遠く青い空と春

 率直に言って、アトリは、ティナを嫌っていた。

「隣に座っても構いませんね?」

 りんと澄んだ声と明瞭な発音につい顔をしかめてしまう。振り向きざま見回せば、昼時の宿の一階は空いているとも混んでいるとも言いがたく、アトリの隣以外にも座る場所はある。それでもティナはアトリの返事を待たずに腰を下ろした。舞い降りるような、重さを感じさせない動きが、古い椅子にきしむ音一つ立てることも許さない。星屑を思わせる淡い金の髪が滑らかな所作を追って揺れた。

「お久しぶりです、アトリ」

 嫌われていると気づかないはずもないだろうに、貴石にも似た鮮紅の眼がいつくしむように微笑む。前に会った時からは二年、毎日顔を合わせていたあの頃から数えれば八年か。それなのに変わらないところが本当に嫌いだ。リオンから引き離して良かった、と思う。

「ゼルスは元気?」

 ティナの目的から一番遠い話題を探したアトリは、彼女と共に行った彼を思い出した。いつも陰鬱な顔をしていた彼も薄気味悪くはあったが、あちらから寄ってこないだけティナよりはまだわずらわしくなかった。

「一緒に来ていますよ」

「相変わらず振り回しているんだ」

 溜息をつく。近くにそれらしい人影は見当たらない。きっといつものように、ティナに連れ回されるがまま街へ来て、彼女に任された用事をまだ終えていないのだろう。旅ができるくらいに元気なんだ、と真剣に考えてしまうのは、彼女の隣がいかに過酷かを知っているからだ。ごくわずかに同情を覚える。

「この近くの村に賊が出たのです」

 すると、ティナはいつの間にか注文していた香草茶を片手に語りだす。急としか思えない話の展開は、そういえば彼女とゼルスの間では珍しくないことで、昔はよく置いて行かれたものだった。

「すぐに駆けつけて不心得者を追い払い、村の守りを固める必要がありました。幸いにして村は無事でした。あえて数名を逃し賊の拠点を突き止めたので、あとは後顧の憂いを断つばかりです。彼の力があってこその成果と言えます」

 ここに至って彼女が彼の必要性を説いていたのだと理解する。子供にさとすような調子に、しかしそれこそが相応しいと思わされてしまう。

「相変わらず上手くやっているみたいだね」

 アトリは杯に残っていた薄い穀物酒を一息に空けた。

 この地ではかつて、人族と魔族、あるいは短剣の民ロシュカ書物の民ベルディアという二つの種族が共に生きていた。しかし長い平和の間に両者の関係は悪化し、八年前、魔族の王が人族の国々に侵攻して討たれた。戦争に敗れた魔族は今に至るまで、人里離れた場所に隠れ住むことを強いられている。ティナが守る「村」とはそういった魔族の集落で、彼女は彼らを守りながら、再び人族と共存する道を探っている。

 八年前、彼女たちは共に旅をしていた。賢いはずなのに絵空事のような理想を掲げて、そのために力を尽くすティナのことが、アトリは当時から嫌いで仕方なかった。幼馴染のリオンが彼女を素直に尊敬していたことも耐えがたかった。だから引き離した。戦後の混乱を前に、人族のリオンとアトリ、半魔族のティナと魔族のゼルスとで別れ、それぞれに守るべきものを守ろうと提案した。リオンがうなずき、残るふたりも続いた。そしてそのまま今に至る。

 二度目になる溜息をついて、アトリは給仕に追加の酒を頼んだ。

「こっちは良くないよ。たぶん、持って十年くらいかな」

 異なる種族の民を追いやった人族は、今度は異なる国の同族と争おうとしている。元は数百年前から争いの絶えない国境のこと、辺境の若者でしかないリオンやアトリの手に負えるはずもない。

「予想できたことです」

 ティナは微笑みを崩さないまま、冷ややかに言い放つ。

「道を外れる者には、少し痛い目を見てもらうことになります」

「そんなことまで考えなくてもいいのに」

 これは本心だった。父が高位の魔術官でも、母が人族の名家の娘でも、彼女自身はアトリと同じ一介の冒険者に過ぎなかった。それが離散した魔族を集めて率いて守っているだけでも異常なのに、人族の行く末さえ気にかけようとするとは。

