5-2

 そういえば、俺は女に名前を聞いていなかった。埼玉の出だってことも聞いていない気がする。いや、聞いたっけ。どっちだったか。どっちでもいいし、なんでもいい。


「ドラマとか小説って、舞台は地味な方がいいんじゃないのかな。だって主役は人間でしょう。東京が舞台でも、千葉の海岸が舞台でも、結局は人間の話じゃん」


 女はまた笑う。何がそんなに面白いのかな。でも、波の音に混じったそれを聞いていたら、不思議と、さっきまで感じていた苛つきは消えて無くなっていった。


 いい加減なもんだ、人間の感情なんて。


 女は防波堤にたった。俺は座ったままだから、目線はだいぶ違っている。俺も立ってみようかな。今よりは遠くまで見渡せる気がする。彼女は紺のコートに、デニムのロングスカート、そしてニューバンランスのスニーカーを履いている。


 防波堤の上、俺の足は砂浜には届かない。海を見ると、サーフィンをしている人たちがいる。十月に入れば季節はもう秋の終わりで、十二月にでもなれば山梨は雪が降る。


 それでも十一月の今、サーフィンをしている人たちがここにはいる。寒くないのだろうか? それとも寒さを上回るくらいにそれらは楽しいのだろうか。彼らに聞くほど、このことに興味があるわけではないから、自分の中で浮かんでは消える問いと同じようにそのうちに消るだろう。しかしながら、そこに本当に大事なものがあったとしてたら、気が付かないのかもしれない。


「ねえ、これからどうするの? 一応、ここが目的地なわけだけれど」


 彼女の声は遠い。潮風のせいだ。


「そうだな。そうだ」


「うん」


「名前……」


「名前?」


「名前を聞いてなかった」


「美崎怜」


「みさき・れい……いい名前だ。俺は高橋亨っていうんだ」


 確かバッグに携帯灰皿があったはずだ。取り出して煙草とライターで火を付ける。……そういえば一本怜にあげたな。怜は煙草を吸わないのかもしれないな。だとしたら悪いことをした。そういうことしてしまうのも、全部、結局は俺が他人に根本的に興味がないからだろうな。


 海の風に乗って、煙草の煙が流れていく。この煙、遠くまで届けばいい。しかしどうして、俺は煙草なんて吸っているんだろう。毎回少なくない金を使って。しかもこの金の出どころは両親から、と来たもんだ。他人の金で無駄を買っているわけだ。馬鹿だよな、明らかに。


 波はずっとこっちにきたりあっちに行ったりしている。不思議だ。海では、ずっとこうやって時間が過ぎていくのだろうか? それを考えると本当に不思議だ。波は何度も繰り返しているけれど、無しか生み出していないみたいに見える。だからこそ、俺は今海に虜になっているんだ。とりつかれているって言っても良いかもしれない。


 俺は今まで、本当に何もしてこなかったし、これからもきっと何もしないのだろう。別に許して欲しいわけじゃないし、祈りを乞うわけでもないけれど、そこには救いがあるような気がしているんだよ。それはどの程度の救いかって? そうだな。俺は死ぬためにここまで来たわけだけれど、それをやめても良いかもしれないって思うくらいの救いだ。


「煙草、消えているよ」


 怜が横目で見たのだろう、確かに俺の唇にある煙草はすっかり消えていた。変だな、こんなこと今まで一度だってなかった。波飛沫がここまで来て、俺の煙草を消したんだろうか? あり得ない話だけれど、今ならそれだって信じれる気がした。


 これ、多分二回くらいしか吸っていないんじゃないだろうか。煙草……これだってとにかく不思議だ。巷では薬物だからやめられないって言っているけれど、果たして本当にそうか?


「それにしてもいい天気だな。こんな日だからこそ、こうやって晴れてくれて嬉しいよ」


 俺はもう一度火をつける。


「そうだね、でも少し風が冷たいね」


「俺は山梨育ちだから寒いのには慣れているつもりだったけれど、山の寒さと海の寒さは種類が違うみたいだね。海の冷たさは暖かい冷たさ。山の冷たさは寒い冷たさ」


「へぇ、それは面白いね。今度そのテーマで論文を書こうかな。あるいは、小説をさ」


 論文や小説を書く……俺の想像の範囲を遥かに超えている。それを書くことで彼女は、世界が変わるのだろうか? でも、小学校の頃だって点数の良いテスト用紙一枚で、全てが変わっていた。だから、そんなことだってきっと可能なのだろう。


「どこの出だって言ったっけ」


 さっきの煙草を消して、また煙草を吸おうかどうしようか、でも隣に怜がいるからな。煙草を吸わない人に悪いと思ってしまうんだよな。ほら、吸った煙より燃えている煙の方が害が大きいって言うだろう。俺もちょっと肺が痛い。そろそろ潮時かもしれない。


「私? 埼玉だよ。今は都内にいるけれど、大学が近くってだけで住んでいるから、東京が特別に好きってわけでもないかな。だからと言って地元も別に好きではないけれどね……ああ、いいよ吸っても。副流煙がどうこうなんていうつもりはないよ」


 怜はそう言って笑ったが、俺には副流煙という言葉の意味がよく分からなかった。こういう時、まともに学校に行っておけばよかったと思うこともある。でもそんなのは俺の生活での三十五分の一くらいしかないわけで、そのためだけにする行動としてはあまりに効率が悪い気がする。


「そう、じゃあもう一本だけ」

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