星を灯し霧を行く

白沢悠

希望では足りない

 水音。傷んだ靴が水溜まりを踏み抜き、散った飛沫しぶきが夕映えに燃える。手を引かれて走る少年の後方、光差す方からは無慈悲な重い金属の足音が一つ、二つ、彼の耳に三つの先は知れない。切れ切れの呼吸、もうろうとする頭をもたげて行く手の空を仰ぐ。薄明の紫紺に染まる冬空の一点に星が灯る。

 ふいに夜空が遠のいた。少年が力尽き倒れかかり、繋いだ手が弾みにがされる。かろうじて踏み止まりつつ数歩、しかし足が今度は動かせない。落ちる視界の端に、若い娘が背を強く押されて駆け続け、女性が振り返りまた手を差し伸べてくる。勢い余り頭巾フードが脱げて暗灰のねじれた角が露わになった。角もつ書物の民ベルディア――長命で魔力に優れ、多く学術と政を担って人族と共存し、今は人族に追われる種族。彼らはその生き残りだ。そして、おそらくは追手も。

 女性は森を通る街道を戻って陽の沈む方へと向かう。少年の横を通り抜け、彼を守るべく進み出る。対する五つの人影は一様に首が無く、黒い影の輪郭を斜陽に鈍く光らせていた。金属の足音が重く響く。人影は鎧だ。主人を亡くし、それぞれに異なる人族の家の紋章ばかりを意味もなく掲げた鎧の群れが魔術によって動かされている。冒涜的な、けれど間違いなく高度な魔術だ。

 鎧の、そして女性の影が街道に長く差す。母にあたる女性の影の中で少年は身を震わせた。人族であれば少年ほどの子を持つ歳には見えない女性は、一介の学者に過ぎない。気象を研究し、その成果を人族に分け与えて生きてきた。住んでいた村の人々は最後まで彼らをかばおうとした。だから彼女は数日前、姿を隠し訪ねてきた同朋の言葉に――人族の支配者を追い落とし、代わってかつてのように人族と書物の民とを導こうという提案に、うなずくことができなかった。

「私は戦えません」

 人族とも、同族とも。そもそも戦う力が無い。女性の声は震えている。鎧は答えない。答えるはずもない。ただ彼らを取り囲もうと互いに距離を取る。それでも、鎧の術者があの同朋、あるいはその仲間なら、彼は書物の民を庇護する意思を持っているはずだ。

 張り詰めた沈黙の後――視野の左上端で何かが閃く。

「退がって!」

 りんと澄んだ女声、まばゆい光。街道の脇、斜面の上にまばらな木々の間から雷撃があやまたず五体の鎧を穿うがつ。ほとんど同時に人影が一つ追って空中に躍り出た。少年と女性は目を見張る。銀に近い淡金の髪がなびき、雷光を跳ね返して流星のようだ。

 生身を伴わない鎧はしかし、雷撃に込められた魔力の分だけわずかに硬直する。その隙を駆け抜けて影が三体の背をでる。触れられた鎧はそれきりくずおれた。残る二体が硬直を脱して、乱入者を遠ざけようと腕を振り回すが、深追いしなかった人影は悠々と離脱する。

 動きを緩めてそれと分かる、微光に淡い金の髪、薄闇に浮かび上がる白の軽鎧、丈の長い上衣は鮮やかな紅。角の見えないその女性は右手に残る二枚の術符を腰帯に戻すと、母子を振り返って微笑んだ。強いきらめきをたたえる鮮紅の双眸。抜き放った細剣もやはり華奢で優美で、およそ戦場には似つかわしくない。ほうける少年を母が半ば抱えて退がる。鎧が一斉に剣を抜いた。錆びた刀身は鈍くとも重い。

 鎧は次々と女性に斬りかかる。幅広剣の一撃を彼女は引きつけて避ける。翻した淡金の髪の一筋さえ斬らせず踊るように瞬く間に鎧の背後へ回り、短く風をうならせて背の一点を突く。夕陽でも星影でもない色彩の燐光を散らす軌跡は板金を貫いた直後、地を噛むような音を立てて浅く止まった。女性は迷わず細剣を引き抜くと一息のうちにもう一体を突く。浅い一撃を後目に先の一体が倒れる。細剣は魔力を帯びていた。術符のそれと同じ、魔術を破る力だ。

