9.これからの二人

「……もう朝かよ」


 俺はギュッと目を瞑り、伸びをした。

 

「……おっけ。やることは決めた」


 スマホをベッドに置いて、代わりに目薬を持つ。

 目がスゥッする感覚を味わいながら、頭の中を整理する。


 最優先するべきは優愛の治療だ。

 本人の意思なんか知るか。意地でも病院に連れてく。


 ただし、とにかく病院に行けば良いというわけではない。症状に応じた場所へ行かなければ、精神を擦り減らすだけの結果になる。


 ネットで検索すると直ぐに専門の病院が見つかった。

 そういう病院が存在する理由について考えた時、胸が苦しくなった。


 次に思い浮かんだのは警察に相談すること。

 だけどこれは優愛に負担を掛けるだけで何の解決にもならない。


 理由は時間だ。

 半年というのは、あまりにも長い。


 被害届を出さない理由は無いが、犯人が捕まる可能性はゼロに等しい。良い担当者に巡り会えたとしても、優愛に負担を掛けるだけの結果になる。


 そもそも犯人を捕まえたとして何になる?

 社会的制裁? 何年か刑務所に入った後、再犯して終わりだろ。いくらかの慰謝料を貰えたとしても優愛が元通りになるわけじゃない。それに……。


 ──赦すわけねぇだろ。その程度で。

 本音はさておき、色々と現実的ではない。


 最優先すべきは優愛の治療だ。

 多くを求めて、結果的に何もかも取りこぼすことは避けたい。


 頭が痛い。

 子どもだけで扱うべき問題じゃない。


 だけど今頼るべきは家族じゃない。

 優愛が隠し続けた悲劇は、それを解決できる専門家にだけ伝えるべきだ。


 だから、今すぐに病院へ行く。

 学校なんて知るか。今日はサボる。


 優愛について思うところはある。

 昨日の今日で全部の感情を整理して受け入れるなんて無理だ。できるわけがない。


 だけど──今さら切り捨てられるほど、薄っぺらい繋がりじゃないんだよ。


「一応、輝夜に連絡しよう」


 今日も一緒に昼休みを過ごす約束をしていた。

 それを破って、優愛と病院へ行くことを伝える。


「……」


 メッセージを送信する瞬間、躊躇した。

 輝夜は賢い。この内容から事情を察するかもしれない。


 ……ポン、と送信音が鳴った。


 直ぐに既読が付いた。

 驚いて、しばらく画面を見る。


「……返事、なしか」


 一旦、気持ちを切り替える。

 それから優愛に連絡して、迎えに行った。



 *  *  *



 優愛は緊張した面持ちで現れた。

 俺は彼女の手首を摑み「行くぞ」と一言。

 混乱する優愛を引っ張って、学校とは違う場所へ向かった。


 最寄りの駅。

 多くの社会人達と満員電車に乗って、新幹線のある駅へ行く。


 新幹線の指定席。

 俺は軽く息を吐き出した。


「……ねぇ、ハルくん。どこ行くの?」


 窓際に座らせた優愛が言った。


「病院」


 俺は前を向いたまま返事をした。


「……坂下さんと、お話するんじゃないの?」

「それはいつでもできる。今は、こっちが最優先」

「……ごめんね」


 優愛の様子は昨日とも違っていた。

 それはまるで、抜け殻のようだった。


「あのさ」

「……なに?」


 どこかへ行ってしまうような気がして呼びかけた。俺は返事があったことに安堵する。


「いや、なんでもない」


 話したいことは無数にある。

 それはきっと優愛も同じだ。


 だけど何ひとつ言葉にならない。

 優愛と普通に会話できる日は、もう二度と来ないかもしれない。


 ふと隣を見る。

 優愛は、不安そうな顔で俺を見ていた。


 胸がチクリと痛む。

 俺は目を逸らして、溜息を吐きながら髪を掻きむしった。


 優愛の痴態を目撃した翌日、友人は「脳を破壊」と軽々しく言った。

 当時は言葉の意味がピンと来なかった。今は、よく分かる。


 大切な人をメチャクチャにされた。

 しかも、その事実を消し去ることができない。


 グチャグチャだ。

 頭がおかしくなりそうだ。


 自棄になってそういう本をいくつか読んだ。

 全部、何もかもメチャクチャにした後で終わりだった。


 その後が描かれることは無かった。

 所詮はフィクションだ。刹那的な娯楽として消費されて終わりだった。


 だけどこれは現実だ。

 受け入れがたい出来事をリアリティが無いと評して逃げることはできない。


 そして俺は立ち向かう選択をした。

