神の実験

 ある日、男は選ばれた。意図的にか、それとも偶然なのか。とにかく、その存在は突然目の前に現れた、その何かに言われたのだ「おめでとう」と、何の感情もなく無表情なそれはただそう言ったのだ。


 その日から、男は存在しなくなった。誰かに話し掛けても気が付いてもらえず、例え直接触れたとしても相手は、それすらわからない。人の記憶からも消え、自身を知るモノは誰一人としていなくなったのだ。


 世界に男のことを知るのも、理解できているのも、その男ただ一人。男は人々が行きかう街中で、何をするでもなく呆然と立ち尽くす。


 どうしてこうなっているのかは、当の本人でさえ説明できない。ただ、自分が何をしたとしても、きっと誰も気が付くことはないのだ。


 しかしながら、それは生への執着を捨てて、世捨て人同然のような暮らしをしていた男には、何も一つ変わることのない世界だったのだ。何にも興味はない、何の欲もない、全てが億劫で、何かに関わることがひどく面倒で様々なモノを捨てて来たのだ。


 男には、この状況さえもどうでもいいことなのだ。男は考えることを止めると、ふらふらと街中を歩きだした。


 そんな、ある日のことだ。男は道端に倒れている少女を見つけた。息が荒く、脂汗を流し、苦しそうに胸を押さえている。


「どうせ、俺には関係ない……」


 そうさ、少女も気が付いてはいないのだ。だから自分にはいつも通り、関係ないことなのだ。


 男は少女から視線を外すと、再びふらついて歩き出す。


 その時だった。


「助けて」


 弱々しく、か細い声が男の耳に聞こえた。それが自分に向けられているはずがない。男はそう思いながらも、振り返った。すると、確かに少女は自分を見つめていたのだ。


「助けて」


 少女は再び、男の目を見つめながらそう言った。


 男は少女を見つめ返すと、しばらく黙ったまま立ち尽くす。そして、ふと何を思っていたのだろうか。男は近くを歩く青年のポケットから携帯電話を取り出すと、電話を掛けていたのだ。ぶっきら棒に用件だけを伝えると、手に持つ携帯電話を放り投げる。


 男はそのまま、少女へと背中を向けると、再び歩き出した。


 しかし、数歩行った先で、男は立ち止まった。電話の向こう側には、自分の声は届いてはいないのだと。誰かが少女を助けに来ることは、決してないのだと。男は気が付いてしまったのだ。


 男は背中越しに少女を振り返った。そこには、まだ苦しみ続ける少女の姿がある。


 男は何を考えていたのだろうか。触れることさえできないはずの少女へと駆け出すと、その手を伸ばしていた。するとどういったことなのか、男は少女を抱きかかえると、そのまま病院へと走り出していたのだ。




 病院に着いた男に、やはり誰も気が付きはしなかった。ロビーの中央に少女を寝かせ、男が離れると、ようやくそこで看護士が駆け寄っていった。


 そこで男は、ふらついた足取りで病院の外へと歩き出す。


「おめでとう」


 その瞬間だった。男の前に、再びあの存在が現れたのだ。


「おめでとう。あなは救えるモノを見捨てない選択をした。あなたは、あなたのナカにあるモノを捨てずに踏み止まった」


『おめでとう、おめでとう――』


 その存在は、あの時と同じように表情も変えず平坦な声でそう告げると、男の顔の前で指を鳴らした。




 男は気が付くと、踏み台の上で呆然としていた。


 しばらくして、男はそこから降りて、扉へと向かい歩き出した。


「ありがとう」


 男は、静かに呟きながら、扉の向こうへと踏み出した。

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