塩をあと一摘みだけ

 雨音が窓を叩き、れた土の匂いがれ入る。

 いつもより少し楽に息をつく。谷間に開けたこの隠れ里では、晴れていれば何もかもが内から淡い光を放つように見えて、彼のような者をひどく落ち着かなくさせた。そういった意味で曇り空は優しかったが、さりとてこの急な寒さは少しこたえる。

 割り当てられた小さな家で、彼は──精神幻覚魔術師ゼルトラース・フェト・ウォーガンは薄暗い空気をき回すように右手を振った。人差し指に術具の指輪が鈍く光る。

「──安寧を穿うがち、理を呑み下せ」

 誰にともなく呟いた物騒な言葉は炎の魔術の詠唱だ。立てた指の差す空間に小さな火を灯して、ゼルスは暖炉のそばへ歩いていくと薪の上に投げこむ。湿っていた薪が見る間に乾いて火の粉を吹き上げた。いくらでも書物と書類のある部屋で魔術を使うことへの危機感は、もう何年も前に麻痺していた。

 部屋を照らす魔術灯の白い光に、温かな橙色が混じる。その色彩が記憶を刺激する。危うく忘れるところだった、と思う。

 暖炉の横に積まれた鍋の、下から二番目を引きずり出す。浄化の術晶が沈むかめから水を注いで天板に乗せた。わざわざ分けてもらっていた鳥肉を出してきて小刀を入れると、刃を押し返す手応えが途切れて赤黒い肉と薄黄の脂がのぞく。特に思うところもなく雑に切り分けて鍋の中に放った。

 手をぬぐってからさらに壁の上の方、干した薬草の束を探り、香辛料にもなる種類の葉をいくつか散らす。鍋底からは小さい泡が立ちはじめている。わずかに匂いの変わった湯気を抑えこむように蓋をして、橙黄色の根菜を手に取った。暖炉の炎と同じ色をしたそれは、上下を逆にすれば、形もやはり小さな炎に似ているのだろう。

 扉が鳴ったのはその時だ。鳥肉と香草の匂いが雨のそれに塗り変わって、ゼルスは振り返ることもなく先程と別の小刀で根菜の皮をきはじめる。

「忘れていなかったようですね」

 風雨の音に負けないりんとした声がした。背にしてなおまばゆい、その在り方がうとましい。

「今は手がふさがっている」

「お構いなく」

 返事も待たずに扉を開けた彼女、ティティアーナ・デル・メーヴェは雨けのがいとうを中表に畳み、来客用の席の一つに腰を下ろしたらしい。食事を抜きがちな彼の様子を彼女が見にくるのはときおりあることだが、今日に関して言えば外からでも炊事の煙が見えたはずだ。別の用だろうか、いやそうであればこちらに構わず説明を始めていたに違いないと、考え事に気を取られながら剥いた皮は短く切れてしまった。

「イスクが要らぬ心配をしていました」

 その名前は隠れ里に行商として出入りする人族の魔術師のものだ。ゼルスは今作っている料理の材料を彼から買った。食事に無関心という印象だけ持たれていたのだろう、料理するんですか、と大袈裟に驚いていた顔を思い出す。

「必要に迫られて覚えただけだ。君とは違う」

 実のところゼルスはひとりで暮らしていた時期が長かったので最低限のことはできる。むしろ彼からすればティナの料理の腕前こそ意外だった。彼女は出来不出来が話の種になるような物事なら家政の類も含めてたいてい完璧にこなしてしまう。しかし名家の出なのだから、身の回りの世話をする者などいくらでもいただろう。加えて食事に関心の薄いことは実際彼女も彼と大差ない。

 皮を剥き終えた根菜を大きめに切る。水気とかすかな甘さを含んだ、わずかな粘りが刃に沿う軽い手応え。中身は皮と同じ橙黄色だが少し透き通っている。続けて白いきのこを三つ端から薄く切った。鍋のふたを開け、根菜と茸を白く濁るゆでで汁に沈めて、玉杓子しゃくしで全体を混ぜる。

「シェルンの暖炉煮は蜜根を入れる前に鳥肉を皿に出すものですよ」

 すぐに閉めようと蓋を持ったところでティナが言った。それは助言ではなく確認で、彼女はゼルスがそうしないこともその理由も知っている。彼もまた知られているとは分かっていた。

「この雨ではたきも消える」

 蓋をすれば煮える音は遠くなって、燃えるまきと屋根を叩く雨の音が前に出る。

「感傷的ですね」

 澄ました耳をきらめく笑い声にくすぐられ、ようやっと招かれざる客を振り返った。ティナは白い中衣に金色の刺繍ししゅうふち取られた紅の短い上着を重ねている。きゃしゃな身体の線に添った形を珍しいと思ったきり、ゼルスは暖炉の前から離れる。

