第7話

 実のところ、俺にとって小松若菜こまつわかなとは、特別な下級生だったのである。

 その証拠に、唯一、下の名前で呼ぶことを許していた。美陰学苑みかげがくえんとは、言わば旧式の女学校の男子版とでも呼ぶべき代物なのである。ほとんどの卒業生が、「嫁ぐ」のである。だから、大抵は、教師も生徒も下の名前で呼び合うものなのだ。

 俺は、今生で独身を貫くことを決めていた。だからと言う訳ではないが、皆には「橋本はしもと」と名字で呼ばせた。

 ある日、小松若菜は言った。

「橋本先輩の下の名前の由来は、きっと梅の花でしょうね」

 何せ、万葉集で「花」と言えば、それは「桜」ではなく「梅」だからである。

「そうか。桜ではなくて、梅か」

 突然、視界が開けた想いがした。

「橋本先輩は、ご存知ですか。教師陣は、下級生を指導するのに、模範生としてよくあなたの名前をあげられるのですよ」

「いや、俺などより国見くにみのほうがよほど…」

 言いさして、俺は考えた。確かに、成績は優秀ではある。小さい子の面倒もよく見る。寮での家事も、率先して行う。しかしながら、決して模範生ではありえないのである。苦笑する。

「あいつは、その…。適当に遊んでもいることだしな。いや、それが悪いという訳ではないよ」

 むしろ、遊びくらい知らないと、後々困るのである。

白妙しろたえきみを助けて下さり、ありがとうございました」

 若菜君は、心から微笑む。

「ところで、春香はるか先輩とお呼びしてもよろしいでしょうか」

 俺は、息を呑んだ。悪意はないのだ。俺は、渋々、了承した。


 夕食後の、談話室。傍らには、いつもの仲間。ずっと何事か話し合っていたようだが、意を決して、俺に代表者が話し掛ける。

「また国見が何かやらかしたのか」

 国見は、自室に戻っていて居ない。俺は、首を振る。

「それは、いつものことだ。今更、目くじらを立ててどうする。俺が、怒っているのは、小松のことだ」

「小松? あ、若菜姫か…」

 それっきり、黙り込む。

「なあ、昼間、何があった。荘司しょうじさまの部屋から、六木むつき君の忘れ物を取りに行って以来、ずっとその調子だろう」

 うんざりした。俺は、言葉を選んだ。

「部屋には、国見と小松が居た。栗の花の匂いがして、敷布は赤く汚れていた」

 暗に、情事の現場に出くわしたと示したのだ。阿保な友人らは、顔を見合わせて、再び俺を見る。

「ワセリンがあった」

「ワセリン?」

 かまととぶっているのか。こいつらは。本気で、かちんとくる。

「お前ら、官能小説の一冊でも読めよ。これから、婿に行くのだろう。一般教養だよ」

「図書室にそんなものはない」

 色めきたつ。

「馬鹿か。春画の類いなら、普通、先輩方から秘密の置き場所を教わるだろうが。高校生にもなって、何故、知らないのだ」

 友人の間から、どよめきが上がる。

「え、すると、稚児宣言とは、そんなおいしいことを教わるのか」

「稚児でなくとも、部活やら、委員会やらあるだろうに。お前ら、今まで上級生から誘われたことはなかったのか。勉強を教えるだの、なんだのと」

 あれは、そういうことだったのか。今から、相手を探して。いや、今時、婚約指輪をしていない人など、ほとんど居ないぞ。

「だって、俺たちには、国見と橋本が居たから…」

 半べそをかいて言う。しょうがないので、俺は春画コレクションの隠し場所をいくらか教えてやった。

「ところで、先輩とはどこでそんな話をするのだろう。話だけならまだしも…」

 俺は、溜息を吐く。

「誓約書を書かされた時に、教わっただろうに。仮眠室には、鍵のかかることを」

 やはり、声が上がる。阿呆ばかりである。しまいには、俺に性的なことを教授してくれとまで頼んできた。俺は、座したまま、上半身を引く。

「うん、同級生を抱くのはちょっと嫌だな…」

「どうして」

「授業中に、ムラムラしたら嫌だろう」

 だからこその、稚児宣言でもある。恋人になるのでなければ、普通は忌避されて然るべきなのである。

 やがて、友人らは悟ったようだった。

「若菜姫が、国見のやつに抱かれたのか…」

 俺は、頷いた。

「だって、おかしいではないか。二人とも、外に決まった相手が居るのだぞ。何も、処理するだけなら、俺は…」

 悔しさに、咽び泣く。

「俺は、言ってやった。お前ら二人が破談になったとして、それは自業自得といったものだ。俺の知ったことではない。だがな、香里かおり嬢には国見しか居ないのだ。それをお前は、一時の快楽のために、国見に色目を使ったのか。この、*バズレが」

 小松若菜は、ひどく傷付いた顔をした。国見は、平然と言った。

「若菜君は、のだよ。慣れておいて、損はしないだろう」

 俺は本来の目的も忘れて、部屋を飛び出していた。

「ところで、誰か食堂で小松を見たか」

 皆が、否定する。

「誰か、食事を持っていってやれ」

 ほうと、誰かの息が洩れる。

「橋本は、怒っていても優しいのだな」

 俺は、立ち上がった。

「誰か、部屋を交換してくれ。今夜だけは、国見の顔を見たくない」

 友人の一人は、簡単に応じた。

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