第12話 藍紫色の瞳、真っ黒い猫


 一週間ほどが過ぎた。


 玄関の上がり框に腰掛けながら、運動靴を履く。


「昨日は蕎麦と遊び過ぎたな……」


 昨日……というか、もはや今日だろうか。


 午前一時まで、蕎麦とゲームをしていたのだ。テストが終わってからというもの、少々遊び過ぎている気がしている。まあ、学業には支障が出ないから、別に構いやしないのだが。寝られなかった分は、学校の休み時間に取り戻すだけだ。


 そして、独り言のお陰で気付いたことがある。


「あー、あー」


 花粉の時期が終わった影響か、鼻詰まりが治り、鼻が通るようになった。辺に散々、「別人の声だ」と言われまくっていたが、それも昨日までのようだ。


 ドアを開けて天を仰ぐと、空は快晴。一昨日から振り始め、昨日の夜遅くまでのさばっていた雨も、ようやく止んだ。しかし、油断は出来ない。


「一応、これも持って行くか」


 靴箱の上に置いてあった、モスグリーン色の折り畳み傘を手に取る。ちなみに、この傘は二代目だ。初代はずっと前に失くしてしまった。


 今日の天気予報は曇りのち晴れ。降水確率は十パーセント。きっと降らないとは思うが、念の為カバンの中に折り畳み傘を突っ込んだ。


「行ってきます」


 振り返り、リビングに向かって呟く。中学生の頃までは母親が見送りに来てくれていたので、すっかりこれが癖になってしまっているのだ。


 しん――と静まり返った部屋に、俺の声だけが反響する。


 やがて、また静寂へ戻った。

 もし返事が返ってきたら、玄関先に塩を置いていたところだ。


 外に出て、ドアを閉める。今日もまた、平凡な一日が幕を開けるのだ。




 ◆ 柏木葵視点 ◆




「――行ってきます」


 私は片足立ちで靴を履きながら、玄関を開け。廊下に向かって声を張る。


 すると三十代半ば程の銀髪の女性――お母さんがリビングからひょっこり顔を出して、ぱたぱたと玄関までやってきた。


「葵。お弁当は入ってる?」

「うん」

「ハンカチも持ってるわよね?」

「ポケットに入れてるよ」


 制服のポケットをぽんと叩く。


「あ、そうそう。今日は降水確率が十パーセントだけれど、一応傘は持って行きなさいね」


 お母さんはそう言いながら、私に赤色の折り畳み傘を差し出す。


「うん。まあ、振らないとは思うけど……念の為持って行くね」

「そうしなさい。あら、葵。ちょっとこっち来なさい」


 そう言いながら手招きするので、お母さんの方に少し歩み寄ると、お母さんは私の肩に付いていた白い物体をつまんで取ってくれた。


「ほら、毛玉。付いてたわよ」

「あ、ありがとう……」


 母親に面と向かって感謝の言葉を言うのは、少し照れ臭い。

 ほんの少しだけ、頬が紅潮する。


「ふふふ。じゃあ、行ってらっしゃい。気を付けなさいね」

「うん。行ってきます、お母さん」


 お母さんは玄関で微笑みながら、門を閉める私を見送ってくれた。

 私も笑顔でお母さんに返事をしながら、小さく手を振る。


 前方に向き直り、いつもの通学路に足を踏み入れた。


 ――その瞬間、私の表情筋は強張り始める。口角をピクリとも上げることが出来ない。まるで顔にお面が張り付いたように、私の顔は無表情を保っている。


「…………」


 かれこれ五年ほど、こうなのだ。お母さんやカスミと話をしている時は、全くこんなことは無いのに。


『……ってことになるのかな。これからよろしくね』


「――っ」


 駄目だ。五年前を思い出そうとすると、嫌な思い出も一緒にフラッシュバックする。思わず口を噤み、首を振ってこの記憶を振り落とそうとする。


 そうだ。時間にも余裕があるし、気分転換に別の道から登校しよう。


 小学校へ向かう時に、よく通っていた道だ。中学に上がってからは、全くこっちの方面へは来ていない。久しぶりに通るな。


 五年前とは少し風景が違ったが、ほとんど記憶の通りだ。あれ。でも、ここにあった花屋さんが空き店舗に変わってる。店主さん、高齢だったからかな。もう店を畳んでしまったんだろうか。


