6.まじわり、とけて、甘くなる

 まずは親父に根回しをした。


「研究室に泊まってることにしてくれ」


 次は架空の内容を母と優愛に伝えた。

 優愛はとても悲しそうな声を出したけれど、あっさりと納得してくれた。多分、俺の親父について理解しているからだ。


(……浮気のアリバイ工作をしてる気分だ)


 俺の恋人は輝夜なのだから何も間違ったことはしていない。でも優愛には隠すべきだと思った。この事実が後で発覚した時、どれだけ辛い思いをさせるのかは分かる。それでも今の不安定な優愛には伝えられない。


(……何が正解なんだろうな)


 風呂上り、和室の窓際に座って星空を見上げ、輝夜を待ちながら思う。

 

 俺が優愛を拒絶できるなら、そもそも最初に付き合いをやめている。輝夜のことを考えるなら適切な距離を置くべきだけど、今は絶対に無理だ。今の優愛と離れられるなら、そもそも最初から……ダメだ、思考がループしてる。頭が痛い。


「良いお風呂でしたね」


 輝夜の声。

 俺は思考を中断して目を向ける。


 ドキリとした。

 制服とも私服とも違う館内着からは、妙な色気を感じてしまう。


 その気持ちをごまかすようにして、俺は言う。


「意外と景色が良かったよね」

「分かります。うっかり上せてしまうところでした」


 ホテルの外観は古びていたけれど、中は綺麗だった。タイミングが良いのか大浴場はほぼ貸し切り状態で、しかも窓から星空を見ることができた。


「この部屋からも見えますか?」


 輝夜は質問しながら隣に座った。

 微かに火照った頬と少し濡れた髪。

 それは今の俺にとって、とても危険な毒に思えた。


「……その髪、乾かすの大変そうだな」

 

 特に意味は無い。

 間を持たせるための会話。


「普段は一時間以上ケアしています」

「一時間? 大変じゃない?」

「慣れると案外悪くないですよ。私の場合、物思いにふけることが多いので」


 何も考えない時間は落ち着く、ということだろうか? ……いや、逆か?


「春樹さんは、優愛さんみたいに短い方が好きですか?」


 ……また、優愛の話か。

 俺は感情を出さないために、返事をワンテンポ遅らせた。


「髪が短い輝夜は、想像できないかも」

「……やっぱり、長い方が良いですか?」

「ん-、どっちも好きかな」

「……はぐらかされました」


 どちらが好きかと問われ、どちらも好きだと言った。

 俺は質問に答えていない。だけど輝夜的には嬉しい返事だった。そういう意味での「はぐらかされた」なのだと思う。実際、はぐらかした。


 笑える。今の質問に答えが出せないのに、優愛と輝夜のどちらが大切かなんて、決められるわけがない。


「……なんだかロマンチックですね」


 輝夜が言った。


「恋人と二人で星空を見るなんて、小説では頻繁に描かれるシーンですけど……」

「……そうだね」


 俺もそこそこ本を読む。

 もちろん輝夜には遠く及ばないけれど、このような場面には覚えがある。


「小説だと、星座の名前とか言うことが多いよね」

「分かります。みんな妙に博識ですよね」

「博識か……」

「含みのある言い方ですね」

「いや、単純に輝夜も詳しそうだなって」

「前にも言いましたけど、私が知っているのは、興味のあることだけです」

「星座には興味が無い?」

「……あまり、好きじゃないです」


 珍しいと思った。

 輝夜がハッキリと否定するところ、あまり見た覚えがない。


「星は、ただそこにあるだけです。それなのに、勝手に名前を付けて、勝手に物語を紐づけて……そういうの、好きになれないです」


 呟くような声。

 ふと横顔を見ると、微かに寂し気な表情をしていた。


 何か地雷を踏んだのかもしれない。

 気の利いたことが言いたいけど何も出てこない。こんな輝夜を見るのは初めてだ。


 沈黙が続いた。

 やがて、輝夜が先に声を出した。


「……お布団を敷きましょうか」

「……そうしようか」


 俺は彼女の提案に乗った。

 この部屋に布団を敷くサービスは無いからセルフで用意する必要がある。


「窓際が良いですかね?」

「任せるよ。俺はどこでも眠れるから」

「それでは窓際にしますね」


 会話をしながらふたつの布団を並べた。

 軽く息を吐いて二人でそれを見つめる。


「……後は、寝るだけですね」

「……そうだね」


 食事は済ませた。お風呂に入って歯磨きもした。思い浮かぶ娯楽は星空を見る程度で、ほんと、寝る以外にやることがない。


(……大丈夫。寝るだけ)


