棘姫と一つの傘
第13話 薄紫色の折り畳み傘
◆ 冬城佳純視点 ◆
放課後。
図書室の整備を任せられた俺は、辺に手伝ってもらいつつ、棚の整理をしたりデータのやり取りをしたりしていたこともあり、結果的に、帰路につくのが五時になってしまった。
俺は目の前の土砂降りの雨を前に呆然と立ち尽くしていた。
「凄い雨だな……」
天気予報は大ハズレだ。
「はぁ……俺、傘持って来てないぜ……。冬城は?」
「一応持って来てる」
「まじか!? 相合傘しようぜ!」
「はぁ……別に良いけど」
ため息を吐きながらカバンを漁ると、俺は異変に気が付く。
「あれ……? いや、そんなはずは……」
「どうした、冬城。……もしかして、忘れちまったのか?」
「いや……逆だ」
カバンの中には、モスグリーン色と薄紫色の折り畳み傘が仲良く入っていた。
「失くしたと思っていた、初代も一緒に入ってた」
「初代?」
「ああ。母さんがずっと昔に買ってくれてな。失くしたと思ってたのに……ともかく、これで相合傘は回避できるな」
そう言って俺は、辺に新品の方を手渡す。
母親が買ってくれた方の折り畳み傘は、手によく馴染むのだ。昔はよくこれを差して、羽成と小学校まで登校した記憶がある。
「
「月曜に返してくれれば良いからな」
「おう!」
辺は意気揚々と傘を広げ、俺もそれに続く。
昇降口を出たところで、屋上に続く階段に誰かが座っているのに気が付いた。
「おい、あれ……「棘姫」じゃないか?」
「ん。――ああ、本当だ」
「あんな所に座って……何してんだろうな?」
辺はまるで俺に問いかけるように、ぼそりと呟く。
「何って、人を待ってる、とか?」
「よく考えてみろ。あの棘姫が誰かと帰ってるところなんて見たことあるか?」
「それもそうか……。じゃあ、何だ?」
「答えはもう出てそうだがな」
「……傘を忘れた?」
辺はニヤリと笑う。
「冬城。その傘、貸して来いよ」
「え、は?」
「あの棘姫に恩を売っておけば、何か良いことがあるかもしれねーぜ?」
「んな打算的な……」
だが、悪くない提案だ。
確かに、俺と辺で相合傘をすれば、柏木さんはこの傘を差して帰れるだろう。時計はもう五時を回っているし、今日は豪雨の影響で部活動も行われていないこともあり、今から帰る生徒はほとんど居ない。
ここで柏木さんを見捨てるのは、あまりに酷だろう。
……こういう時、
あいつは、そういうことが出来る奴なのだ。それが、俺があいつを尊敬している点の一つでもあるし、間違いなく、あいつが美徳とする所の一つだ。
だから、俺も見捨てない。
「辺。ちょっと待っててくれ。行ってくる」
「んおっ。男を見せる時が来たな、冬城ぃ」
「うるさい。恰好付けたいわけじゃないぞ。ただの人助けだ、単なるな」
辺にそう言い返しつつ――いや、自分に言い聞かせているだけ、だろうか。
「ふふふ……そうかそうか」
ぱちゃぱちゃと水たまりが音を立てる。
傘を差しながら、階段に座り込む柏木さんに近づく。
そして、話し掛ける。
「あの」
「……何でしょうか」
柏木さんは仏頂面を張り付けて、俺の目を見ながら冷たくそう言った。いや、「冷たい」というのは単なる印象で、これが柏木さんのデフォルトなのかもしれないけど……。六月の雨の肌寒さも相まって、いつにも増して冷たく感じられた。
俺はその反応に委縮することなく、薄紫の傘を差し出す。
「良かったら、これ使ってくれ」
「……え?」
柏木さんは目を大きく見開く。
その瞼から、
「い、良いんですか……?」
「ああ。俺はツレと相合傘するから、良ければ使ってくれ」
柏木さんは恐る恐るといった感じで、薄紫色のそれを受け取る。
「あ、ありがとう、ございます……」
「ああ。じゃ、俺はこれで」
俺は柏木さんの顔を見ることなく、その場を立ち去る――。
「――あれ?」
来た方向を見回す。
――居ない。
相合傘をして帰る予定の、そのツレが居ない。
そう。ツレが。辺蓮が居ないのだ。
「……」
「ど、どうかしましたか?」
なぜ居なくなった? どこかに隠れているのか、トイレにでも行ったのか? いや、それにしては短時間すぎる――――まさか。
俺が柏木さんに傘を渡すタイミングで辺が居なくなれば、傘はこの一つになる。つまり、俺は濡れて帰る、あるいは柏木さんと相合傘をするほか無くなるという訳だ。
だが、どうして辺はそんなことをしようと思い立った? なぜだ。なぜ俺と柏木さんが相合傘をしなければならない状況に仕向けた……?