 神官の首飾りを握るアトリのかたわら、ティナがぬるい空気を胸に入れる。

「──私は、幼い頃から皆に将来をしょくぼうされてきました」

 今日は良い天気だと独りごちるときほどに何気ない調子だった。

「その期待に応えたいと思いました。応えうるだけの才は持ち合わせていました。ですから私は、彼らの未来を担い、この黄昏の時代を夜明けまで導き進むと決めたのです」

 アトリが首飾りを握る手に知らず、力が入る。

 皆で旅をしていた頃、出会った誰かがティナを星にたとえていた。言い得て妙だと思う。遠目には希望の光にも見えるだろうが、それはつまり近くに寄ればあまりにもれつだということだ。

 寒気がするほど美しい横顔に鮮紅のきらめきが燃えている。アトリは心の底で祈った。彼女の神は自律を尊ぶ。だからこの祈りはティナのためではない。その輝きに目をかれる誰かのためだ。

 ところが、ふいに煌めきが陰った。我に返って見れば彼女と目が合う。絶えない微笑みが今はいつになく柔らかい。

「彼も──ゼルスもそうであれば、どれほど心強いことでしょう。あれほどの才があれば彼はもっと高みを行くことだってできます」

 アトリはまたたいて視線を断ち切った。そうでもしなければあの辛気臭い顔を思い浮かべることなどできなかった。動悸がする。彼女にもあんな、寂しげな表情ができたのか。

「……本気なの?」

 おそるおそる尋ねると、ティナは手元に視線を落とす。

「確かに今の彼には理解しがたい側面があります。を見捨てられず、より価値のあることに力を注げない。小さな平穏に殉じてしまいそうな危うさがある。けれど、彼は己が変わるべきだと知っています。うつむいて、黙ってはいても、私と同じ道を歩いてくれています」

 そこで言葉を切り、温くなった香草茶の淡い水色に口をつける。はかなく見えた灯火は熱を取り戻していた。それは凍える夜を照らしつづけると決意した者の輝きだ。

「あの力があれば、ひとりで平穏に生きることもできるはずです。でも彼はそうしない。彼自身がそれを許せないのでしょう。ならば──その意思で光あふれる空を行けるようになることが、彼の幸せでもあるのです。そうでしょう?」

 煌めく鮮紅はアトリを透かして、きっと晴れ渡る青空を見据えているのだろう。夜明けを超え、誰もが自由な空を駆けていく時代を。

「悪いけど、想像もできない」

 アトリは意識して首を横に振る。そうしなくてはならない気がした。

「私は信じています」

 ティナが静かに断じる。その瞳に宿る光を恐ろしいと思う。

「信じているって、ゼルスには言ったの」

「もちろん伝えています。彼が彼を信じるまで伝えつづけます」

「ふたり助けるためなら何でもするあいつを?」

「彼が変わる日までは、私が彼を守ります」

 不信も自滅も許さないと言っているようなものだ。アトリはまた酒をあおる。神殿が説くとおりむやみに飲酒を慎むことは神の意に添わないと彼女は信じていた。必要性を自ら見極めてこその自律だ。

「買い被りすぎじゃないの」

 空の杯の底を長卓に叩きつけ、最後に返す言葉を放った。

「ひとを見る目は確かなつもりです」

 やはりティナは揺るがない。座ってなお凛とした姿も、優しく美しい微笑も声も、眼差しの奥に秘めた激しさすら変わらないままだ。きっと必要がないからだろう。

 アトリは三度目の溜息をつく。深く長く息を吐きながら、これだから嫌いなんだと心の中で言う。そう念じなければうっかり心酔してしまいそうだ。それは自律から遠い感情で、何よりもを過酷な道に誘う。アトリは彼に、勇者になんかならないでほしかった。

「さあ、こちらの話はこのくらいにしませんか。貴女とリオンのことをまだ何も聞けていません」

 そんな願いを知ってか知らずかティナは話を変える。花茶と果実酒を頼む様子を見て、アトリはひそかに安堵した。

「この間、リオンったら掃除の依頼なんか受けちゃって──」

 笑顔を作り話しだすほんの一瞬、ゼルスも大変だな、と思った。




 リオンは歌うことが好きだ。弦を弾く指先から腹と胸と喉を経る快い震えが、歌う者と聴く者の心まで伝わっていく。アトリと二人で出稼ぎと称して故郷の寒村を飛び出したのも、もっと多くの歌を聴き、もっと多くのひとの前で歌ってみたかったからだ。

