世界で一番幸せな男 後編


 姪は、ついで七海のに向かって上体を折り曲げて、その小さな額をも撫ぜる。

 薄目を開けてみてみれば姪の顔はとても柔らかい笑みを浮かべていて――一瞬、それに見とれてしまった。

 慌てて瞼を閉じて、息を潜めれば、特に気づかれた様子ではないと知り、ほっとする。

 気づかれたとしても、別に悪いことをしているわけでもないのに、何だか、知ってはいけないことを知ろうとしてしまっているような、そんな気がして――だから慌ててしまったのだ。

 馬鹿みたいに。



 上体を戻すと、姪は両手を合わせて誰にともなく呟いた。

 その発せられた言葉を聞き、俺は驚く。

 なんてことをと、思ったのだ。


「――明日も皆が元気でいられますように」


 そして亡き妻の名を出されて、更に驚いた。


「七海と凌士さんのこと、どうか見守ってあげてください」


 明日も皆で元気に過ごせるように、そう締めくくるとまたふわりと笑って俺達のほうへと向き直る。

 そこへきて、起きていないと知っていて、俺達2人に言うのだ、お休みなさいと。


 お前ってやつは――なぁもしかして、お前は、毎日こんな風に祈っていたのか?


 確か姪は、別段宗教になんて入信していなかったはず。

 だとすると、ただただ自らが信ずる神に祈るのではなくて、遠い遠い国に旅立ってしまった亡き妻に、どうか明日も宜しくと、祈っていたと言うのだろうか?


 それも、俺達に何を言うでもなく、ただただ俺達のことを思って祈りを捧げてくれていたのか?


 なあ、×××・・・・俺は幸せだな。

 姪に明日のことを祈ってもらえて、お前に明日を見守ってもらえて。


 寝返りを打つふりをして、ごろりと七海のほうへと向いた。

 瞼の裏側からは、熱いものが後から後から溢れてきてやまない。

 姪は俺達の明日を祈っていることを、それこそ、知られたくないから、俺達が寝入るのを待って祈っていたのだろう。

 だとすれば、俺は起きていることを、今、悟られてはいけないのだ。


 だから、俺は声も出さずに、涙だけを、音も無くそのまま垂れ流し続けた。

 妻が死んだあの日以来、ずっとしまっていたものを、全部流しきっちまうくらいの勢いで、ぼろぼろと、止むことなんてねぇんじゃねぇのかってくらい、零し続けた。



 お前から、無条件で捧げられているその深い愛情に、俺は何処まで応えられているのだろうか?

 亡き妻の分さえも背負って愛してくれているお前に、俺は真実応えられていると言えるのだろうか?



 そんな姪は、今月の半ばを過ぎればもう、この場には、居なくなっちまう、んだな――


「凌士さん?寝ながら・・・泣いてるんですか?」


 怖い夢でも見てるんですかと、俺を案じて言葉をかける姪に、更に涙が溢れて止まない。

 寝てるって思ってるんだろうに、それでもお前は俺を案じて言葉をかける。

 思われていることが嬉しくて、けれど同時に苦しくて。


「居なく・・・なるな」


 がばり、体を反転させて姪の体を抱きこむ。

 急のことで驚きながらも、泣いている俺を見て怖い夢でも見たんですねと、あやそうとしてくる様子は、何だか俺に複雑な思いを抱かせた。


 ああそうだ、夢なら見たとも。

 お前が居なくなっちまう夢だ。


 4月になる前に、お前は俺の傍から居なくなっちまう。

 お前がどんなに俺を思ってくれていても、俺がどんなにお前を思っていてもだ――それは揺るぎの無い事実だ。


 怖くて怖くてたまらない。

 毎日お前が祈ってくれていたとしても、それは俺達の明日だ。

 お前の明日は何処にあるんだ?


 なぁいかないでくれ、頼むからいかないでくれよと、ぼろぼろと涙が溢れてくる。

 3月が明日と迫った今日のこの日、この時に、俺は何を今更になって考えてんだ。

 遅すぎるだろうと、馬鹿じゃねぇのかと己で己を詰りたくなる。


 今起きた風を装って、何で泣いているんだろうかとそんな顔をして、目の前の姪の顔を見やれば、怖い夢でも見たんでしょうと囁かれる。

 夢見が悪いなんて、何か昼間嫌な事でもありましたかと問われれば、さぁどうだろうなとはぐらかして、夢だと言って、お前に告げる。


 それは本当は夢の話なんかじゃなくて、


「お前が、居なくなる夢を・・・見た」

「そうですか」


 俺の本心、なんだろう。


「居なくなるな、居なくなるな。居なくなるな・・・ッ!!」

「怖い夢を見たんですね・・・大丈夫ですよ、俺は今、ここに居るでしょう?」


 子供みたいに泣くなんて、本当にどうかしたんですかと笑って言う姪に、もどかしい思いを抱える。



 そうだな、夢なんだ。

 怖い、夢だ。


「――すまん」

「いえ、ある意味、新鮮でしたから。さ、寝ましょう?」

「そう、だな」


 そうだ、これは怖い夢なんだ。

 夢、だったんだ。


 だから、この夢を現実としないために、俺の幸せを祈ってくれているお前の無垢な愛に応えるために、俺は俺の出来る、精一杯で応えよう。


「そうだ、これは夢だな」

「そうです、夢ですよ。もう、怖いものなんてないでしょう?さぁ、お休みなさい。起きたら何も、怖いものなんてなくなってますからね」


 お前がそう言うのであれば、俺は、これを本当に夢とするために尽力しよう。


 義理の兄と、姉と戦ってでも、お前を手に入れて見せよう。


 そして、これからも、ずっと、ずっと、一緒に――


「幸せ者ですね、叔父さんは」

「幸せだぞ?」


 誰にだって面と向かって惚気られる。


 誰かが俺を思ってくれてる、それがこんなにも力になるなんて、ついぞ知らなかったのだ。


「俺を愛してくれてるやつが居るからな。帰宅すれば可愛い娘に姪っ子もいるし、毎日の疲れだってな、帰ればふっとんじまうな」

「ほんっとやだやだ、平気で愛してくれてるなんて言うんだもんなぁ。少しは疑ってかかってくださいよ」

「あぁ?俺がお前らのこと、疑うわけないだろが?」


 お前が毎日祈ってくれてるって知っているから、俺は毎日だって頑張れる。

 俺は幸せものだ。


 世界で一番、幸せだ。


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