Q8(2): 創作活動で目指していること

A8 追記


 ――創作者ヘンリー・ダーガーの孤独を想うと、勇気が湧いてくる。

 物語を書くことへの勇気と、何よりも、孤独であることへの勇気が。――



 ヘンリー・ダーガーという物語創作者がいた。作家ではない。つまりプロではなく、ただのアマチュア創作者だ。

 19世紀から20世紀にかけてのアメリカで掃除人として生きた彼に家族はなく、友人もなく、財産もなかった。


 ただ物語だけがあった。1万5千ページを超える超長大な絵物語『非現実の王国で』。約60年間にもわたって書き続けた、誰にも知られなかった物語が。


 晩年に彼はアパートの大家へ、遺品は捨ててくれ、と伝えていた。だが大家は部屋を埋め尽くすゴミの山から、その物語を――他にその続編や、フィクションを含む彼の自伝を――発見した。

 それがヘンリーにとって、望ましいことであったのかは誰にも分からない。



 ――彼の孤独を想うと胸の内が震える。

 その物語を誰かに見て欲しいとは思わなかったのか? 

 主人公やお気に入りの登場人物の活躍を、誰かと話してみたいとは? 

 60年間、人生丸ごと、まさに心血を注ぎ続けた命の成果ライフワークに対する、正当な評価が欲しいとは? 

 あるいは必要ではなかったのか、そんな評価は? 

 彼だけのために生まれ、彼と共に誰にも知られず消えていく、その方がよかったのか? 



 ――人が物語を生み出すなんてことは、実はなかなかない。人生においてそんなことをする必要はどこにもないからだ。

 であれば、そこには必ず動機がある。


 フィクションの話で恐縮だが、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』で漫画家・岸辺露伴はその動機についてこう語っている。

「ぼくは読んでもらうためにマンガを描いている! ――ただそれだけのためだ、単純なただひとつの理由だが、それ以外はどうでもいいのだ!」


 『読んでもらうため』――崇高な理由だが、ヘンリー・ダーガーの場合は違っただろう。

 おそらく彼の物語は、彼が自身のために書いた、それだけですでに役目を全うしていた。

 だから彼は、捨ててくれと言ったのだろう。彼と共に在り続けたその物語を。



 ひるがえって私自身は、と考える。

 今私が書き続けている長編は――非常にありがたいことに――読者がいる。片手で数えられるほどの人数の。

 その読者が仮に百人だったら? 千人、一万人だったら? 何か変わるだろうか? 


 ――たぶん、何も変わらない。

 もちろん多くの人に読まれた方が嬉しいだろうが、それが作品に影響するとは思えない。

 自分が書きたいように書いている――もちろん他人が読んでも面白いよう、最大限の努力はしているつもりの――物語だ。千人が読もうが万人が読もうが変わりようはない。


 逆に、読者が0人だったら?

 ――たぶん、何も変わらない。

 書くのをやめようか、と思うこともあるだろうが。それでも変わらず私は書くだろう。

 私は自分の物語の結末を知っている。

 だが、その結末をまだ書いたわけではない。つまり、体験したわけではない。


 知識と体験との間には、常に無限の差異がある。

 書いてみればその結末は、構想とまるで違ったものになる可能性すらある――そこには無限の差異がある。

 私は、私の物語の結末を体験したい。



 なぜ書くかという問いに対する、私の答えはごく根源的なものだ。

『書かずにはいられないから』、ただそれだけだ。


 書きたくてしょうがないから書く。それを読む人がいようといまいと、そんなことは後で考えればいい。書きたいのだから。


 それは当たり前のこと。偽りようもなく、また人目を気にする必要もないこと。

 腹が減ったから食い、悲しいから泣き、うんこしたいからうんこするような……いや、最後のは人目を気にした方がいい。



 ……で、前段に書いたのと今書いた、二つの考え方。

 ――『物語は読み手に伝わることで完成する』とする前者の思想。

 ――『物語は作者が作ったことのみで完成し得る』とする後者の思想。

 これら二つは対立するように見えて、両立し得る。


 作者が作った時点でそれは『作者にとっての完成』。

 読者が受け取った時点でそれは『読者にとっての完成』。

 その二つは、全くの別物だ。


 たとえ『読者が0人だとしても、作者にとって未完成ということはない』。


 ならば、読者が千人だとしたら? 万人だとしたら? 

 そこにはそれぞれの完成があるばかりだ。一人一人別々の、千人いれば千通りの、万人いれば万通りの。

 それらは一つ一つ別の完成、別の体験だ。千あろうが万あろうが、一つ一つ別であることに変わりはない。


 『作者一人と作品という、一対一の関係』

 『読者一人と作品という、一対一の関係』

 があるばかりだ。その関係の価値を決めるのは常に

 『作者一人』

 『読者一人』

 その判断だ。


 読者が千あろうが万あろうが、そこにはその読者一人だけの価値があるばかりだ。

 それには決して、他者の価値まで累積されるわけではない。一人一人、全く別の価値が千なり万なり、あるばかりだ。



 つまり読者数一人の作品Aと、読者数一万人の作品B。

 『BはAの一万倍の人数に読まれている』ということは事実。

 しかしそれは『BはAの一万倍の価値がある、という意味ではない』。

 価値は一人一人が判断するものである。



(イ)

 この回答は、殊に木下さんらしいなと思う回答でした。哲学的でもあり、分析的でもあり、特に自分の気持に正直なところが「木下さんは勇気があるな……」といつも思う点です。自分の弱みってつい目をつぶってしまいますが、「自分は今どうして苦しいんだろう」というのを真っ向から考えられる人ってそう多くはないと思います。木下さんのそういった側面は作品にも現れているので、読んだ後に心に染み入るものがあるのだと思います。


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