「──輝きが聴こえた夏に」

 だから彼は剣の代わりに楽器を抱え、今この時を謳歌する。

 彼は剣も好きだった。村にはかつて兵士として王都に勤めていた老爺がいて、リオンは彼の暇潰しに付き合って剣を教わった。昨日はできなかった動きが今日できる、その果てしない繰り返しが楽しかった。村に近づく獣や魔物を倒し、旅の間には困っている誰かを助けて、皆の力になれることが嬉しかった。たとえその積み重ねの果て、このハイエンの町を書物の民ベルディアの国の軍勢から守るため立ち向かった相手が──ほとんど事故同然の形で討ったその将が、他ならぬ書物の民の、最後の王だったとしても。

「遠い空も同じ青、辿り連ねてどこまでも──」

 歌を終える頃、人垣の外からこちらをうかがう視線に気づく。リオンは楽器を脇に抱えて深々と頭を下げた。ひとびとが彼の置いた帽子に硬貨を投げ入れ、口々に歌を褒めながら散っていった後、視線の主はまっすぐ彼の方へ向かって来る。

「変わりないか」

 金茶の髪、浅黒い肌、赤褐色の眼。記憶と違う色合いにも角のない輪郭にも迷いようがないほど、降ってくる声に聞き覚えがあった。

「俺は、見てのとおりかな」

 二年ぶりの再会を喜ぶあまり、つい笑みがこぼれてしまう。

「アトリも元気だよ。昨日も飴をたくさん買っていた」

 幼馴染の近況を教えると、ごく微かな苦笑が返る。アトリは少々度を越した子供好きで、若い女性かつ神官という立場を良いことに行く先々で飴を配り歩いている。それを知っているのは、リオンの他にはティナと、目の前にいるゼルスだけだ。その目立つ髪色とついでに眼と肌の色、そして何より書物の民に特有の角を魔術で隠した彼は、聞けば買い出しの途中らしい。

 重そうな袋を一つ引き受け、残りの店を回る道すがら、リオンはひたすらこの二年間の出来事を話し、聞き出した。ゼルスが話すのは質問に答えるときだけだったが、彼なりに楽しんでいるとは分かっていた。

「この街にはまだいられる?」

 必要なものが揃ったところでリオンは尋ねる。ゼルスは小さく右手を払うと、角は消したまままとう色だけを元に戻した。癖の強い白髪の影に入って暗い深緑の眼に、リオンは、故郷の雪原に葉を落とさず立つ樹のかたちを連想する。

「目的は達した。明日にでも発つことになるはずだ」

 淡々と答える声もやはり静かで、そして穏やかに冷たい。

「いつも忙しくしているところは変わらないね。君も、ティナも。買い物くらい誰かに任せてもいいだろう」

 リオンは腰に、布で巻いた剣の重さを意識する。

 書物の民の王を討ち、直後の混乱を乗り切った後、彼ら一行は二手に分かれることにした。提案したのはアトリだが、あれからの時代、種族の異なる者と共にいるだけで危険なことは明らかだった。ゼルスの幻覚魔術で種族を偽れるとはいえ、常にとなると魔力も尽きる。

 ティナは故郷を追われた書物の民をまとめ上げ、人族との共存を取り戻すために動いていて、ゼルスは彼女に従っているらしい。一方リオンとアトリは、初めこそ敵国の王を討った勇者として人族の国々から声がかかったものの、どの国にも属さずに人々を救うと宣言してからは驚くほど普通に旅をしていた。書物の民の生き残りに命を狙われることすら予想よりずっと少なかったのは、もしかすると、主だった動きをティナが引きつけ潰していたからかもしれない。仲間の活躍を嬉しく思う反面、その身を案じてしまいもする。

「いずれにせよこの街を訪ねる必要はあった」

 ゼルスは微かな笑みをこぼして、遠く南西、青空の向こうを透かし見る。強く握るからの左手は、普段なら古い木製の長杖を持っていたはずだ。

「まだ満ちてはいない」

 深緑の眼差しと、低く呟く声から、ふいに表情が欠け落ちる。

 彼が抱える事情を、魔術の心得のないリオンやアトリは断片的にしか理解していない。それでも聞いたところによると、彼の杖は極めて古く強い魔物のよりしろで、彼の家系は代々その眠りを守っており、魔物の力の溜まる場所がこの町のすぐ南にある国境の森の奥なのだそうだ。そして悪いことに、魔物は戦争に反応して目覚めるらしい。