「……用件は」

 これは質問ではなく指摘だった。用もなく訪ねてきたそちらも同じだろう、と。だから彼は書棚に向かう。鍋はしばらく火にかけておく必要がある。その間に読む魔術書を探してのことだ。

 果たしてティナは悪びれもせずに答える。

「空が暗いからでしょうか」

 窓の外へ視線を向ける彼女の手元には、彼の書きつけが一束広げられていた。元はといえば彼女の指示で作った報告書の下書きにあたるものだ。読まれても困りはしない。だが、今の彼女からすればほとんど他愛ない内容のはずの文字列に、注がれる眼差しの強さが少し、やはり彼をたまれなくさせる。

「また意見を聞かせてください」

 魔術書を片手に向かいの椅子を引いたところで彼女に尋ねられた。腰掛ける動作を止めないまま、いつもと同じ答えを返す。

「君は明るい空を疑わない」

「貴方は薄暗いふちにあることを良しとして、交わる皆を陰らせています」

「情けないことだ」

 静かに言い捨てて魔術書を広げた。ティナもまた一息ののち書きつけへ視線を落とす。風雨と暖炉と鍋、加えて紙をる音が二つ。それ以上の言葉はない。

 彼らが無意識に考えを巡らせて交わした会話は、同じ意味のおうしゅうを何年も繰り返してきたものだった。彼女は純粋付与魔術師、ひとの使う魔術を込めた術具を作る魔術師で、出会う者すべての魔術を理解して再現することを終生の課題にしている。そしてその研究は実際ほとんど成功していた。まったくてんの才としか言いようのないことだが例外もあり、この里に関わる魔術師のうち十名弱が一つか二つ、彼女の術具による再現が及ばない魔術を持っている。この中に彼は含まれない。彼女が知る限り、彼のそれは四つだ。それも誰より長く彼女の隣に立っておきながら。

 魔術は精神だと言われる。精神の力で理を破る技術、その性質は術者の願望ないし欠落の反映なのだと。彼女の目標もこの考えに基づき、皆の幸いを叶えるためのものだ。だから彼を理解しようとする。術式と詠唱とその理論を書き出させ、読みこみ、重ねて説明を求める。問題の在り処だけはとうに分かっていた。彼は薄闇に酔って生きている。しかしそれが正すべきことだと自覚もしている。

 しばらくすると蒸気が鍋の蓋を上げて落とした。鍋に呼ばれたゼルスが魔術書を置いて暖炉に向かう、その背に向けてティナはまた言葉を発する。

「助けは要りますか」

「変わらずにいてほしい」

 蓋が取られると白い湯気と共に、懐かしい匂いが部屋中にふくらんでいく。

「私は貴方に変わってもらいたいのです」

「急ぐならエリネに頼むといい」

「貴方が必要です」

 鍋を火から下ろし、液面に固まった灰汁をすくい取る。エリセアローネ・ルー・カラティアは高位の精神干渉魔術師、感情や記憶を読み操る魔術の使い手で、今はティナの腹心だ。その技ゆえに孤独だった彼女にとっては、持てる魔術のすべてを理解されたことが救いになったらしい。ゼルスは玉杓子を水にひたして灰汁を浮かせた。エリネの魔術は彼の救いにならないとティナは考えているようだ。感情を操作すれば彼は彼ではなくなるから。だが彼の意見は違う。

「輝きは絶対ではない」

「だから進みつづけるのでしょう」

「今は留まる理由がある」

「望まれなくても、私は貴方が追う道をひらいて待ちます」

 鳥肉を煮て白濁していた鍋の中身はりんかくの溶け崩れた蜜根の橙黄に染まっていた。ほの甘い匂いが雪玉茸の淡い芳香と混じりあい、数種の香草がそれを料理らしくまとめている。小壺から塩を二さじ落として、全体を混ぜてから味を見る。染みる熱さと旨味と少しの塩気──感覚に記憶が追いやられ、照らしあわせようにもひどくあいまいだ。諦めて塩の壺に蓋をする。感情、記憶、あるいは魂の中身がすべて入れ替わっても、それはただ「変わる」だけだと彼は考えていた。彼女の望むままに変われば、自分は救われるに違いない、とも。

 深皿を棚から二枚下ろす。暖炉煮とも焚火煮ともつかない料理をそれぞれに注ぎ入れて、振り向けばティナはいつからか彼の書きつけではなく手元を見ていたらしい。しかし導きを乞うつもりは初めからなかった。彼は、彼の迷妄に意義を見出している。

