ごめんね。私やっぱり、ダメみたい

「私、何してるんだろ」


 一人になった後、呟いた。

 保健室のベッド。ハルくんがカーテンを閉めなかったから周囲がよく見える。


 窓の外、よく晴れた空。聞こえるのは体育の授業をしている声かな。すごく元気。


 体調は少し落ち着いた。

 多分、ハルくんと話をしたからだ。


 昨日もそうだった。私はハルくんを感じられる時だけ普通になれる。実際、彼のベッドを使った昨夜は久々に良く眠れた。薬よりもハルくんの匂いの方が効くのかもしれない。


「……変態過ぎでしょ。流石に」


 独り言を口にして、苦笑する。


(……やばい。また)


 体が疼いた。

 全身が熱を持つ。

 特に、下腹部が熱い。


 触りたい。

 指でもペンでも入れてグチャグチャ……。


 ダメ。それは絶対にダメ。

 この衝動に抗えなかったせいで、ハルくんを裏切ることになった。


 二度と繰り返すもんか。

 大丈夫。ハルくん直ぐに戻るって言ったから、ちょっと我慢するだけ。

 

 ──足音。


「ハルく……」


 振り向いた私の目に映ったのは、


「やぁ、一週間振りだね。優愛ちゃん」


 この学校で最も会いたくない人だった。


「あは、随分と息が荒いね。何か期待してるのかな?」


 私はパニックになった。

 今、授業中だよ。なんで居るの。何しに来たの。多くの言葉が思い浮かぶのに、ひとつも声にならず胸の内へと引っ込んだ。

 

「そんなに睨まないでよ」


 彼はニヤリと笑って言う。


「セックスした仲じゃんか。俺ら」


 最悪。最悪。

 ハルくんが戻る前に、早く帰らせないと。


「何しに来たの」


 自分でもビックリする程に低い声が出た。

 彼は一瞬だけ目を丸くしたけれど、直ぐにまたニヤついた表情に戻る。


「俺と付き合おうよ」

「……は? 有り得ないんですけど」

「小倉、坂下と付き合ったんだろ。じゃあ、遠慮することなくね? それとも狙ってた男を盗られた八つ当たり?」


 うざい。キモい。最悪。

 過去の私、何やってんだろ。

 こんなの相手にしたとか信じられない。


「てか優愛ちゃんさ、今ムラってるでしょ」

「……は?」

「分かるんだよ。俺そういうの。さっき廊下を歩いてるの見た時にさ、ピンと来たんだよねぇ」

「マジきも……触んなっ!」


 私は彼の手を払い除けた。

 それから身体を起こして距離を取る。


「ハルくん、直ぐに戻ってくるから」

「ちょうど良いじゃん。見せつけようよ」

「私リピートNGだから。早く消えて」

「寂しいこと言うなよ。傷付いたら、うっかりこれ、ネットに上げちゃうかも」


 彼は私にスマホを見せつけた。


「……は?」


 暗くてハッキリとは分からない。

 でもそれは──


「おっと、危ない」


 彼は私が咄嗟に伸ばした手を避け、醜悪な笑みを浮かべた。


「世界中の人に見られんのと、小倉だけに見られんの、どっちが良い?」

「……最悪」

「俺はどっちでも良いんだよ。べつに」

「……最悪」

「てか悩むことなくね? あのインポ野郎に見せる方がマシだろ?」

「……黙って」

「俺さ、マジで優愛ちゃん好きなんだよね。小倉の女が俺の上で腰振ってるとこ、マジで興奮してさ」

「黙ってよ!」


 パチンッ、と音が鳴った。


「……え?」


 頬が熱い。

 ……叩かれたの?