「疲れたときはゆっくり休んだ方が、良い仕事ができるよ」

 無理をしないでほしい一心で言葉をかけた。少しだけ、自分の無力を悔やむ。目の前の困っている人を助け、アトリに付き添って神殿で彼らの無事を祈り、戦争から距離を置き、恋と市井の暮らしを歌って、それから彼らが願ってくれているとおりの、幸せで平穏な旅をする。できることはしているとリオンは思う。しかし、それは彼の察するに余りある絶望を慰める一助になるだろうか。

「──私には、何をすべきか分からない」

 陰る深緑がひどく優しく微笑する。

「それを判断する資格もない。しかし立ち止まることは許されない」

 降り始めの雨に似た繰り返しの否定が、その心の虚無をなぞる。彼はこの手の話を避けているようで、すぐに打ち切ってしまうのが常だった。ところが今日のゼルスは黙って顔を上げた。その視線の先、晴れた空の下で、人々が賑やかに通りを行き交っている。アトリとティナの待つ宿が近い。

「ひとは誰しも自らの幸いを得ようとする。迷う者も、他を踏みにじって進む者もいる。それでも、この一万年余の先端に、例えばこの町がある。ひとびとの願いの総和がより望ましい世界をつくるなら、私は一つでも多くの命を保つべきなのだろう」

 リオンは思わず、背負った楽器の手触りを探る。ゼルスが見ているそれと同じ光景は、リオンの目には、何気なくも尊い日々の集まりとして映っていた。それこそ歌い出したくなるほどに。

 幼い子供が二人、逃げる一方を他方が追いかけてゼルスの足元をすり抜けていく。彼は足を止めて子供を見送った。汚れをいとうように暗色で身を覆う立ち姿が、平和な町の賑わいの外に独りたたずんでいるかに見えて、リオンは悲しくなった。

 ふと影が揺れて、また歩き出すゼルスを慌てて追う。こちらを向いた表情はずっと笑っていた。苦しいほどに穏やかで、痛いほどに静かだと、そう感じるかどうかのところでそこに困惑の色が差す。珍しい打ち明け話もここまでかな、と思う。

 ところが彼は目を瞑ると浅く息をついた。

「ティナは強い。変えるべきでないものを守り続ける力も、変えるべきものに立ち向かう心も、何よりそれらを見極める知性も兼ね備えている。空虚でしかない私にすら等しく手を差し伸べて、もっと才能を発揮してほしい、より高い立場から共に皆を導こうと、飽きもせず繰り返すあの強気にだけは困ったものだが──」

「けれども、何?」

 祈りにも似た言葉の続きを促せば、深緑の眼に淡い光が揺れる。

「ときおり自らの幸いを顧みないとすら見える彼女の、あるいはそれが数少ない願いなのだろうかと、想像することもある」

 リオンは目をしばたたかせた。複雑に揺れ動く光はたったそれだけのことで隠れてしまった。書物の民らしく背の高いゼルスの顔を覗きこむと自然、それは澄み切った空を背にした影になる。

「君なら叶えられるよ」

 嬉しさを隠さずに言葉を放った。青黒い影がわずかに歪む。

「きっと、君や彼女が正しいのだろう」

 卑屈すら譲ってしまうその虚ろを、霧のようだとリオンは思う。空を行くならきっとティナの欠落を埋められるだろうに。

「ティナは眩しすぎる?」

「たとえ灼かれたとしても私は構わない」

「俺たちは構うよ」

 それなのに彼はたまにそんなことを言う。一つの命を本気で一つ分とだけ数えて、これまで救った数も、これから救う数も、それどころか今まさに救っている数さえ無視してしまう。

「……すまない、失言だった」

「どうしてそう遠くを見上げるみたいな目をするんだ?」

 逸らされようとした視線をリオンは捕まえた。影の中へと引き戻した暗い眼差しの奥から、あの曖昧な光をすくい上げたくて、差し伸べた手はただ空を掻く。立ち止まった影がリオンの手を逃れていた。

「近づけばあの光を遮ってしまう」

 影の輪郭がふいに溶ける。青空に白い雲が陽の光を遮って、町並みを覆い尽くす薄暗がりの底でゼルスはどこか安堵するように笑った。

「もっと楽に考えてもいいんじゃないか」

 リオンは少し悩んで言葉を返す。宿はもう目の前だ。

「そうだな。そうするべきだと、思っている」

 静かな声を背に、リオンは扉に手をかける。引き開ける前の一息ほどの間にふとティナの幸せを想った。人族も書物の民もなく、誰もが何の憂いもなく生きられる世界。夜明けの先の、その晴れ渡る青に、彼女はただ誰かと翼を並べたいだけなのかもしれない。

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