 至近の鎧五体が沈黙し、風のすすり泣きの奥に遠い騒音が新手の接近を伝える。向かう空で雲が走り夕陽を陰らせる。足音が聞こえて、女性は自身が飛び降りた斜面の方を見た。白い髪をした書物の民の男性が近づいてくる。古びた木製の身丈を超える長杖、女性の軽鎧と対照的な暗い黒茶色の外套がいかにも魔術師らしい。深緑の眼が静かに鎧の残骸を見下ろすと、燃える落陽を黒雲が覆っていく様を憂えた。

「遅すぎます」

「……君が速すぎる」

 剣を使う女性はティナ、魔術師の男性はゼルスという。旧知の彼らはそれきり視線すら交わさず、迫る板金の足音を一息の間に数えて得物を構えた。薄膜の緊張が弾けて声が二つ上がる。

 一つは灯火のようにこうこうと、一つは深霧のように茫漠と。意思疎通に適さない言語で細やかに高低と強弱とを調える詠唱は歌に似て、しかし詞も旋律も何一つ揃うことのないまま奇妙に響きあう。細剣と長杖とが暮れの暗い空中に文字を思わせる紋様を描く。魔術の資質ある者がその精神に感じる不可視の揺らぎが空間を掻き回し、術の完成を阻止すべく突撃する鎧の群れを包みこんだ。

 ゼルスが長杖を掲げる。あと数歩の距離に敵がいるというのに緩慢とすら見える動作、視線の先もどこか遠くの闇に外れている。

「――沈み、朽ち果てる」

 静かで曖昧な結句が揺らぎを鎮めた。収束した歪みの炸裂を予期した鎧は一斉に、欠けた首を長杖の先へ向ける。紫から藍へ移り変わりゆく夕空で、星が一つ、輝きを増している。

「影よ地を駆け、弾け――空へ落とせ!」

 ティナが細剣を振り下ろす。鋭い詠唱よりなお鋭い剣先が鎧の群れの踏み荒らした街道の一点を指したその瞬間、周辺一帯が無明の闇に閉ざされた――かに見えた。しかしそれは単なる闇ではない。黒い爆撃だ。夜に溶けこむ衝撃波は威力に見合わない乾いた破裂音と共に、鎧だけを軽々と跳ね飛ばす。一呼吸の後に闇が晴れれば鎧はすべて宙を舞っていた。魔術師の本分には程遠い、初歩的な、ただ一度の攻撃魔術が、敵の陣形を決定的に崩す。

 爆風を制御するティナは剣先に意識を向けていた。ゼルスは吹き飛ぶ鎧を見上げた。鎧の術者も、おそらくは彼と同じだろう。

 残照に数えて十一体の鎧が次々と重力に引かれて墜ちる。手練れの術者といえども制御に限界があるのか、一部が受身を取ろうとし、残りはそれすらままならず、街道にあるいは横の斜面に叩きつけられ――その衝撃で砕け散った。散発的に鈍い金属音が響く。板金の破片に交じって中に詰められていた石が転がっていく。

 落下の衝撃だけで砕けるほど鎧は脆くない。だが、石と金属の塊を十以上も打ち上げるだけで尋常ではないのに、加えて同時に各部位を損傷させるなど理論上ですら至難の業だ。異常な光景をただ冷徹に一瞥してティナは駆け出す。

 正確には、駆け出そうとする。

 閃光が走った。かすかに何かが焦げる臭いがする。彼女は踏みこんだ足を蹴り戻し上体を引いていたが、その動きを追った淡金の髪の一筋が焼き切られた。狙いの甘さは自身の魔術の結晶を一蹴された動揺ゆえか、いずれにせよ次は無いだろう。

 通った射線を遡る視線の先に、ふたりの魔術師は敵の姿を認める。黒雲が晴れてなお暗い黄昏の空の下、錫杖が帯びた光を受ける書物の民は白い長衣をまとっている。魔力になびく飾り布は括った髪と同じ紺、使いこまれた黒銀の肩甲と脛甲は飾りではないようだ。未だ残る三体の鎧に守られる彼が何を思うのか、推し量るに彼我の距離は遠すぎる。

 今度こそ駆け出したティナはまた違う攻撃魔術を試みる。疾走しつつも流麗な詠唱。左手に持ち替えた長杖と右手にめた指輪とで同時に術式を編みながら前進するゼルスを引き離し、一刻も早く得意の間合いに持ちこもうとする。剣先の燐光が淡い軌跡を描き、陽が落ちて冷える風がさらに凍りついて細かに瞬く。

 鎧の魔術師が錫杖を掲げた。収束する光が瞬間、星空をく。

「――凍てる天を穿て!」

 細剣で宙を突きティナは詠唱する。術者を守って現れ浮かんだ氷晶は直後、光条を受け拡散させて砕け散った。分かれた光条の一筋が軽鎧に弾かれる。涼しげな表情を崩さず彼女は分析する。不完全な攻撃魔術による相殺と防具の耐性とでかろうじてしのげた。