 何が大丈夫なのか分からないが、とにかく大丈夫だ。

 仮に何か起きたとしても、恋人同士だから問題は無い。


 多分、キスか手を繋ぐ程度だ。

 その先へ進む気分にはなれないし、想像もできない。


「春樹さん」


 息を止める。


「……なに?」


 ぎこちない返事。

 輝夜は何度か深い呼吸をした後、意を決したように言った。


「優愛さんにしたこと、私にもしてください」


 ……。


「昨日は、くっ付いて寝たんですよね?」


 ……待ってくれ。


「どんな感じでしたか? とりあえず横になればいいですか?」


 ……それは、本当に、ダメだって。


「優愛さんは良くて、私はダメなんですか?」


 多分、考えてることが顔に出た。

 俺は頭を抱え、どうにか返事をする。


「状況が違う」

「何も違わないと思います」

「俺は、輝夜が思ってるほど安全じゃない」

「私だって春樹さんが思ってるほど綺麗じゃないです」


 互いに譲らない。

 俺の本音を言えば断る理由が無い。

 普通に性欲はあるし、輝夜には魅力を感じている。


 だけど、違うだろ。

 優愛が心に残っている状態で……どの口が言うんだって感じだよな、本当に。


 なんか、もう、疲れた。

 そもそも悩む理由なんて無いだろ。俺も輝夜も嫌じゃないんだから。


「座ってくれ」


 少し間が空いて、輝夜は布団の上に座った。

 俺は軽く息を吐いてから膝をつく。そしてふと気が付いた。まだ座ってくれとしか言っていないのに、彼女は黙って背中を向けている。


 ああ、そっか。本当に怖いくらいの推理力だ。

 普通なら混乱する。質問とか、俺の様子を見るとか……でも彼女は振り返る素振りすら見せない。きっと、何をされるのか分かっているからだ。


 その背中を見つめる。

 優愛とは違う長い髪が印象的で、思わず目を奪われる。この中に手を突っ込んだら一体どんな感触があるのだろう。


 ああ、最悪の気分だ。

 今から触れる相手に欲情しておきながら、頭の中には他の人が居る。


「……春樹さん?」


 名前を呼ばれハッとした。

 軽く頬を叩いて邪念を捨てる。


 それから俺は、何も考えず昨日と同じことをした。


「……」

「……」


 生まれたのは静寂。

 空っぽになった思考とは裏腹に、五感は生々しい感覚の伝達をやめない。


 少しチクリとする髪の感触。その奥にある肌の柔らかさ。そして甘い香り。想像を上回る情報量が胸の鼓動を早くして、輝夜の背を叩いている。


「……これで、終わり」


 俺は沈黙に耐え切れず声を出した。


「……このまま、優愛が眠るまで、待った」


 輝夜は返事をしなかった。

 その代わり、そっと俺の手に触れた。


(……同じだ)


 優愛も同じことをした。


(……でも、微妙に違う)


 指の長さ、形、感触。

 昨夜の時間を鮮明に覚えているからこそ、僅かな違いを比較してしまう。


(……気持ち悪い)


 強い嫌悪感が生まれた。

 それは、とある考えが脳裏に浮かんだせいだ。


 ──優愛も、同じことを考えていたのかな。


 ほんと、嫌になる。

 なんでだよ。なんで輝夜の……こんなにも素敵な女の子の隣で、俺は……。


「……ごめんなさい」


 輝夜が何か呟いた。


「やっぱり、我慢できないです」


 彼女は急に体を反転させた。

 そして──決して背中からは感じ取れない感触が、胸に押し当てられた。


(……これは、どっちの鼓動だ?)


 困惑する。

 直前までの雑念が今の衝撃で全て上書きされた。


「春樹さん……」


 彼女は体を離した。

 そして俺の肩を摑み、じっと見つめてくる。


 俺は目を閉じた。

 拒絶する理由も、それを考える余裕も残っていなかった。


 見えなくても気配で分かる。

 あと数センチ、あと数ミリ……そして、触れ合った。


 この感覚には、まだ慣れない。

 味なんて無い。触れている感触も、ほぼ無い。ただただドキドキする。


(……ん?)


