第15話
21時10分。
「コバー、俺帰るね、お先ー。」
蒼衣は完全にフリーズしていた。何がなんだか、
そんな蒼衣をよそに、当の在原はマイペースだ。
意図して残っているのか、本当に仕事が終わらず残業しているのかは定かではないが、とりあえずパソコンとにらめっこをしている小林に帰宅宣言して帰ろうとしている。
「あ、ちょ、在原、ちょっとまて?」
声をかけられた小林は、昨日の蒼衣の話と在原のことを把握しているからか、
「え?」
小林に手招きされて、「ん?なに」と近寄っていった。
一方の蒼衣は少し立ち尽くしていたが、はっと帰らないとと帰宅するためにやっと再起動スイッチが入った。
改めてデスクに戻り、
心ここにあらずとはこのことを言うのかというくらいに放心状態だ。
在原達が何を話しているかなんてことは、蒼衣に
「お疲れ様でーす。」
それとなく残ってる人に聞こえるように声を出してフロアから出た。
蒼衣はエレベーターホールで、エレベーターを待ちながら先程の会話を回想し始めた。
リフレインする在原の「俺だから」「尽くす」という言葉、そして嫉妬するような語気と態度。
これ以上踏み込むのは怖い。でも、答えはわかっている。それを形ある言葉にするのが怖い。
ぼんやりと回数表示を見つめながら蒼衣は思考をめぐらしていた。
蒼衣たちのオフィスは17階。
この時間になってもそこそこ忙しなく鉄の箱が上に下にと移動している。
何機もあるのだが、タイミングが悪いとたまに2分は待つ。
今がまさにそうだ。
伸びてきた後ろ髪を適当にまとめていた蒼衣は、思考を断ち切るように、ゴムを外しながら頭をガシガシして、結び癖をほぐした。
「あおいさん、髪キレイだよね、めっちゃサラサラだし。伸ばしてるの?」
「ぅええっ!?」
自分しかいないと油断していた蒼衣は、急に現れた在原に激しく驚き、出た声はエレベーターホールに響き渡った。
「いや、そんな驚かなくても。」
「驚くわ!いや、驚くわ!!」
「そんな2回も言わなくても。人をお化けのように。」
フフッと笑いながら蒼衣の動揺っぷりに、在原は笑顔になる。
「お、ラッキー、ちょうど来た。」
在原がホールについて、ものの30秒ほどである。
「なんで在原君はタイミングといい、省エネで済むんだろうか。」
思わずこぼした蒼衣に、なんのてらいもなく在原がいった。
「日頃の行いの成果かなー。」
「…もっかい言ってみ?」
蒼衣は自然と先に乗り込み、開くボタンを押しながら「1」のボタンを押し、在原が完全に乗り込んだところで閉まるボタンを長押ししていた。
以前まで蒼衣はカチカチと閉まるボタンを連打していた。しかし、意外とせっかちさんなんですねと言われることが多く、本当は連打したい気持ちを抑えて、早く閉まれと思いながら長押しするようになった。
「あはは、日頃の行いが省エネでできてるから。それにしても蒼衣さん、本当に髪キレイだよね。」
完全にドアは閉まり、エレベーターが静かに下に下がり始めた。このエレベーターに乗っていたのは蒼衣と在原のみ。
「そう?って、へっ?」
サラッと、それはごく自然に蒼衣の髪の毛を一束、そっと手に取った。そしてその毛束に在原は自分の顔を近づけて、香りをかいだ。
「いつも思ってたけどいい匂いだし。シャンプー何使ってるの?」
いくら伸びてきたと言っても、肩につくかどうかくらいの髪の毛だ。
「えっ、いや、えっと…。」
まるで髪の毛にキスをしているかのように見えるそれは、居所悪くチラッと見上げた回数表示の上に映るカメラが嫌に生生しく、視覚部を通して蒼衣の
人はなぜエレベーターで気まずいと思うと回数表示を見る癖があるんだろうか。
「あおいさん、下つきましたよ?」
「あ、え、あ、うん。」
そう言いながらもまだ突っ立ったままの蒼衣。完全にメンタルがショートしたといっても過言ではない。
「ぅおわっ!!」
エレベーターが閉まりそうなのを察してか、蒼衣の腕を引っ張り、在原はエレベーターから強制的におろした。
普段はそんな動きなんて微塵も見せないクセに。
キスされたかと思った。
なんならこの話するまで目も見なかった癖に。
見たことないほど優しい目をしてた。
省エネで自分から動かないくせに。
このまま…このまま?
悪態が浮かんでは、現実に起きている状況と感情に戸惑いと、蒼衣の精神状態は大忙しになっている。
「さ、帰ろう。」
しかし諸悪の根源と言っていい在原本人は何事もなかったかのようにしている。
蒼衣の腕を掴んだ手ははそのまま手首まで擦り落ち、その手首を離さずに握ったままだ。
オフィスで掴まれたときには冷たいと感じていた指先が、在原も緊張しているのか、それとも冷房から開放されたからか冷たさはない、むしろ在原の末端から熱く感じる。
「…。うん。」
在原に少し引っ張られるようにして、2人はビルを出ようとしていた。
「ちょっと、在原君、手っ!」
自動ドアの手前まできたところで蒼衣は我に帰り、手を放してほしいと訴えようとするが、単語でしか言葉が出てこない。
「俺はこのままでもいいんだけど。」
在原の言動はすべて核心をつかない。
外堀をじわじわと埋めてきて、逃げ場が見当たらない。
まるで砂場で遊ぶ棒倒しのようにじわじわと中心に追い詰められている。
「バーカ!」
完全に語彙力消失した蒼衣は、悔し紛れのように在原の背中を思いっきり叩いてやった。
「痛っ、ちょ、ちょっと蒼衣さん、それ酷い!!」
「んじゃ、また明日っ!」
21時18分
蒼衣は強がったものの、心臓がバクバクしたままだった。勢いそのままに駅の方に向かって逃げるように走った。
混乱のまま帰宅した蒼衣は、心ここにあらずで、汗をかいてしまったこともありとりあえずシャワーを浴びた。
しかし、髪を洗おうとすると、リアルにあの感触と空気を思い出す。
払拭するように頭をガシガシと洗って、落ち着くまでシャワーを浴びようとしたが、心のざわつきは1ミリも流れ落ちなかった。
ただ流れ落ちる泡をみていただけだった。
少し冷たいシャワーに変えてみたが、むしろ意識しないようにすればするほど、在原の声がリフレインする。
耳元で、いつもより甘く感じたあの声が、そしてそっと髪の毛に触れた感触が、目に映ったあの映像が。
今日のあの数十分間に起きたことすべてが走馬灯のようにフラッシュバックする。
たったあれだけの行為も、在原を意識するのには十分なものだった。
いや、意識どころの問題ではない。
明日から俺、どうすればいいんだ…。
蒼衣は布団に入っても、ずっと意識は在原のことばかり。
消そうとしても消えない、まるで初恋のようだと笑わざるを得ない。
何度も布団の中でゴロゴロと姿勢を変えながら、来ない眠気をどうにか呼び出し、空が白みかけた頃、ようやく、うとうとと眠気が来た。
十分な睡眠が取れないまま朝を迎えることになったが、蒼衣の心配の矛先はそこではない。在原と向き合えるかどうか、いつも通りに仕事が出来るかどうかだった。
会社に行くのが昨日よりも怖い。
その感情は、
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