「めんどくせぇわ」


 彼は私を睨んで言う。


「せっかく優しくしてやったのにさ……黙って脱げよ」


 そしてまた私に向かって手を伸ばした。


「いやっ」


 逃げようとする。手首を摑まれた。

 

「はなしっ」


 手を振って抵抗した瞬間──


(……ぁ、やだ、これ)


 彼の姿が、トラウマと重なった。


(……やだ。怖い。助けて)


 泣き叫ぶ私。

 理不尽な暴力と、それから──


「あは、その顔。やっぱ期待してるよね?」

「……ふざけないで」

「あれれ? 気が付いてないのかな?」


 彼はスマホを操作すると、楽し気な様子で私に見せた。


「……なに、これ」


 動画じゃない。

 普通に写真を撮る画面。


 私の表情は──恍惚としていた。


「……ちが、こんな、私じゃない」

「分かった。そういうプレイってことか」


 否定したい。

 今すぐ彼の汚い手を振り解きたい。


 それなのに……

 息が乱れる。心と体が、疼き始めている。


(……私、なにしてるんだっけ)


 ふわふわした。


(……どうして我慢してるんだっけ)


 理性、消え始めた。


(……ぁは、バカじゃん)


 もう一人の私が顔を出す。


(……悪いことするわけじゃない。お互いの気持ち良いとこ、擦り合うだけ)


 何もかも、塗り替えられる。


(……最高じゃん)


 私は彼の下腹部をチラと見た。

 その瞬間、頬の端から涎が零れ落ちた。


「良いね。その顔、最高に興奮する」


 彼はスマホをベッドに置いて言う。


「キスしよっか」


 顔を近づけてくる。

 私は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。


 一秒が何倍にも引き延ばされる。

 目の前に居る男の顔が黒く染まる。


 あれは人じゃない。

 ただ私に快楽を与えてくれるだけの存在。


 じゃあ、いっか。

 そして──ぶにゅ、と、柔らかい感覚。


 とても久々の感触だった。

 私の全てを壊したその感触を──膝に、感じた。


「……っ、てぇ~」


 彼は股間を押さえて苦しそうに言った。

 その様子を見ながら、私は全力疾走をした後みたいに荒れた呼吸を整えようとして、胸に手を当てる。


(……危なかった)


 手のひらから感じる鼓動が痛い程に速い。


(……もう少しで、裏切るところだった)


 涙が出た。

 恐怖と、後悔と、安堵。色々な感情がグチャグチャに混ざり合っていた。


「ふざけんじゃねぇぞ!?」


 その怒声でビクリと肩を揺れる。

 彼は、鬼のような形相で私を睨んでいた。


「……いやっ」


 彼が拳を握り締めた。


「……助けて」


 殴られる。あの時みたいに。

 怖い。身体の震えが止まらない。


「ハルくん!」


 私は、あの時と同じように叫んだ。

 そして、あの時と似たような音を聞いた。


(……あれ?)


 想像した衝撃と痛みが無い。

 私は薄っすらと目を開ける。そこには、


「テメェッ、邪魔すんなよ!?」


 ……来て、くれた。


「少し待て。今、落としどころを考えてる」

「離せッ! クソがッ!」


 再び鈍い音がした。


「……え?」


 ハルくんが殴られた。

 彼の額からツーと紅い液体が零れて、床に落ちた。


「……いや」


 悲鳴を上げそうになる。


「あはははっ、だっせぇ~!」


 それは醜悪な笑い声に掻き消された。


「……あぁ、これだ。ちょうどいいや」

「何ボソボソ喋ってんだよ」


 ハルくんは腕で額を拭う。

 私は紅くなったブレザーの袖を見て、背筋が凍りつくような感覚に襲われた。


「いち、に……四回かな」

「だから何ボソボソ喋ってんだよ」


 ハルくんは、怖いくらいに落ち着いた様子で彼を見て言った。


「あと三回だけ殴られてやる。早くしろ」


 彼が拳を握る。

 私は咄嗟に目を閉じた。

 だけど鈍い音からは逃れられなかった。


「あと二回」

「血塗れで強がってんじゃねぇ……よ!」


 また彼がハルくんの顔を殴った。

 血が飛び散る。私は怖くて、悲鳴を上げることもできない。


(……逃げて)


 こんなの望んでない。


(……ハルくん、やだよ)


 ハルくんが傷つけられるくらいなら、私が汚される方が、ずっとマシ。


「あのさ」


 ハルくんが言った。


「お前のパンチ軽過ぎるわ。もうちょっと気合入れてくれよ」


 ハルくんバカなの? なんで煽るの?