 五年前は空き地だった場所に、家が何軒も建っている。ここも賑やかになったな。


 懐かしさを感じながらその道を歩いていると、道端で二人の主婦と思しき人が話し込んでいるのに気が付いた。


 そのうち片方は、よく見知った顔をしている。

 その人は私に気が付くと、微笑みを浮かべながら挨拶をしてくれた。


「あら、葵ちゃんじゃない。久しぶりねぇ。おはよう」


 昔良くしてくれていた、ご近所さんだ。


「……おはよう、ございます」


 目を見て、挨拶をする。精一杯、笑顔を作って。


「……ひっ。ええ、おはよう」


 顔が引き攣ったようにも見えたが、気のせいだろう。と、もう一人の見知らぬおばさんが、ひそひそとご近所さんに大きな声で耳打ちをする。……丸聞こえだ。


「外人さん? ハーフなのかしら?」

「ええ。ご近所の柏木さんとこの娘さんよ。ほら、確かロシア人の」


 おばさんは物珍しそうな目で、私をジロジロと見る。


「へぇ、日本語が分かるのねぇ。おはよう」

「…………おは、ようございます」


 私の態度が気にくわなかったのか、おばさんが不機嫌そうに言う。


「ねぇ、どうしたの、あの子。ぶすっとしちゃって。折角の美人が台無しじゃない」

「柏木さんとこ、昔色々あったもの。ああなるのも仕方がないことなのよ」


 私が通り過ぎた途端、そんな会話が聞こえる。やっぱりだ。

 私のは、いけないことなのだ。それは分かっている。


 でも、治せない。これだけはどうしても治せない。家を出た瞬間から私の表情筋は仕事をしなくなって、それが家に帰ってお母さんの顔を見るまで続くのだ。


 声は出せる。話も出来る。でも、顔に張り付いたお面だけが、どうしても外せない。頬をつねっても、口角を指で上げても、この仏頂面を解除することが出来ない。


 沈んだ気分のまま十分ほど歩き、いつもの三叉路に差し掛かる。


「ニャ~ゴ」

「ん」


 どこからか鳴き声がする。声の方を見ると、向かいから猫がやって来ているのに気が付いた。この前出会った、茶トラ柄の猫だ。


「おいで」


 猫は私に気が付くと、ててててと駆け寄ってきた。

 私は嬉しくなって、足元に擦り寄ってきた茶トラの背を撫でる。


「ふふ」


 思わず、だらしない声が出てしまった。虎柄の毛並みは指が沈み込み、ふかふかで心地が良い。きっと、飼い主さんがブラッシングを欠かしていないのだろう。


 しばらく夢中で背を撫でていたが――直後、奥から鋭い視線を感じた。


「……っ」


 藍紫色シアンの目をした真っ黒い猫が、住宅同士の隙間の塀からこちらを睨み付けている。まるで「俺の物に手を出すな」と言わんばかりに。

 黒猫の方に首輪が付いていないのを見ると、野良猫なのだろうことが伺える。


 黒猫は低い声で「ミャゥ」と呼び掛ける。茶トラの猫は私の方を一瞬見上げたが、私の手をすり抜けて塀の方へと向かい、飛び乗る。

 そのまま黒猫と共に、塀の狭間から住宅街の奥へと消えて行った。


「あ……」


 手から、温もりが少しずつ薄れていくのを感じる。私は少しの孤独感と共にゆっくりと立ち上がり、学校へ向かった。


 ◇◇◇ ◇◇◇


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