 何か普段と違う感覚があった。

 柔らかいモノが俺の唇を押している。


(……これっ、まさか)


 思わず口が開いた。

 そして次の瞬間、きっとこの世で最も柔らかいモノが、俺の舌を挟んだ。


 目を見開いて輝夜を見る。

 彼女はギュッと目を瞑り、体を硬直させている。


 頭が真っ白になった。

 きっと互いに息を止めて硬直していると、やがて輝夜がゆっくりと顔を離した。


 うっとりとした目付き。ぽかんと空いた口。そして、風呂上りに見た時よりも火照った頬。彼女は、これまで俺に見せたことのない表情をしていた。


「幻滅しましたか?」


 輝夜は言う。


「私にだって、汚いところはあります」


 空っぽになった頭の中が、その声だけに満たされる。


「ずっと我慢してました。春樹さんを苦しめる選択は、避けようって……」


 微かに瞳を潤ませて、彼女は言う。


「ごめんなさい。やっぱり、同じは嫌です。もっと、特別が欲しいです」


 彼女は両手で俺の頬に触れると、じっと見つめた後、再び顔を近づけた。


 二度目の侵入。俺はあっさりと受け入れた。

 やり方なんて知らない。それはきっと彼女も同じだ。とても控え目な感触が、口の中で動き回っている。


(……なんだよ、これ)


 舌と舌が触れ合う度、体が痺れた。

 上半身に押し当てられた感触は徐々に強くなって、彼女はいつの間にか両足で俺の腰を挟んでいた。


 全く想像していなかった行為によって脳が溶かされる。

 触れ合うだけだった舌が絡み合うようになって、口の中に唾液がたまり始めた。


 聞いたことのない音がする。

 吸ったり、押し込んだり……輝夜は色々なことを試している様子だった。


 不意に彼女が目を開いた。

 直ぐに目が合う。何かを求めるみたいに切なげな瞳。


 決定的だった。

 僅かに残った理性を溶かすには、十分過ぎる程の魔性があった。


 俺は、恐る恐る彼女の舌先を舐めた。


 輝夜は驚いたような声を出した。

 冷静になれば、単に息を吸っただけの音だったのかもしれない。だけど、今の俺にそれを考えるだけの理性は残っていなかった。


 音が大きくなる。

 舌と舌が絡み合って、次々と溢れ出る唾液が互いの口を行き来する。


 息が苦しい。どこで呼吸をすれば良いのか分からない。

 だけど離れられない。お互い貪欲に未知の感覚を求め合った。


 まじわる度に互いの境界線が薄れる。

 直前までに考えていた悩みとか、迷いとか、全部とけていく。


 どんどん口の中が熱くなった。

 最初の頃にあった苦味は徐々に薄れ、そのうち甘くなった。


 これは何なのだろう。

 互いに歯を磨いた後で、何か食べた後なんて残っていないはずだ。そもそも直前に食べた物の中に、こんなにも甘い味は無かったはずだ。


 ケーキよりも、砂糖にまみれた炭酸飲料よりも、ずっと甘い。


(……この時間が、永遠に続けば良いのに)


 そう思った直後だった。


「……」


 輝夜が、グッと俺の頬を押して、顔を離した。


 先程よりもずっと蕩けた表情。

 だらしなく開いた口から透明な糸が伝う。


 彼女は熱にうなされてるみたいに荒い呼吸を繰り返す。

 その度、きっと無意識に、俺の顔に熱い息が吹きかけられた。


「この先は、ダメです」


 輝夜は言う。


「春樹さんの中に優愛さんが残っている間は、ここが、終着点です」


 これまでに見た輝夜とは違う。

 発情という単語がピッタリと当てはまるような雰囲気がある。


「だけど、我慢するのは、私も同じです」


 彼女は再び顔を近づけた。


「……塗りつぶしてあげます」


 耳元でささやかれた声が背筋を震わせる。


「……春樹さんを苦しめる優愛さんなんて、忘れさせてあげます」


 彼女は俺の肩に顎を乗せる。

 それから背中に両手を回して、痛いくらいに強く抱きしめた。


「……私を、選んでください」


 俺は──脱力した。

 情報の密度が許容できる量を超えて、脳が処理できなくなった。


 そのまま後ろに倒れる。

 輝夜は俺にくっ付いたまま離れなかった。


 ふと夜空を見上げる。

 満天の星空が、今も変わらずそこにある。


 人が住む場所から遠く離れた静かな場所。

 二人だけが居る部屋の中で、重なりあった部分から伝わる鼓動だけが、いつまでも鳴り響いていた。

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