとして、そこに真はいません。彼自身は、取り残されたままです

( このあたりは、私の実体験ですね(^_^;) )


 私は真に、自分自身をまず出発点にしてほしかったのです。周囲に合わせて自分を押し殺すのではなく、周りと自分の違いを認めた上で。そこから「自分として、この世界で生きていくにはどうしたらよいか」を考えてほしかった。

 その時、おそらく「誰とでも話せる社交的な自分」という目標は出てこないでしょう。周囲を観察し、頑張って挨拶は返すとか、合いの手は打てなくても相槌は打つとか、彼なりの地味な努力を重ねる中で、繋がれそうな相手には微生物の話をしてみるかもしれない。「無口だし変わってるけど、話してみたら案外面白い奴」みたいな感じで、本来の自分に近い他者との関わり方を模索するのではないかと思います。

 自分の思うように生きたい、けれど周りに溶け込みたい。悩みながら、私達は自分と世界の折り合いをつける試みを繰り返す。けれど、実際は周囲に合わせることを求められる方が多いのかもしれませんね。

 


 自分として生きる。自分自身になる、というのは、当たり前のようでいて、とても難しいことだと思います。自分はどんな人間なのか。自分にとって大切なものは何か、どのように生きていきたいのか。それは時に自分が理想とする在り方とは違うかもしれず、他人から期待される自分とかけ離れていることもあるかもしれません。けれど本来の自分を押し殺し、周囲に合わせて生きた時、私達の人生は歪み、何らかの形でひずみが現れてきます。私達自身の中に、自分として生きたいという願いがある。自身と向き合い、本来の自分として生きることは、避けられない戦いでもあるのでしょう。


 「デボラの世界」。未読なのですが、主治医の先生のお言葉、胸に沁みました。

 あなたに薔薇の花園は約束できない。その通りです。もし自分では美しい花園を差し出したつもりでも、相手にとっては荊の園であることさえあり得ます。デボラ自身が戦い、自分の力で辿り着いた先に花園があるのでしょう。私達にできるのは、その戦いを見守り、共に歩むことだけです。デボラ自身の力を信じて、誰のものでもない自分の人生を切り開いていけるように。

 (未読なので、勝手な解釈だったらすみません💦)

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