……もう考えるだけ無駄だ。何にせよ――。
――俺は、辺蓮にハメられた。
「あいつ……」
「えっと、大丈夫、ですか……?」
柏木さんが心配そうに、俺の顔を覗き込む。
今の俺、もしかすると、いや、もしかしなくても凄いマヌケに映ってるのかもしれない。恰好を付けて傘を貸そうとしたはいいが、今度は自分が帰れなくなった。
他に類を見ない羞恥プレイである。
蕎麦が聞いたら笑うだろうな。それはもう爆笑ものだろう。
「恰好を付けようとしてしくじったなんて、あははっ。カスミ、やらかしたね!」なんて茶化してくるに違いない。考えただけで、頬が紅潮していくのが分かる。
一刻も早く、ここを立ち去ろう……。
「ツレが居なくなった。俺はもう帰るから、お気になさらず」
凄い不愛想になってしまったが、要点を絞ったから伝わってはいるはずだ。
そのまま、俺は逃げるように軒の外へ歩き出し――。
「――え?」
紺色のカーディガンの裾がぐいっと引っ張られる。驚いて振り向くと、柏木さんが俺のカーディガンの裾を、その白く細い指でしっかりと握っていた。
柏木さんは俺の目をしっかり見て。
「――相合傘、すれば良いじゃないですか」
◆ 柏木葵視点 ◆
昼休み。
食事を終えた私は、一人で教室に籠るのもなんだと思い、中庭を散歩していた。
程よい満腹感に、雨上がりの空が心地よい。と思っていたのも束の間……。
ザーッ
スコールのような勢いの雨が、一気に振り始めた。
良かった。傘は持ってきている。お母さんが持たせてくれた、赤い傘だ。
私が一人安堵していると、その横でか細い声が聞こえてきた。
「そんな……」
思わず隣を見る。
そこには、荷物を持った女子生徒の姿があった。三つ編みに結われた茶髪のしなやかな髪が可憐な、小柄な女の子――。
あの子だ、と思った。図書室で私に話し掛けてきた、図書委員の女の子。
「傘、持ってきてないよ……」
玄関先で飼い主が知らない人と談笑している時の飼い犬のように、昇降口前でおろおろとしているだけ。どうやら傘を忘れたらしい。
リュックサックを持っているあたり、早退するところだろうか……。幾分か、顔色も優れていないように見える。
この土砂降りの中を傘も差さずに帰るのは、相当の苦行だろう。
彼女には借りがある。私に毛布を掛けてくれた借りだ。
放っておけない。私は勇気を出して、話しかけた。
「あの……」
私が話しかけると、女の子は私に気が付いた様子で、一瞬委縮する。
「ふぇっ? ――あ、柏木……さん?」
「何かお困りでしょうか」
「あ、えと。わたし……昨日から生理来てて、耐えられなくて、早退することにしたんですけど……か、傘を……忘れちゃいまして。帰ろうにも帰れなくなりました」
やっぱりだ。
「ちょっと待っててください」
「ふぇ?」
私は教室へ急いで戻り、鞄から折り畳み傘を取り出し、急いで昇降口まで戻る。
そして、女の子に傘を手渡した。
「良かったら。私の傘、使ってください」
「えぇ!? い、良いんですか? でも、そしたら柏木さんが濡れちゃうんじゃ」
「大丈夫。あてはありますから」
あてなんて無い。私がずぶ濡れになって帰るだけだ。
「ほ、ほんとに良いんですか?」
「はい。月曜日にでも、返して頂ければ」
「っ! ありがとうございます!」
女の子は傘を差して、ぺこぺこと頭を下げながら昇降口を去って行った。
馬鹿なことをしてしまったと思う。でも、不思議と後悔はしていない。
妙な満足感が、私の胸の内を渦巻いている。それに、もしかしたらこの雨だって、放課後には止んでいるかもしれない。
そんな希望を抱き、私は女の子を見送った後、教室へ戻った。
◇◇◇ ◇◇◇
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