第10話

 早朝、栗の花の香りとともに目覚める。

国見くにみ

「ああ、寝苦しそうだったから、処理しておいた」

 平然として言う。

「ちょっと手を洗ってくる」

 洗ってきた手ぬぐいを干してから、座る。

「何。あんなものは、六木むつき君の鼻水と同じだよ」

 六木君が風邪をひいて、自分では鼻がかめない時、国見は鼻水を口で吸ってやっていたのだ。俺は、苦笑する。

「そうか、六木君の鼻水と一緒か…」

 寝起きで、頭がぼうっとしている。ああ、すずめが鳴いている。

「まさか、それで、お前は尻軽なのか」

「あまり口汚い言葉を使うなよ。若菜わかな君が哀しむ」

 あれは、自分の行動により、俺が発した言葉に傷ついたのだ。お前の性生活が乱れきっていることは周知の事実だ。だから、どうと言うことはない。

 言われた国見は、肩をすくめる。

「知らないということは悲劇だよ。夫婦の性格が合わないとか、どうも精子と卵子の相性が悪いとかならば致し方あるまい。だがね、処理の仕方がまずかったとか、抱き方を知らなかったとか、そういうのは違うだろう」

 畳を使うな、いきなり突っ込むなと指導しているらしい。

「それでは、まるで強姦だろうに。性別関係なく、怪我をする。口で言って理解できぬようなら、実地で試してやれ」

「うん、そういうケエスもあるね」

 春になると、やたらと漂白剤の減りが早いのだ。いつか荘司しょうじさまが零しておられた。やはり、赤面する。

「だから、橋本はしもと白妙しろたえの君を抱けばいいさ。うん、大学進学しても、京都から会いに来ればいい」

「あのなあ…」

 さすがに、顔をしかめる。

おか家は貸してやれないが、吉田家に行けばいいよ」

「若菜君は、喜んで貸しそうで恐ろしいな…」

 国見は、高笑いした。


 これは、いつか見た夢の続きなのだと思った。

 早起きして、弁当をこしらえる。お天気は、清々しい秋晴れ。愛する夫と可愛い子供。

 桜の紅葉の下を、六木君が先立って歩く。前方に、和服のご婦人。見返り美人とはこのことかと思った。どこか六木君を思わせる面差し。あっと思うと、六木君は駆けていた。

「ぼうや、お名前は」

 じゃれる子供をなだめながら聞く。

「六木です」

 遠くから、答える。

「そう、きっと暦の『睦月』でしょうね」

「えっと…。ええ、そうですね。本来は、そう書くのでしょうが」

 振り返り、夫を確認する。バスケットが重そうである。

「あっ」と夫の大声。彼は、弁当を放り出し、駆けていた。

 僕も、悲鳴を上げた。

 見ると、女の手には抜いたかんざし。今まさに、六木君の首に突きつけようとしている。

 六木君は、平生どおりでニコニコしている。そして、確かに言った。

「おかあさん」

 次の瞬間、女は自らの首元にかんざしを突いて絶命していた。

 生温い鮮血に塗れる六木君。

「若菜、おかあさん」と何度も、嬉しそうに言う。僕は、呆然として動かれない。

 吉田よしだ先生が、ゆっくりと現場に歩み寄る。呼吸と心音とを確認して、こちらにゆっくりと首を振って見せた。

 冷たいだろうが、川の水で六木君を綺麗にしてあげなさい。私は、警察を呼んでくるから。

 六木君を連れ出すのではなかった。

 どんなに可愛がっていても、結局、自分たちでは父や兄にしかなってやれない。六木君は、覚えていたのだ。自分を殺そうとした美しい母の顔を。それを、僕が殺した。

 一体、何を舞い上がっていたのだろう。

 吉田先生と同じ名字になった。しかし、それは、夫婦になったのではなく、実際には父と子である。それなのに、狂ったように抱き合っている。

「狂っているのだろうか…」

 地面に座ったまま、空を見上げる。真っ暗だ。色が、えない。

 心配した六木君が、血に塗れた手で頬に触れる。

「若菜」

「六木君。君はきっと僕を恨むだろうね」そこで、微笑む。「いいよ。いつか僕を殺しにおいで」

 それがたとえ自分の息の根を止めるためであっても、それでも、六木君は母と会えることが嬉しくて堪らなかったのだ。

 ようやく立ち上がる。まだ震えている。バスケットの中から、手ぬぐいを取り出す。血はぬるぬるとして、なかなか落ちなかった。

 六木君が、転がるおにぎりを拾い集める。

「うん、お母さんに分けておいで」

 動かぬ母の手に、握らせてやる。きっと、最初で最後の贈り物。

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