 ゼルスは深皿の一方をティナの前に置いた。揺らぎもせず見上げてくる鮮紅の眼差しを、静かに受け止めて返す。

「許されるなら、答え合わせは君とがいい」

 近寄ればはげしすぎる煌めきに一瞬、雨音も薪の音も途絶えたかのような錯覚を覚える。差し出した匙のを細い指が取る。ティナは優しく微笑むと、完璧な所作で皿の中の橙黄を一匙掬った。

「今は、それで構いません」

 常にはまぶしい理想を滑らかにつむぎ出す唇が匙の先に触れて、声の代わりに、静かに一つ息をつく。皿に俯く両眼がかすかに光を散らす。炎の色をした料理の熱が彼女の瞳に移っていくかのような情景に、ゼルスはようやくあるかなきかの空腹感を覚えて椅子を引いた。

 軽くとろみのついた煮汁はまだ熱く、香草のせいせいとした刺激をまとっている。匙を動かせば蜜根の甘い香りが濃く、鳥肉と雪玉茸の風味が後を追い、口にすればいっそう強く複雑な旨味が前に出て甘さが後に残る。長く煮込んだ肉は匙で押してもほどけるほど、根菜にも茸にも柔らかく味が染みている。悪くはない。ただ、作ろうとしたものはこれではない。

 隠れ里を開くより前、ティナとゼルスと共に旅をしていた人族の若者二人──リオンとアトリがよく作っていたものをゼルスは思い浮かべていた。二人が生まれ育った辺境のシェルン村の郷土料理である暖炉煮からいくらか手順の省かれた、焚火煮とでも呼ぶべきその料理はもっと、言うなれば鮮烈な味がしたはずだ。街道の横に張った天幕で風を避け、歩き通して疲れた体を抱えて、それとも彼らの他愛ない会話を聞きながら食べていたからなのか。いや、状況の違いを差し引いてもこれほど淡く曖昧な味ではなかった。

 思わず手が止まるゼルスに目を止めて、ティナもまたいったん匙を置いた。

「皮を厚く剥いたからでしょう。それでも立派な蜜根でしたから量もあの時より多い。そして収穫してから日が浅いせいか水気も余分に出ていますね」

 彼女はいつでも正しい答えを知っている。深い霧の奥に光が差した心地で見れば、旅人を導く星のような声がまた笑う。

「焚火煮にはむしろ合っています。塩の加減にしても旅の間と今とでは違うものです」

 そこになぐさめの色はない。

「いずれにせよ味が足りない」

「彼らはもっといい加減でしたよ」

 心の底から、これはこれで良いものだ、と彼女は語る。いつものことだ。リオンとアトリを平穏な日々に残して、いつ終わるとも知れない暗躍を続ける、その最中にあって彼は一度たりとも彼女の嘆く言葉を聞いたことがない。

「そうだろうな」

 きっとそれが正しい。少なくとも、過ぎた別れに抱くべき感情すら分からないでいるよりは。

 雨はまだ降りつづけている。暖炉のおかげで寒くはない。ティナは普段の近寄りがたくすらある隙のない表情をいくらかゆるませて、残り半分もない料理を食べ進めている。同じものを食べているとは思えない。つられるようにゼルスが匙を動かしている間にも、彼女は空になった深皿を洗おうと席を立った。

「まだ残っていますね」

 調理台に放って置かれた鍋を覗きこんで振り返る。よく見慣れた、澄ました微笑みに、さしたる他意は感じられない。旅の間に覚えた分量そのままに作ってしまったとは、いまさら説明するまでもないことだろう。

「これから考える」

 答えると、彼女の指に術具の指輪が、暖炉の灯を映して煌めいた。

「凍空をき、輝き──時を留めよ」

 滑らかな動きで指差された鍋が見る間に薄く水滴を纏う。歌うような声の辿たどる詠唱は氷の魔術のものだ。なるほど確かに、答え合わせは彼女とでなければできない。焚火の色をした甘く淡くどうにもならない執着を、彼女以外に知らせるべきでもない。

「宵にはこれに合うものを持ってきましょう」

 星屑の髪をひるがえしてティナが言葉を継いだ。ただ食事を楽しもうと誘うその瞳の奥に、ゼルスは過去へ向けた何かしらの感情を探して、ややあって諦めると浅くうなずく。

「塩気の強いものは避けてほしい」

「心得ています」

 温めなおす時にもう一度味を整えよう。残りをまた一匙味わいながら彼は考える。彼女には必要のないものでも、彼にとってはやはり意味がある。いや、意味があることを確かめようとしている、というべきか。だから彼は歩みを止めて、薄暗がりに記憶をなぞる。

 例えば、塩をあとひとつまみだけ。過ぎ去った時にはいま少しのあいせきを。

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星を灯し霧を行く 白沢悠 @yushrsw

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