 足を止め、迎撃に専念する。青髪の魔術師もまた、まず突出して来たティナに攻撃を集中させることにしたようだ。駆ければ数呼吸の距離を隔てて対峙する、その間の空間で両者の魔力が衝突する。閃光が氷刃を撃ち落とし氷晶が光条を分散させて激しい明滅は目も眩みそうなほどだ。淡金の長い睫毛が縁取るまぶたに少し、力が入る。端正な横顔をまた一筋の光条がかすめる。一対一では分が悪い。氷刃が光条を掻い潜ったところで、次は首のない鎧が立ち塞がる。

 氷晶を弾ききって鎧が道を開けた。錫杖の先に一際強烈な光が宿っている。ティナは剣を引く。その周囲に漂う無数の氷晶はしかし明らかに小さく頼りなかった。光条の乱射に慣らされ、いつの間にか範囲を拡げすぎていた。

「――虚空を裂け、静謐を忘れよ!」

 数歩ほど左後方で声が上がる。ゼルスが重く長杖を振り下ろすと同時、烈光と轟音が宵を砕いた。過剰なほど術式を練られ、幾筋にも枝分かれしてなお強烈な雷撃は、ティナへと飛来する閃光を掻き消して鎧を片端から硬直させ、さらに青髪の魔術師の全身を呑みこむ。

 そして次の瞬間、途絶えて消える。

 ティナは左隣を見た。ゼルスは長杖を振りかざしたまま不自然に空を仰いでいた。放物線を描き降ってきた閃光が左胸のあたりを消し飛ばし、背後の地面を焼いていた。

 閃光が切れる。深緑の眼から光が失せる。ティナは細剣を振って駆け出した。これ以上見ていても意味はない。敵はその白い長衣こそ焼け焦げているが、まだ支障なく動けるようだった。守りを捨て、術者を狙撃することで元を断ったのだ。味方を守ろうとして雷撃を拡散させたのが悪かった。ティナはわずかに目を伏せる。思えばこれまで光条はすべて直線状に飛んで来ていた。あの魔術師は先の応酬で曲射を温存していたのだろう。

 錫杖が鳴る。首を失くした人族の国の鎧が一斉にティナを追う。もうひとりの動きを警戒する必要はなくなった。距離が詰まってわずかな間見えた敵の表情、聞こえた詠唱の声音からは折れない矜持が感じられた。明るい紺碧の眼が湛えるものは、人族と書物の民のいずれにも尽くしてきたという自負、彼らの未来を担っていくという決意だった。ティナは薄く微笑む。それは彼女に近しい覚悟だ。

 迎撃する間はなかった。光条を避けて右へ左へ、鎧を引きつけながら少しずつ後退する。鎧に射線を塞がせ、錆びた幅広剣の連撃を受け流し、十二の剣撃と五発の狙撃を凌いで――六発目の前に身をさらした。

 宵闇の街道にティナの影が深く伸びる。錫杖を振り上げる魔術師の心中は、再び距離を取らされた今も想像できた。光が収束する。青の魔術師は空を見上げない。闇ばかり見えるからだろう。その点は彼女と違う。むしろ腐れ縁の彼に似ていた。

 細剣で空をいだ。魔術を破る刃が、光条を斬り払う。

 何度も打てる手ではない。鎧の陰に駆けこんで、追って振り回される剣を叩き落とす。強引に退き次を避けると勢いのままに大きく右へ引き離した。背後を掠めて光条が一発、石畳を蹴り戻れば前方に外れて二発、後隙を狙う三発目は片手に持ち替えた細剣で斬る。鎧から逃れてまた退くと足元に砕けた肩甲があった。先に吹き飛ばした十一体の鎧の破片だ。もう退けない。細剣を振るい詠唱を始める。相殺は不可能だと分かっている。

 見れば鎧の魔術師の周りに無数の光が浮かんでいた。鎧は射線を塞がないように街道の脇を通り向かって来る。ティナの傍らにも小さな氷が結晶して瞬き煌めく。けれどそこまでだった。

 輝く錫杖が掲げられ――突如にして、消え失せる。

 一息のうちに再び現れた錫杖は、つかみなおそうと反射的に開いた魔術師の手をすり抜けて落ちる。路面に転がっていく段になりようやく見えたらしいそれを思わず追いかけ手を伸ばす、その先にあるはずのない人影があった。見上げれば右手に銀の指輪が光る。

