塩をあと一摘みだけ
雨音が窓を叩き、
いつもより少し楽に息をつく。谷間に開けたこの隠れ里では、晴れていれば何もかもが内から淡い光を放つように見えて、彼のような者をひどく落ち着かなくさせた。そういった意味で曇り空は優しかったが、さりとてこの急な寒さは少し
割り当てられた小さな家で、彼は──精神幻覚魔術師ゼルトラース・フェト・ウォーガンは薄暗い空気を
「──安寧を
誰にともなく呟いた物騒な言葉は炎の魔術の詠唱だ。立てた指の差す空間に小さな火を灯して、ゼルスは暖炉の
部屋を照らす魔術灯の白い光に、温かな橙色が混じる。その色彩が記憶を刺激する。危うく忘れるところだった、と思う。
暖炉の横に積まれた鍋の、下から二番目を引きずり出す。浄化の術晶が沈む
手を
扉が鳴ったのはその時だ。鳥肉と香草の匂いが雨のそれに塗り変わって、ゼルスは振り返ることもなく先程と別の小刀で根菜の皮を
「忘れていなかったようですね」
風雨の音に負けない
「今は手が
「お構いなく」
返事も待たずに扉を開けた彼女、ティティアーナ・デル・メーヴェは雨
「イスクが要らぬ心配をしていました」
その名前は隠れ里に行商として出入りする人族の魔術師のものだ。ゼルスは今作っている料理の材料を彼から買った。食事に無関心という印象だけ持たれていたのだろう、料理するんですか、と大袈裟に驚いていた顔を思い出す。
「必要に迫られて覚えただけだ。君とは違う」
実のところゼルスはひとりで暮らしていた時期が長かったので最低限のことはできる。むしろ彼からすればティナの料理の腕前こそ意外だった。彼女は出来不出来が話の種になるような物事なら家政の類も含めてたいてい完璧にこなしてしまう。しかし名家の出なのだから、身の回りの世話をする者などいくらでもいただろう。加えて食事に関心の薄いことは実際彼女も彼と大差ない。
皮を剥き終えた根菜を大きめに切る。水気とかすかな甘さを含んだ、わずかな粘りが刃に沿う軽い手応え。中身は皮と同じ橙黄色だが少し透き通っている。続けて白い
「シェルンの暖炉煮は蜜根を入れる前に鳥肉を皿に出すものですよ」
すぐに閉めようと蓋を持ったところでティナが言った。それは助言ではなく確認で、彼女はゼルスがそうしないこともその理由も知っている。彼もまた知られているとは分かっていた。
「この雨では
蓋をすれば煮える音は遠くなって、燃える
「感傷的ですね」
澄ました耳を
「……用件は」
これは質問ではなく指摘だった。用もなく訪ねてきたそちらも同じだろう、と。だから彼は書棚に向かう。鍋はしばらく火にかけておく必要がある。その間に読む魔術書を探してのことだ。
果たしてティナは悪びれもせずに答える。
「空が暗いからでしょうか」
窓の外へ視線を向ける彼女の手元には、彼の書きつけが一束広げられていた。元はといえば彼女の指示で作った報告書の下書きにあたるものだ。読まれても困りはしない。だが、今の彼女からすればほとんど他愛ない内容のはずの文字列に、注がれる眼差しの強さが少し、やはり彼を
「また意見を聞かせてください」
魔術書を片手に向かいの椅子を引いたところで彼女に尋ねられた。腰掛ける動作を止めないまま、いつもと同じ答えを返す。
「君は明るい空を疑わない」
「貴方は薄暗い
「情けないことだ」
静かに言い捨てて魔術書を広げた。ティナもまた一息ののち書きつけへ視線を落とす。風雨と暖炉と鍋、加えて紙を
彼らが無意識に考えを巡らせて交わした会話は、同じ意味の
魔術は精神だと言われる。精神の力で理を破る技術、その性質は術者の願望ないし欠落の反映なのだと。彼女の目標もこの考えに基づき、皆の幸いを叶えるためのものだ。だから彼を理解しようとする。術式と詠唱とその理論を書き出させ、読みこみ、重ねて説明を求める。問題の在り処だけはとうに分かっていた。彼は薄闇に酔って生きている。しかしそれが正すべきことだと自覚もしている。