「決めたわ。テメェ半殺しにして目の前で優愛ちゃん犯す」


 四度目の暴力。

 私は目を逸らせなかった。

 その代わりに涙で視界が歪んだ。


 分かんないよ。

 ハルくん何やってるの?


 こんなの見たくない。

 こんなの……やだよ。


「おぃおぃ、今さら逃げんのかよ?」


 その言葉を聞いて顔を上げる。

 ハルくんが廊下側に向かって歩いていた。


「待てよ」


 ハルくんは彼の声を無視して、何かを手に取った。


「今さら逃がすわけねぇだろうが!」


 彼が大声を出してハルくんに殴りかかる。

 パチッ、と音がした。彼の拳が受け止められた音だ。


「終わりだよ──色んな意味で」


 その後、何が起きたのか分からなかった。


「……は?」


 彼自身も何が起きたのか分からないという様子だった。


神楽坂かぐらざかみなと、三年生」

「……おま、なんで俺の名前」

「二年生までの成績は上の下。推薦が確定してからは下降気味」

「クソがッ、いつまでも踏んでんじゃ……ああくそっ、なんで動けねぇんだよ!」


 未だに目の前の光景が理解できない。

 額から血を流したハルくんが、じたばた暴れる彼──神楽坂さんを踏んでいる。


「正直、まだ悩んでる」


 ハルくんは落ち着いた様子で言う。


「ひとつは穏便に済ませる選択。二度と優愛に近付かないと約束させる。でも口約束なんて何の意味も無い」


 ……ああ、これ、違う。

 ハルくん、ちっとも落ち着いてない。


「警察は意外と役に立たない。説明に時間が必要だし、最悪の場合は学校が揉み消すかもしれない。停学とか推薦の取り消しだけで終わる可能性もある。処分が確定する前に、お前が優愛に手を出すかもしれない。何ひとつ確実じゃない」


 分かる。一度だけ見たことがある。

 これは、本気で怒ってる時のハルくんだ。


「単純なのは暴力だけど、中途半端に殴っても解決しない。お前の心が折れるまで、徹底的にやる必要がある。これはリスクが大きい」


 ハルくんは冷たい目で彼を見て言う。


「どれにしようかな」

「……あのさ、なんでお前が有利になってるわけ?」


 神楽坂さんはハルくんに踏まれたまま言う。


「教えてやるよ! 俺は、お前の大事な優愛ちゃんとヤッたんだぜ!」


 その言葉で私は一気に現実へと引き戻された。

 

