第30話 随分と聞き慣れていて


 勉強を始めて三十分後。


 コン、コンと。シャープペンシルのペン尻でノートを突っつく音が聞こえる。どこか分からない問題があった時に、蕎麦がいつも癖でやっていることだ。この癖はいつからなのだろうか。随分と聞き慣れていて、安心感と妙な生々しさがある。


 と。不意に、柏木さんが参考書を指差して訊いてくる。


「ねぇ、カスミ……ここのさ。hadが二つ続いてるのって、なんで?」


「ん。ああ、そこはな。仮定法過去完了って言って、助動詞のhaveの過去形のhadと、その後に続く動詞の過去分詞のhadが重なってるだけだ。過去に起こらなかったことを仮定して話すときに、hadを使って過去形にする。『If he had had a vacation, I would not have been bored.』もし彼が休暇を取っていたら、私も退屈しなかったのに。みたいな感じだな」


 サラサラと付箋にメモを取り、柏木さんのノートに貼り付ける。


「おぉ〜。ありがとう」

「ああ。でもそこは高二の範囲だから、今は気にしなくていいぞ」

「へぇ……てことはカスミ、高二の範囲までやってるんだ……すご」


 やっていることは、基本的にはHiscodeのVCボイスチャットでやっていた勉強会と変わらない。依然として隣からは黒鉛を引きずる音が聞こえるし、シャーペンをノックする音も、消しゴムで間違えた箇所をこすって消す音も、スピーカー越しに聞いたあのままだ。――唯一、違う点があるとすれば。


(さっきから隣で凄い良い匂いがする……!)


 そう。一緒に勉強をしているのが柏木さんであることだ。いや、厳密には前々から一緒にやっていたのだが、それは俺が蕎麦と柏木さんをイコールで結ぶ前の話な訳で。頭の中では分かっていても、どうも視覚がこの二人を同一存在だと認めない。


 目を瞑れば、一緒に勉強しているのが蕎麦であり、目を開けば一緒に勉強している相手が「棘姫」。脳がバグらない方がおかしいというものである。


 ぱたん、とシャープペンシルが倒れる音が聞こえる。


「あ、そうだ。今日の昼にね、碧獣に千乃ちゃんと辺君も誘ったんだけど、二人ともテストが終わったら遊ぼうって言ってたよ」

「お、そうなのか? 二人ともってことは……俺が帰った後か」

「そうだよ。学校でも最近碧獣が流行ってるみたいでね。辺君は結構乗り気だった」


「辺はゲームとかあまりしないタイプだと思っていたけど……意外だな」

「千乃ちゃんの方はそうでもなかったけど、私がしてるならあたしもしたいって言ってたよ」


「へぇ……柏木さん、山崎に随分懐かれてるんだな」

「へへ。全部カスミのおかげ」

「俺のおかげ? ……俺は何もしてないぞ、別に」


 俺がしたことと言えば。

 あの辺と山崎バカップルのいちゃいちゃを間近で見ていたことだけだろう。


「そんなことないよ。私があの二人と仲良くなれたのは、カスミが居てくれたからだよ。本当の自分になれたのも、あの二人と打ち解けられたのも。だから、カスミには感謝してるんだ。本当に、頼れる相棒って感じだね」