「――揺らぎ、蕩け、消えゆく」

 深緑の眼が相対する紺碧を静かに見透した。淡々とした詠唱の結句は鎧の魔術師の視界を速やかに揺さぶり膝をつかせる。激しい目眩が落ち着けば首から下の感覚が失われている――光条に倒れたはずのゼルスが行使した魔術はそういう性質のものだった。自らの身体にかかる魔力を感じてか、魔術師は忌々しげに表情を歪める。

「精神幻覚か」

 問いではなかった。答えもない。否定が返らないだけで十分だ。身体感覚を奪い、錫杖を消し去り、術者の死を偽装する。そこに無いものを知覚させ、あるものを知覚させない。まさか攻撃魔術すらまともに撃てない未熟者が相手のはずはなかったが、では彼は何をしたのか、それを考える余裕はティナが徹底的に奪っていた。

 そのティナは残る三体の鎧と斬り結んでいる。うち一体の背の術式が魔術を破る細剣に貫かれた。もはや戦いは終わった。この作業が済めば、彼女はそこかしこに横たわる十一体を無力化しにかかるのだろう。魔術師は嘆息する。初めに向かわせた鎧はやはり砕け散ってなどいなかった。ただ転倒し、その上で破壊された様を幻視させられただけだ。砕かれたと見るが早いがすぐに魔力供給を絶って狙撃に切り替えたのは、今考えればまずかった。

 彼は再びゼルスに向きなおって言い放つ。

「道を違えた者に、話すことなどない」

 視界に収めた手足に力を込め立ち上がろうとするが、ただ体勢を崩し両足を投げ出すだけに終わる。込めた力も、体の傾きも、石畳にこすれた右肘の痛みさえ、今の彼にはまったく感じられない。

 一連の言動をゼルスはただ黙って見ていた。尽きゆく残照にほの明るいのは白い髪くらいのもので、他は暗色の外套も長杖も薄闇に沈んでいる。憐れむでもさげすむでもない深緑の視線がやはり暗い。

 拒絶も足掻きも驚くには値しないとばかり冷めきった、あるいはそう装った表情を間近に認め、鎧の魔術師はいっそう眉根を寄せる。魔術を、術具を、身体や生命を失う悪夢ばかりをった幻術師は、彼のような古い書物の民からすれば百にも満たない若輩と見える。

「楽に死ねないぞ」

「そうでしょう」

 穏やかな、しかし通る声が返った。同じ声が三度目になる雷撃の詠唱を辿る。長杖は使わず右手で、掻き回した微風に火花が散った。躊躇はない。ティナほどではないにせよ手慣れている。何に思いを馳せる間もなく術式を編み終えた。敗れた魔術師の胸元へ手を伸ばす。痛覚はもう奪ってある。

 結句を唱える前の一瞬、ごく薄い笑みがこぼれる。

 魔術師の表情は険しいまま、ふいに投げつけられた布に覆い隠された。粗布が殺す者と殺される者の交わす視線を断ち切って、見る間に錆びた赤色を吸い上げる。ゼルスは術を解き振り向いた。かすかに揺れた瞳が、魔術師の喉笛を貫く細剣に止まる。

「相手の目を見て殺すのは、止めた方が良いですよ」

 ティナが剣を引き抜く。ただそれだけで刃には血の一滴たりとも残らない。星屑を思わせる刀身を鞘に収めて、今度は術符を取り出す。鎧を止めたものとは違うそれには簡素な転移魔術が込められていた。生きているものを送るには不安定すぎる代物だが、それはもはや問題ではない。術符で触れられた青い髪の物体が掻き消える。人族の目から書物の民の脅威を隠すためだけの行為だ。

 後始末を終えたティナは真っ直ぐにゼルスを見据える。

「彼らはかつての関係を取り戻す道を、私たちは壁のない関係を新たに築く道を選びました。交わり得ない道です。私たちも、彼らも、相手の道を絶って進むしかありません」

 鮮紅の眼差しが宵闇に煌々と燃えていた。その煌めきを映した深緑はなお暗く、ゼルスは呼吸さえ忘れて立ち尽くす。

 先に動いたのはティナの方だった。歌うような詠唱と手すさびのような術式が、手元に冴え冴えと白い光を灯す。強い光に目を伏せたゼルスはややあってまた違う詠唱を呟く。長杖の先に浮かび上がった小さな炎を見上げて、一つ、深く長く息をついた。

