5-3
風がやんだ。火をつけると煙が空に上がっていく。これと、あと自分が煙を吐き出すこと、この二つが好きなんだ。どうしてこんなにも煙草は悪者になっているのだろうか。病気になるから? でも生きていることだって十分病気だぜ。
「そんなに美味しいの?」
怜はクスクスと聞こえてきそうな表情で笑う。俺はやっぱり、さっきまでの苛つきが全く、なくなっていることに気が付いた。
「いや、そんなことはない」
「へえ、じゃあどうして吸っているの?」
うまく言えなさそうだから、それには答えないことにした。
「埼玉には海ってないよね。俺、山梨のこと以外よく知らないんだけれど、それだけは良く聞くんだ。山梨にだって海はない。山はあるけれどね」
「ないね。埼玉も、西に行けば山はあるけど、それだけ。でもいいところだと思うよ。ただ私が好きになれなかったってだけ。じゃあ好きな場所はって聞かれても困るんだけれどね。そんなの、もしかしたらどこにもないかもしれない」
怜は寂しそうにそういった。他人の寂しさを俺が感じるなんてどうしたんだろうか? 俺が怜の存在に慣れたってだけなのか。
「吸う?」
期待は出来ないが、聞かないわけにはいかなかったんだ。だって、俺が今彼女に差し出せるものってこれしかないんだからさ。
「私、煙草は吸わないんだ、さっき貰ったのはまあお守りみたいなものかな。どこかのタイミングで、火だけつけて灰にしてもいいかもね」
俺たちの目の前で、大きなサーフボードを持った波乗りが『今日はいい波が来ている』と言いながら海に入っていった。彼らの目は輝いていた。怜とは、どうも会話が噛み合っていないけれど、悪い気はしない。怜もそう思ってくれていると良いけれど。でも、そんなことは思わねえだろうな。俺ならそう思うもん。
「寒くないかな」
「うん、大丈夫」
怜に向かっていったわけじゃなかったが、訂正するのもあれなのでそのままにしておこう。少なくとも、今までの会話よりは繋がっている。怜はスマートフォンを取り出して何か見始めた。
「見て、ここからなら、私の住んでいるところまで三時間かからないからまだ時間はあるよ」
「そうか、俺はもう家に帰るつもりはないから、申し訳ないけれど帰るときは一人で帰ってくれないか」
俺が言うと怜は頷いた。俺の言っていることが通じたのだろうか。その割には特にリアクションはなかった。俺は自分の死に場所として海に来たつもりだったが、気分が変わりつつあることもあって、それを誰かに止めてもらいたいのだろうか? しかし、さっきもそうだったけれど、それを認めると、自分の今までの存在意義が崩れてしまいそうで手が震え出した。
煙草を持つ手が震え、灰が地面に落ちる。どこまでそれを見ていたのかわからないけれど、その手に怜の手が重なった。俺が海から彼女に視線を移すと、彼女は俺の方から海に視線を移した。電車の中でもこんな感じだったな。目を合わせない、今日知り合った他人とのコミュニケーション。
これって、俺は何も言わなくてもいい、ということなんだろうか。俺はこういうとき、いつも何も言ってこなかった。だからよく分からないセックスを繰り返す羽目になったんだ。いつもいつも。
俺の考えていること、というか、誰かの考えていることなんて、他人には絶対、百パーセント通じない。一パーセントだって怪しいもんだ。俺は今まで色々な人に正直に会話をしてきた。
でも、誰も俺に歩み寄ろうとはしてこなかった。ずっと孤独だった。だから学校だって行く気にならなかった。一人で生きていくには、少年時代は長く、厳しすぎた。両親もそのうち俺を腫れ物扱いしだした。家にいても孤独だった。今なら、人は独りだということも信じられる。でも一〇代の俺にはそのことは難しすぎたのだ。
仮に友達がいればもっと違っていただろうか? いや、その設問自体が間違っているんだ。俺には友達ができるはずがない、だって他人を根本的に信じていないんだから。そんなものを信じていない奴が、いくら本音を語ったところで誰もまともなリアクションを返してくるはずがない。
自分のことだけを優先して、そのことしか考えてこなかった俺には、今の孤独がぴったりなのかもしれない。
「大丈夫、ありがとう」
でも俺はそう言ったんだ。言ってしまったんだ。怜は俺を見て微笑んだ。不思議な娘だ。二十歳くらいだろうか。それなのに俺よりずっと大人っぽく見える。昨日のパチンコ屋であった若い女、セックスしている時、あいつに俺の身の上を少しだけ話をした。
あの女の感想は『いろいろと経験しているんだ。あしちでは想像できない』だった。事実、自分の過去が故に、自分を大きいものだと自覚していた俺はそれを聞いていい気になったことは事実だ。
いろいろな経験をして、人生経験を積んだ俺が、世の中に絶望して自殺する。自ら死を選ぶという行為に酔いしれていた俺には、それが正しいと思い込んでいた。
しかし、果たしてそうなのだろうか? 鞄からスマートフォンを取り出してみる。電源は生きている。何も触ってないから当たり前だ。ここまで来る方法も全部駅員に聞いたし切符は現金で買った。そして誰からも何もない。親からの着信もメッセージもない。何もない。通知なんて、このモデルにはそんな機能はありませんと言わんばかりに沈黙を、機械が貫いている。
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