第3話

 六木むつき君が、美陰学苑みかげがくえんに来てから、数年の月日が流れた。

 学内のマドンナ的存在、「若菜姫わかなひめ」こと小松若菜こまつわかなは驚いていた。

 放課後になり、校庭の片隅で紙芝居を楽しんでいる子ら。

 脳内で、目の前の少年と、かつての美しい赤ん坊とを比較する。

「あの子、六木君ですか」

 私は、簡単に頷く。

「歩いているじゃないですか。まるで、普通の子供ですよ!」

 若菜君は、私の肩を揺さぶった。私は笑いながら、手を外す。

「全て、橋本はしもとの手柄だよ」

 当時、私はとにかく「六木君に食べさせること」のみに苦心していた。逆に言えば、それ以外は無頓着だったのである。

 六木君は、美陰学苑の「荘司しょうじさま」と一緒に寝起きをしており、とりあえずは食事以外での世話係が存在したのである。また、私には、六木君以外にも面倒を見なければならない少年が複数あって、その子らに嫉妬されても面白くないと考えあえて割り切った対応をしていたのだ。

 橋本は、元来、根が真面目な男である。

 物を食うようになって、体力のついてきた六木君を教育しようと考えたのである。六木君は、ほとんど言葉を解さなかった。なので、橋本は食べ物を使った。まずは、ハイハイ。次に、つかまり立ち。

 そして、今に至る。ちなみに、橋本がおやつに与えたのは、細長く切られたするめである。

「へえ、まるで奈良公園の鹿みたいですね」

「そう。子供が、鹿せんべいで鹿をつって、自分のあとを歩かせているのを見て思いついたそうだ」

 六木君と、鹿。どちらも、大変見目麗しいでしょう。

「するめを噛んで、あごが発達したらもっと美味いものも食べられるだろうし」

 橋本は、するめの次には、干し鱈や鮭とばを食べさせる気らしい。

 それでは、将来、六木君は酒飲みになるでしょうねと若菜君が笑う。

「鹿と言えば、六木君にも見せたいがなぁ。あの子は、まだ危機管理能力がないから。とりあえず、走れるようになってからでないと心配で」

「鹿なら、早朝、ここまで草を食みに来ていますよ」

「えっ、それは知らなんだ…」

 若菜君は、大変愛らしい。万葉集において、「若菜摘」は帝に見初められた少女のことである。名前や住所を聞きたくなるのも解るというもの。

「僕は、ピアノの早朝練習があるもので」

 生徒らが寝起きする寮から離れた位置にある特別音楽室。主に、音楽の才ある子らが使ってきた。

「ピアノの先生とは、どうなの」

 若菜君は、笑いながら首を傾ける。大阪から来る吉田よしだ先生。若菜君と、吉田先生とは恋仲である。芸養子になることは確定しているが、時期は未定である。高校卒業までは、美陰にいると決めているらしい。私は、首を傾げる。

「別に今すぐ一緒に住まずとも、養子縁組はできるのでは」

「ここには、大好きな先輩方がいますから」

 そう言って、上目遣いに見つめる。うう、くらくらする。しまいには、耳元で囁く。

「私に気兼ねせずに、独身時代を謳歌しなさいと」

 私は、瞬きした。胸の前で手を握り、婚約者を想った。思わず、空を見上げる。

「若菜君の夫君となる人は、大人だなあ…」

 若菜君の笑い声が、耳に心地好かった。

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