「……君が正しいのだろう」

 ティナは人族の母と書物の民の父との間に生まれ、彼らに愛され、種族を問わず民に尽くす彼らの姿を見て育った。ゼルスの父母もまた書物の民ながら人族のため働いたが、それゆえ幼かった彼を置いて長く家を空け、帰ることなく殺された。もっともらしい説明なら簡単だ。彼には何が正しいか分からない。人族と書物の民が争い、勝った人族は人族同士で争う、これは違う。あの鎧の魔術師が取り戻そうとした書物の民の勝利も、やはり正しいとは思えない。

 光と炎に照らされて、ゼルスは曖昧な微笑を浮かべた。何か言おうとしてティナの唇が動きかけ、遠く誰かの名前を呼ぶ声に止まる。

「――アイオン!」

 見れば角のある少年が駆け寄ってきていた。夕陽の赤髪は魔術師の鎧に追われていた子供のそれだ。少年を追って他のふたり、それぞれ姉と母にあたる女性も行った道を戻ってくる。ティナとゼルスは互いを一瞥して母子に向きなおる。

「少し騒がしくしました。早くここを離れた方が良いでしょう」

「夜の間なら街道を使えます。急ぐに越したことはない」

 同行の提案はしない。武器を携えた見知らぬ相手という点で、母子にとっての彼らは鎧の魔術師と大差ない。

 今度は母と娘が顔を見合わせて、ともかくも戻ってきた道を歩きだす。それでも移動することになりさえすれば向かう方角は同じだ。陽の落ちきった空を背に、一際明るい星へと向かって進む。互いの素性を知らず、尋ねることもできないまま、当然に交わす言葉もない。

神官星クレスが見えるね」

 ただひとり、アイオンと呼ばれた少年だけが誰にともなく話しかけた。輝く両眼が真っ直ぐに行く手の星を見上げている。

「あの星が見えると、冬が終わるんだ。希望の星なんだって」

 少年は母親に手を繋がれたまま、後ろを歩くティナとゼルスを振り向いて笑う。ふたりは少年の頭上高く瞬く星を見た。戦う彼らをずっと見下ろしていたそれは、暦の十二星の一つで、早春の星だ。

「お姉ちゃんたちみたいだね!」

 無邪気な笑顔が照れたように染まって、すぐ母娘の陰に隠れる。それきり星空に目を逸らしてしまった。何を言う間もない仕草を微笑ましく眺めてから、ふとティナは隣を見る。

 薄く張り詰めた表情のない表情が神官星を見つめていた。足音ほどの気配もなく、夜風が揺らす白い髪ほども動かない。だがそれはごく短い間のものだった。気配を認めたゼルスは再びあの静かな微笑を向けてくる。ティナもまた優しい笑みを返した。深緑と鮮紅の視線が音もなく衝突する。互いの魔力と精神とを感じ取れるほどの距離、隠そうとも底はとうに知れている。

 数歩を行く前に決着がついた。ゼルスは温度を欠いた眼差しでたがわず早春の星を捉えなおすと、こぼすように低く呟く。

「私には見えない」

 意味のない言葉だ。追って星を仰ぐティナの瞳が一瞬、燃える。

「確かに今は、まだ星なのでしょう」

 しかし間もなく慈しむような微笑に戻り、宥める調子で説きはじめた。力強く輝く希望の星は、それでも凍える夜空に瞬いている。

「けれど――いつかきっと、この光は世界の隅々にまで届きます。人族も書物の民もなく誰もが、何の心配もせず、笑って生きていけるようになります」

 彼女は希望を、その先を語る。星より煌めく鮮紅の両眼が希望よりも明るい未来を向いている。世界を俯瞰しているとすら見えるのに少しの冷たさも感じさせず、遠く投げかけられる灯火のように凛とした輝きが、傍らにわだかまる暗がりを照らし出そうとする。

「たとえ、物事の暗い面ばかり見る貴方でも」

 ゼルスは静かに息を呑んだ。

 並び歩くふたりは星を見上げたまま、互いの足音ばかりを聞く。前を行く親子が振り返れば彼らの様子がよく見えたことだろう。灯りは周囲より自身を明るく照らす。光を向けることのない側も、何も見ていないわけではない。

「――夜明けはいつだろうか」

 彼は苦しげに息をつく。穏やかに淡々と灯火に寄り添う言葉を、紡ぐ声音はついに暗く重く、水底にも似たようとうに潰れかけていた。返すべき答えなど、あるはずもない。

 街道は続く。暗く冷えた風がティナの灯した光を吹き過ぎ、ゼルスが掲げる炎を揺らした。次の戦いへ、あるいは助けを求める人族や書物の民のもとへ。長い闇夜を希望の星に向かって、共存を願う彼女と、願う未来に迷う彼は、まだしばらく共に歩いて行く。

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