 柏木さんは微笑みながら、何の恥じらいもなく言って退ける。ノートの隅に、小さなベアートリスと拳を突き合わせる、盾を持ったこれまた小さな騎士の姿があった。


「お前……よく人前でそんな恥ずかしいことが言えるな」


 紡いだ言葉は尻すぼみになって、柏木さんにはよく聞こえなかったらしい。


「ん? なんか言った?」

「何でもない。ほら、手止まってるぞ。一緒にやるんだろ、ゲーム」

「あ、うん」


 恐らく最高潮に赤面したであろう俺の顔は、柏木さんには見られていないはずだ。



 ◆◇◆



「ふぅ……やっと終わったな」


 シャープペンシルを置き、パタンと教科書を閉じる。


「今何時だろ。わ、もう七時半だ。カスミ、家の方は平気?」

「ああ。帰っても俺しか居ないし……長居するのも悪いし、そろそろ帰るか」

「もう少し居ても良いのに……」

「流石に悪いだろ。もうすぐ夕餉ゆうげの時間だろうし」

「それはそうだけ――」


 ガチャリ


 ドアが開いたかと思えば。穂乃香さんが、ドアからひょっこり顔を出す。


「――葵。ご飯できてるわよ」

「あ、お母さん! 入るならノックくらいしてよ」

「あら、ごめんなさい。あ、そうだ――」


 穂乃香さんはパンと手を叩き。


「カスミ君も一緒にどうかしら、お夕飯! 今晩はビーフストロガノフなの。きっと気に入ると思うわ~」

「え、いや。悪いですよ!」

「そんなことないわ~。葵のお友達だもの。おもてなししないとねぇ」


 それを聞いた俺は血の気が引いていくのを感じる。


「手土産も無しにお邪魔して、その上お夕飯まで頂くなんて。図々しいですよ」


 柏木さんに救いを求め、目配せをするも。


「良いじゃん、カスミ。一緒に食べようよ、ご飯」

「はぁ――?」

「どうせ家に帰っても、カップ麺とかで済ませるつもりでしょ?」

「うっ……」


 柏木さんのその言葉を聞いて。穂乃香さんの顔色が変わる。

 穂乃香さんは今まで聞いたことのないような素っ頓狂な声を上げ――。


「えぇ!? カスミ君、お夕飯をカップ麺で済ませてるの!?」

「あぁいや、これは――」

「だめだわぁそんなの! 育ち盛りだもの! 遠慮なんてせずに食べていきなさい」

「そうだよ。カスミは育ち盛りなんだから。不健康な食生活しちゃだめだよ」


 ダメだ。完全に二対一になってしまった。


「さ、その荷物は置いて。二人とも降りてきなさい」

「はーい。ほら。行くよ」

「あ、ああ……」


 結局断り切れず。俺達はダイニングに向かった。



 ◆◇◆



「じゃあ。また後でね、カスミ」

「ああ。また後でな」


 玄関の前で柏木さんが見送ってくれる。


「お邪魔しました」

「うん。またいつでも来てね」


 ガチャリと玄関のドアを開け、外に出。小さく手を振る柏木さんに手を振り返した後、玄関のドアを閉めた。


「……はぁ」


 結局、ご飯をご馳走になってしまった……。でも、美味しかったな。食卓について夕食を取るなんていつぶりだろうか。間違いなく久しぶりだ。あんなにお腹いっぱい食べたのは。

 いつもはカップ麺、マシな日はコンビニ弁当だったから物足りなかったのだ。


 食事中の穂乃香さんは凄く上機嫌で、俺が「美味しい」と言うたびに「まあ」「あら、そう?」などと嬉しそうに反応していた。

 柏木さんは黙々と食べていたが、学校での「棘姫」のような表情は全くなく。穏やかに、食事をする俺と穂乃香さんを眺めていた。


 そうか。柏木さんにとって、ここは大事な場所なんだな。そう思った。


 柏木家の敷地を出て、住宅街の道路に差し掛かる。

 現在の時刻は午後八時五十分。夏に差し掛かったこともあり日が傾くのは遅いにしろ、この時間は完全に真っ暗だ。


「ふわぁ……」


 集中と食事による満腹感で、睡魔が一気に押し寄せた。これは、ゲームする体力残ってるかなぁ……。


 ◇◇◇ ◇◇◇


 面白いと感じて下されば、★、♥、フォローなどで応援お願いします!!


【追記】


 明日も投稿できるかも……です。いきなり英文法の話が出てきてなんじゃこりゃと思った方、僕もそう思っているのでご心配なく。

 読者の方々が僕の小説でニヤニヤしている間、僕は読者の方々からくる応援コメントにニヤニヤしております。最近はコメント返しも出来なくなりましたが……。

 一つ残らず拝見しています。いつも読んで頂き有難うございます。やっぱり、持つべきものは感性の合う読者さんですよね。全く。


 最後に。

 切実に★がほしいです。面白いと思っていただければ、★★★お願いします。

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