「ちが」

「知ってるよ」


 違うの。

 私が声を出すよりも早く、ハルくんは低い声で言った。


「だからどうした?」

「……どうって……動画がある! 今すぐ足を退けねぇとネットにばらまくぞ!」

「お前バカか? 自分から証拠を提出してどうすんだよ」

「証拠だと……?」

「お前は動画で性交を強要したわけだ。普通に犯罪。こっちが有利になる証拠を提出して意味あんのかよ。エロ漫画とかの読み過ぎで頭おかしくなったか?」

「……あー、決めた。絶対にやる。ばらまいてやる」

「何をばらまくって?」

「優愛ちゃんとのハメ撮り動画だよ! ほらっ、本当は嫌なんだろ!? だったら足を退けろよ! 今なら、目の前で優愛ちゃん犯すだけで許してやるからさぁ!」

「はい、お前の人生終了」


 ハルくんは再びスマホを操作した。


『優愛ちゃんとのハメ撮り動画だよ! ほらっ、本当は嫌なんだろ!? だったら足を退けろよ。今なら、目の前で優愛ちゃん犯すだけで許してやるからさぁ!』


 スマホから再生されたのは、神楽坂さんの声だった。


「さて……」


 ハルくんは足を退ける。

 それに気が付いた神楽坂さんは素早く立ち上がり、ハルくんに襲い掛かった。


「──グガッ」


 ハルくんは彼の腹部に蹴りを入れた。

 たった一度の蹴り。それだけで彼はお腹を押さえて床に崩れ落ちた。


「勘違いすんな。まだ終わってねぇぞ」


 ハルくんは再び彼の腹を蹴った。


「……やめ、やめて」


 彼の声色が変わる。

 しかしハルくんは遠慮なく腹を蹴った。


「……なんで、腹ばっか」

「少しは頭使えよ。見える場所はバレるだろ」


 ハルくんは止まらない。

 顔色ひとつ変えず、彼の腹を集中的に蹴り続けた。


「結局、暴力が一番なんだよ」


 ハルくんは彼を蹴りながら言う。


「法律は何も守ってくれない。だから優愛は傷付けられた」

「……おま、ほんと、やめ」

「社会的制裁も意味が無い。仮に犯人が死んでも過去は消えない」

「……死ぬ、俺が死ぬから」

「やっぱ暴力だわ。どうせ何しても無意味なら、これが一番スカっとする」

「分かった! 二度と近付かない! 誓うから!」


 ハルくんは蹴りを止めると、彼の髪を摑んだ。


「お前、勘違いしてるよ」

「……勘違い?」

「俺の手元には複数の証拠がある。優愛に対する暴力。俺に対する暴力。脅迫音声。要するに、俺の匙加減ひとつでお前の人生終わりなんだよ」

「……ぁ、ぁぁ」


 ハルくんは彼の耳元に口を近づける。


「立場、分かったか?」


 私が聞いたことのないような低い声。

 その少し後、水が落ちるような音がした。


「……うわ、お前マジかよ」


 音の正体は臭いで直ぐに分かった。


「頼む。頼むよ小倉。見逃してくれ……」


 神楽坂さんは泣きながら懇願する。


「俺が悪かった。二度と手を出さない。絶対だ。約束するから!」


 ハルくんは苦々しい表情をして私を見た。


「……」


 何か言うべきなのだと思った。

 だけど私は何も言えなかった。


 ハルくんは溜息を吐いて、また彼の腹を蹴った。


「痛ッ、もう、本当に無理。やめてくれ」

「やめてください、だろ」

「ごめんなさい。やめてください。なんでも、なんでもしますから!」


 もはや別人だった。

 数分前、あれだけ恐ろしかった神楽坂さんが、今は少しかわいそうに見える。


「分かった。終わりにしてやる」

「……ほ、ほんとに?」


 ハルくんは再び彼の髪を摑むと、正面から睨み付けた言った。


「後で必ず会いに行くから待ってろ」

「……」

「返事は?」

「……はい、分かりました」


 神楽坂さんは完全に心が折れていた。


「今すぐ失せろ」

 

 ハルくんが手を離した。


「……はい!」


 神楽坂さんは慌てて立ち上がった。

 しかし自分が汚した床で滑って転倒する。


「……っ!」


 とても嫌そうな顔をした。

 位置的に、飲んでしまったのだろう。


「やっぱ掃除してから失せろ」


 ハルくんが溜息まじりに言った。

 その後、神楽坂さんは必死に床を掃除してから走り去った。

 

「……」

「……」


 私とハルくんは、どちらも口を開かなかった。


(……言わなきゃ)


