たぶんヒーロー。

美咲☆@

第1話

───それは、まだ微かに寒さが残る夏の初め頃のことだった。


藍色を溶かし込んだ明け方の空に、ほんの少しだけ明るい空色がじゅわりと混ざり合ってゆく。

とはいえまだまだ早朝。依然として薄暗い影の落ちている街で、一本川の水面だけがキラキラと光る。

そのすぐ側の河川敷を一人の少女が跨る自転車が走り抜けてゆく。

カゴには大量の新聞紙を乗せ、まるで自分の見た目など眼中に無いかのような容姿で一心不乱に自転車を漕いでいる。

「6時までに届けなきゃ。」

荒い息をしてそう呟く彼女の額には汗が滲んでいた。そして特に考えもせずに左手の川に視線を向け、絶句した。

ただ乾いた風の音だけがこだまする河川敷で、不自然なほどはっきりとした水しぶきの音を聴いた。

「子猫…!」

最後の生命力を振り絞ってもがき苦しむ小さな命がそこにはあった。

早朝のこの時間、街はまだ眠っている。この光景を、この命を救えるのは彼女だけ。

考える暇なんて無い。文字通り一刻を争う。

先程までは元気の良かった水しぶきも、刻一刻と弱まっている。

次の瞬間、「ガシャーン」という自転車の横転する轟音と共に、川の水面が大きく波打った。

驚いて砕け散った川の水面の雫たちが、次々と岸に打ち付けられては消えてゆく。

「ぶは…はぁ、はぁ…っ、」

先程までよりも格段に息を荒くした少女の脇に抱えられていたのは、醜くずぶ濡れになった子猫だった。

水を吸って重くなった衣服のせいでぎこちない動きをしながらも、少女はなんとか自転車のある遊歩道まで丘を登り切った。

「なにか拭くもの…。」

キョロキョロと周りを見回す彼女だったが、周りにあるのはただひたすら草原だけ。そんなに都合良く近くにあるはずがない。

子猫は絶え間なく震えていて、息もどんどん弱くなっている。

「どうしたら…。」

不意に、項垂れる少女の背中がピクリと動いた。

「声が、聴こえる?」

恐る恐る振り返った彼女が肩越しに見たのは、遠くの方からこちらを目指して走ってくる一人の青年の姿だった。

青年はあっという間に少女の前まで来ると、鮮明になったその有様に息を飲み、数秒間考えた後、

「これ、着てください。」

とぶっきらぼうに言い捨て、自分の着ていた制服らしき上着を少女の肩に掛けた。

そのずしりとした素材に、青年が着ているのは警官服だと気が付く。

「こ、これ…良いんですか?」

「本当はダメです。それよりもその子猫。」

はっと我に返ったように少女が子猫を見ると、呼吸は少し安定してきているように見えた。

「署で保護するんで。貸してください。」

手招きのようなジェスチャーをする青年に、少女がそっと子猫を差し出す。

「では、俺はこれで…」

「あの!」

静寂をかき消すその声に、一瞬青年がピクリと肩を鳴らす。

「な、なんすか。」

「その、せめて連絡先だけでも!」

懇願する少女の勢いに、青年が眉間に皺を寄せる。

「別にお礼とか要らないんですけど。」

呆れたような青年の呟きも虚しく、結局は彼が折れる形でこの押し問答は幕を閉じた。

「わ、分かりましたって…、じゃあせめて俺の配属先の電話番号で許してください…ここに掛ければ大抵は俺が出ますから。」

「ありがとうございます。勤務中は暇なんですか?」

笑顔でとんでもない爆弾発言をかます少女と、ハズレと思いきや図星を絵に書いたような顔をする青年とでその場は一気に和んだ。

「と、とにかく!俺は忙しいんで!それじゃ!」

「あ、はい、またいつかー。」

やけに忙しいを強調した捨て台詞を残し、青年はさっさと姿を消してしまった。

「うわ、びっしょびしょじゃん私。…でもなんでかな、全然寒くないや。」

まだほのかに温もりを感じさせる大きな上着を握りしめ、散らばってしまった新聞紙を拾い集めた少女は、数分前とは比べ物にならないほどの笑顔で新聞配達へと戻って行ったのだった。

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たぶんヒーロー。 美咲☆@ @Saki0602

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