Q8 『毗沙門戦記』での親子愛を語る

Q8

 『毗沙門戦記』には、親子の関係がときにはしんみりとした筆致で、ときには生死に迫るものとして描かれています。

 例えば、「33.砂漠の父子」では、毘沙門が息子であるしっかり者の獨犍に与えた蜈蚣の剣を見て「似合うじゃないか」と言い、それに対して獨犍は礼を言おうと思うものの、タイミングを逃してしまい、二人で黙って星空を見上げる下りがあります。

 また、「61.イタズラ謳歌②」では、アナンタとして信仰されるようになった哪吒が自分の立ち位置や父への信仰への影響を心配したりするほか、「62.二鬼の燈明」と「114.父と子」では、そのことによって父から命を狙われたり、拒絶されたりすることへの不安を吐露しています。

 特に、「61.イタズラ謳歌②」では、「要は奇譚には諸説ありというわけだが、こうもアナンタ信仰の輪郭が幾重にも折り重なる曖昧さでは、まだ習合経験の浅い哪吒自身、これがれっきとした混淆こんこう現象だとも気づかず、何が正確でどこが着地点なのかの無意味な判断思考に惑うのも無理はなかった」と、あたかも息子側の思春期の成長過程のような表現が面白いなと思いました。

 このような父と息子の関係を描くときに、モデルとしたような経験や見聞などはありますか? 「親子」という視点で、話を書くときに気をつけていることなどがあれば教えて下さい。


A8

 毘沙門家族は、子供五人全員男に、強い母。激アツ家庭です。かたや私は、娘一人っ子で子供もいなければ彼氏もいない。毘沙門家族とは真逆なのです。モデルとするような友達兄弟もいないそんな私が、毘沙門家族を描いているわけですが……。やはり、「父と息子」を描くにしても、私の知っている父子関係は「父と私」しかありません。私が、今までに父との日常で経験したことの範囲内で、毘沙門家族を表現しています。父と仲良く晩酌する最勝、父にわりと厳しい獨犍、 自信の無さから反抗期に陥る常見、まだ世間知らずでパパっ子な善膩師。私と父の仲はこんな感じだった、父のことが大嫌いな時期もあった、あの時の父はこんなふうに思っていただろう、愛想尽かされてたらどうしよう、などなど、私と父とが年齢ごとにどんな関係にあったのかを思い返しながら、私の父に対するいろいろな態度をそれぞれ当てはめたのが毘沙門天の五太子です。しかし、問題は哪吒ですね。

 『封神演義』では、哪吒は、わけあって父親である托塔李天王に命を狙われます。それがきっかけで、悲しみに暮れ自ら魂を捧げたり(のちに再生)、父に恨みを抱いて歯向かったりする場面があります。『封神演義』以外の書物にも書かれているらしく、有名なエピソードのようです。この部分をオマージュして、『毗戦』でも長きに渡って取り扱っていくテーマとしました。拙作の哪吒は、これから少しずつ自立していって、父毘沙門に歯向かう体勢に入っていく予定です。それに至るには、父との行き違いがあったり、毘沙門天が哪吒に反感を持たせるような行為をしたりなど、いくつもの障壁を経なければなりません。その結果、生死に迫るシーンや、毘沙門天の息子に対する不器用すぎる場面が生まれました。基本は、仏教説話に則って物語を進めています。

 あとは、父子関係をあまり気にせず、「この子だったらこんな性格だろう」とか、「この子だったらこうするだろう、ああ言うだろう」とか、単純に一人の人間(神さま)として当人がやりそうな言動を表現します。これに関しては、キャラ作りの基本でしょうか。結局、おのおのがおのおので好き勝手にやっちゃうので、うまい具合に父と子の仲がこじれてくれるわけなのですがね^_^。

 ただ、毘沙門天も、「自分の子供」は愛しているはずなんです。そうでなければ、毘沙門家族三尊像で祀られることもないはずなのです。だから私は、毘沙門天が、「自分の子供を(不都合だからと言って)確実に殺す」場面は描けませんでした。わかりづらいですけれど、「殺そうとしたけど、愛おしいのでやっぱりやめた」という描写を採用しています。毘沙門天も、哪吒を愛しているのです。

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