 助けてくれてありがとう。

 簡単な言葉が、どうしてか出てこない。


 だって一言なんかじゃ足りない。

 今の気持ちを表現するための言葉が、思い浮かばない。


「ごめん」


 ハルくんが頭を下げた。


「……もっと上手くやれたはずだった」


 私は唇を嚙む。

 それから彼の顔を真っ直ぐに見た。


「……血」


 そして今さら思い出した。


「座って!」

「……見た目ほど大した怪我じゃない」

「良いから!」


 私は目元を袖で拭って立ち上がる。

 それから保健室内を走り回って、治療するための道具を集めた。


「動かないで」


 ハルくんの前に立って、傷口の消毒を始める。


「なんで、わざと殴られたの」

「……自己満足」

「意味わかんないよ。ちゃんと説明して」


 ハルくんは暗い表情をした。


「見てたんだよ。最初から」


 ハルくんの口元が震える。

 グッと涙を堪えるような様子だった。


「あいつが後ろに居たこと、分かってた」


 ハルくんの瞳が潤む。


「どうすれば良いのか分からなかった」


 まとまりのない言葉。

 きっと色々なことを考えながら喋ってる。


「俺は優愛を支えるって決めた。だけど輝夜と付き合ってる。今の関係は、正しくない。中途半端だ。でも他の方法なんて分からなくて、もやもやする」


 ハルくんは絞り出すような声で言う。


「優愛があいつを選ぶなら、その方が良いと思った。だから、保健室から離れる振りをした。その結果がこれだ。優愛にあんな顔させて……俺は、また、間違えた」


 私は当たり前のことに気が付いた。

 悩んでいたのは、私だけじゃなかった。


「四回だ。優愛を守れなかったこと。優愛が苦しい時、気が付けなかったこと。酷い言葉を口にしたこと。今、また間違えたこと……俺が一番許せないのは、自分なんだよ」


 ずっと壁を感じていた。

 ハルくんは兄妹みたいな責任感で私と一緒に居てくれているだけで、本当は私のことが大嫌いになったんだと思っていた。


 だけどそれは間違いだった。

 ハルくんは、本気で自分を責めている。


「ハルくんは悪くない」


 だから私はハッキリと否定した。


「ハルくんは、ずっと優しい」


 許されないのは私の方だ。

 ハルくんが苦しいのは、私のせいだ。


「ハルくんは私を嫌いになるべきなんだよ」


 だから私は言った。

 今この瞬間に決別しなければ、またいつか同じことが起きる。私のせいでハルくんが辛い思いをするのは、絶対に嫌だ。


「こんな汚い人なんか忘れてさ、坂下さんと幸せになるべきなんだよ」


 調子の良いことを言っている自覚はある。

 最初こそ悲劇だったかもしれない。だけど、その後の選択をしたのは私自身だ。


「だから……あれ?」


 言葉の途中、涙が溢れた。


「おかしいな。気が抜けちゃったせいかな」


 袖で拭う。

 次から次へと溢れて止まらない。


「違う。これは、違うからね」


 見苦しい言い訳をした。

 