しばらくすると蒸気が鍋の蓋を上げて落とした。鍋に呼ばれたゼルスが魔術書を置いて暖炉に向かう、その背に向けてティナはまた言葉を発する。
「助けは要りますか」
「変わらずにいてほしい」
蓋が取られると白い湯気と共に、懐かしい匂いが部屋中に
「私は貴方に変わってもらいたいのです」
「急ぐならエリネに頼むといい」
「貴方が必要です」
鍋を火から下ろし、液面に固まった灰汁を
「輝きは絶対ではない」
「だから進みつづけるのでしょう」
「今は留まる理由がある」
「望まれなくても、私は貴方が追う道を
鳥肉を煮て白濁していた鍋の中身は
深皿を棚から二枚下ろす。暖炉煮とも焚火煮ともつかない料理をそれぞれに注ぎ入れて、振り向けばティナはいつからか彼の書きつけではなく手元を見ていたらしい。しかし導きを乞うつもりは初めからなかった。彼は、彼の迷妄に意義を見出している。
ゼルスは深皿の一方をティナの前に置いた。揺らぎもせず見上げてくる鮮紅の眼差しを、静かに受け止めて返す。
「許されるなら、答え合わせは君とがいい」
近寄れば
「今は、それで構いません」
常には
軽くとろみのついた煮汁はまだ熱く、香草の
隠れ里を開くより前、ティナとゼルスと共に旅をしていた人族の若者二人──リオンとアトリがよく作っていたものをゼルスは思い浮かべていた。二人が生まれ育った辺境のシェルン村の郷土料理である暖炉煮からいくらか手順の省かれた、焚火煮とでも呼ぶべきその料理はもっと、言うなれば鮮烈な味がしたはずだ。街道の横に張った天幕で風を避け、歩き通して疲れた体を抱えて、それとも彼らの他愛ない会話を聞きながら食べていたからなのか。いや、状況の違いを差し引いてもこれほど淡く曖昧な味ではなかった。
思わず手が止まるゼルスに目を止めて、ティナもまたいったん匙を置いた。
「皮を厚く剥いたからでしょう。それでも立派な蜜根でしたから量もあの時より多い。そして収穫してから日が浅いせいか水気も余分に出ていますね」
彼女はいつでも正しい答えを知っている。深い霧の奥に光が差した心地で見れば、旅人を導く星のような声がまた笑う。
「焚火煮にはむしろ合っています。塩の加減にしても旅の間と今とでは違うものです」
そこに
「いずれにせよ味が足りない」
「彼らはもっといい加減でしたよ」
心の底から、これはこれで良いものだ、と彼女は語る。いつものことだ。リオンとアトリを平穏な日々に残して、いつ終わるとも知れない暗躍を続ける、その最中にあって彼は一度たりとも彼女の嘆く言葉を聞いたことがない。
「そうだろうな」
きっとそれが正しい。少なくとも、過ぎた別れに抱くべき感情すら分からないでいるよりは。
雨はまだ降りつづけている。暖炉のおかげで寒くはない。ティナは普段の近寄りがたくすらある隙のない表情をいくらか
「まだ残っていますね」
調理台に放って置かれた鍋を覗きこんで振り返る。よく見慣れた、澄ました微笑みに、さしたる他意は感じられない。旅の間に覚えた分量そのままに作ってしまったとは、いまさら説明するまでもないことだろう。
「これから考える」
答えると、彼女の指に術具の指輪が、暖炉の灯を映して煌めいた。
「凍空を
滑らかな動きで指差された鍋が見る間に薄く水滴を纏う。歌うような声の
「宵にはこれに合うものを持ってきましょう」
星屑の髪を
「塩気の強いものは避けてほしい」
「心得ています」
温めなおす時にもう一度味を整えよう。残りをまた一匙味わいながら彼は考える。彼女には必要のないものでも、彼にとってはやはり意味がある。いや、意味があることを確かめようとしている、というべきか。だから彼は歩みを止めて、薄暗がりに記憶をなぞる。
例えば、塩をあと
星を灯し霧を行く 白沢悠 @yushrsw
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