「……だから、つまり、ハルくんは」


 私を嫌いになった方が良い。私なんか忘れて自分の幸せを優先した方が良い。


 私は汚いから。

 何度もハルくんを傷付けたから。


 だから……


「今日で、全部……」


 今日で、全部、終わりにしよう。


 頭の中には言葉がある。

 後は声に出すだけなのに、できない。


「……今日で、全部ッ」


 ポフっ、という音がした。


「……え?」


 何も見えない。


「……ちょっと、ハルくん?」


 少し硬くて、温かい。

 背中と後頭部に触れた手。

 そして額に押し当てられた胸の感触。


「……やめてよ」


 ハルくんは、私をそっと抱きしめていた。


「……優しくしないでよ」


 言葉では否定している。

 だけど身体は彼を拒絶できない。


「気心が知れた人とのスキンシップは、幸せホルモンの分泌を促進する」


 ハルくんは急に難しいことを言った。


「幸せホルモンには、精神を安定させる効果がある。ストレスが減ったり、睡眠の質が改善されたり、良いことがたくさんある」


 ハルくんは少しだけ力を強くした。

 それは物理的な痛みと一緒に、彼の気持ちを私に伝えた。


「だからこれは、俺が勝手にやってるだけ。べつに、優愛を慰めたいわけじゃない」


 私は唇を強く噛む。

 だって……こんなの、反則だよ。


「……私、汚いから」

「優愛は汚くなんかない」


 諦めたい。

 諦めなきゃダメなのに。


「……ハルくんが、嫌な思いをするんだよ」

「嬉しいことの方が多い」


 ダメだ。頭、ふわふわする。

 嬉しい。すごく嬉しい。ハルくんは、こんな私でも受け入れてくれる。


 でも、だからこそ──


「やめて」


 私は最後の理性を振り絞る。


「私はハルくんを何度も裏切った」


 流されちゃダメだ。

 ハルくんは優しいから、私がちゃんと終わりにしないとダメなんだ。


「さっきだって、あのまま流されても良いかなって思った」


 汚れた初恋を終わらせて、彼を自由にすることが、私にできる唯一の罪滅ぼしなんだ。


「今回はギリギリ我慢できたけど……いつか絶対にやらかすよ」

「それでも俺は」

「やめてよ!!」


 違う。違う。

 こんな風に叫びたいわけじゃない。


「坂下さんが居るじゃん! 最高の恋人じゃんか!」


 私は最低だ。

 自分が一番分かってる。


「私はハルくんを傷付けてばっかり!」


 私だったら関わりたくない。

 今すぐに距離を置いて、二度と会わない。


「ハルくんは……私なんか、忘れた方が良いんだよ!」


 今すぐに私を見捨てるべきだ。

 私なんかに優しくしても、嫌な気持ちになるだけなんだから。


「それでも俺は、優愛が大切だよ」


 ……。


「優愛が学校を休んだ時、どこを見ても二人の思い出があってさ……」


 ハルくんの声が震えてる。


「今さら離れるとか、無理なんだよ」


 ハルくんは抱擁を解いた。

 それから泣き腫らした目に私を映して、下手くそな笑みを浮かべる。


「俺、優愛がまた普通に笑える日まで、絶対に離れないから」


 それは本当に反則だった。

 こんな笑顔で、こんなことを言われたら、私は……。


「……私、笑えるよ」


 私は頑張って笑顔を作った。


「舐めんな」


 ハルくんは私を真っ直ぐに見て言う。


「本気の優愛は、そんなもんじゃない」

「……何それ」

「見るだけで一日くらい幸せになれる」

「……バカじゃん」


 私はコツンと彼の胸に頭突きした。


「坂下さんに言いつけてやる」

「べつに、何も悪いこと言ってないだろ」

「やった。私を抱きしめた。完全に浮気」

「アレは、ほら、医学的な根拠に基づいた行動であって……」

「それ坂下さんが言ってたの?」

「……なんで分かるんだよ」

「分かるよ。ハルくん、そんなに賢そうなこと言わないもん」


 諦めたら、スラスラと言葉が出た。


「早速、彼女に染められちゃってるね」

「……そんなことはない」

「てか最低だよね。私を抱きしめておきながら、頭の中には他の女の子、とかさ」

「……」


 ハルくんは口を閉じた。

 その情けない沈黙が妙に愛おしくて、私は笑った。


(……ごめんね)


 心の中で彼に言う。


(……私やっぱり、ダメみたい)


 諦めようとした。

 それが一番、彼のためになると思った。


 無理だった。無理に決まってる。

 こんなことされて諦められるわけがない。


(……ハルくんのことが好き)


 ハルくんには素敵な彼女ができた。

 私なんかよりもずっと素敵な女の子だ。


 だけど、もう止められない。


 私は汚れている。

 だから綺麗な恋をしようなんて考えない。


 奪い返してやる。

 突然現れてハルくんの弱みに付け込んだ泥棒猫から、大好きな人を取り戻すんだ。


「ハルくん、おでこ見せて。手当するから」

「……ん」


 彼は額を差し出した。

 私を全く疑っていない無防備な態度。


 だから私は、イタズラをした。

 ──初めて自分からしたキスは、ほんのり血の味がした。


 ハルくんは面白い程に動揺した。

 私は彼を見て、にっこりと笑って言う。


「お返し」

「……いや、お返しって、お前」


 ただ額に唇を当てただけ。

 これまでやってきたことに比べたら、お遊びみたいな接触だ。


 だけど、今までの人生で一番ドキドキした。


「ハルくんのせいだから」


 私は言う。


「私、もう遠慮とかしないから」


 ハルくんはしばらく唖然としていた。

 しかし、やがて呆れたような笑みを浮かべて言った。


「……お手柔らかに」


 私の選択は、きっと間違っている。

 私にはハルくんを好きで居続ける資格なんて無い。


 でも、そんなの知らない。

 ハルくんが見捨てないって言うのなら、私だって遠慮しない。


 私はハルくんが好き。

 この数日間で、もっと好きになった。


 だって最高じゃん。

 こんなにカッコいい人、他に居ないよ。


 だから、だから……。

 坂下さんには負けない。


 この気持ちが負けるわけない。

 ずっと前から好きなんだ。ずっとずっと、ハルくんだけが好きなんだ。


 それに……あっちの方は私の方が得意だ。

 ハルくんだって男の子なんだから絶対に興味がある。


 いつまでも泣き続けてなんかやらない。

 あの悲劇も何もかも全部、私の武器にしてやる。


 寝取ってやる。

 覚悟しろ学校一の美少女。


 覚悟しろ。

 ……大好きな、ハルくん。

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