 優愛を切り捨てないことを選んだ。


「……もっと、頼れ」


 聞こえるかどうか分からない声で呟いた。

 しばらくして、鼻をすする音が聞こえた。


 俺は目を向けずハンカチを渡した。

 優愛はそれを受け取って、しばらくずっと、泣いていた。



 *  *  *



 病院には事前連絡をしてある。

 到着した後で要件を伝えると、個室に案内された。


 優愛は様々な検査を受けることになった。

 直ぐに結果が出る検査もあれば、時間が掛かるものもあるそうだ。


 検査は夕方までかかった。

 流石は専門の病院というか、優愛に対する会話には最大限の配慮があった。


 ひとつだけ嬉しいことがあった。

 あくまで結果が出た範囲だが、体の方には異常が見つからなかった。


 薬物に関しては他の検査結果を待つ必要がある。しかし、担当医の見解は「精神的な問題」ということだった。


 つまり、脳に異常があるらしい。

 うつ病を自力で治療することができないように、継続的な治療と、周囲のサポートが重要だと聞かされた。


 検査の途中、担当医と一対一で話す時間があった。

 優愛だけじゃない。俺との面談も行われた。今回のような場合には、被害者のケアをしている人の方が辛くなり、おかしくなる場合があるらしい。


「僕は、平気ですよ」

 

 噓を吐いた。その後、無難に話を終えた。

 神業のような誘導尋問でもあるのかと思っていたが、何も無かった。


 最後に地元の病院を紹介された。

 ネットには情報が無かったけれど、意外とあちこちにあるらしい。


 今後、優愛は定期的に通院する。

 後遺症を消すために薬を飲む必要がある。


 覚悟していたはずの事実だ。

 それでも医者から告げられた時の重圧は、想像したよりも遥かに大きかった。


 警察への連絡は病院に任せた。

 当人に対する連絡は避け、何か有った場合には、まず俺に伝えるように依頼した。


 以上。通院に関しては、これ以上は語ることが無い。

 俺は朝よりも少しだけ顔色が良くなった優愛を連れて、帰りの新幹線に乗った。



 *  *  *



 平日の中途半端な時間。

 新幹線は、ほぼ貸し切り状態だった。


「ハルくん。今日は、ありがとね」


 優愛が小さな声で言った。


「……私、ハルくんのことが好き」


 次の声は、震えていた。


「ハルくんに言わなかったのは、知られたくなかったからだよ。ハルくんは何も悪くない。悪いのは、全部なかったことにして、隣に居ようとした私……おかしいよね。結局、何度も何度も裏切ってるのに……今さら、こんなこと……」


 俺は言葉を探した。

 何か気の利いたことを言いたかった。


「……そうだな。最悪だよ」


 違う。こんなことが言いたいわけじゃない。


「一番許せないのは、俺自身だよ」


 優愛に謝りたい。

 半年間、気が付かなかったこと。

 昨日、いくつも酷い言葉を言ったこと。


「……ごめん」


 言葉になったのは、たったの三文字だった。


「……私の方こそ、ごめんね」


 彼女が口にした言葉もまた、短い一言だった。

 きっとその言葉には多くの感情が凝縮されている。


 優愛は何を思っているのだろう。

 彼女の本心は、どうなっているのだろう。


 分からない。

 暗闇の中を歩いているような気分だ。


「困った時は、言えよ」

「……うん」

「次は絶対、助けるから」

「……うん」


 まだ気持ちの整理はついていない。

 多分、優愛との関係は二度と元通りにはならない。


 だけど、今はまだ、終わらせることはできない。

 一時の感情だ。永遠に続くわけじゃない。いつか二人とも別々の人生を歩んで、二度と会わなくなるかもしれない。それでも……。


「明日、輝夜と話す」


 俺は長い息を吐いて、明日の話を始めた。


「……どうするの?」

「何が?」

「……坂下さんが嫌だって言ったら、私とは、もう終わり?」

「言わないよ」


 我ながら卑怯だと思う。

 中途半端に賢いせいで分かってしまう。


 輝夜は優愛を拒絶しない。

 通院に付き添うこと、これまで通り幼馴染として接すること。どちらもきっと拒絶しない。


「ねぇ、ハルくん」


 優愛が言った。


「坂下さんのこと、好き……?」

「好きだよ」


 ハッキリと答えた。

 今ここで悩んだら、今度こそ自分を許せなくなりそうだった。


「優愛が一番つらい時、俺は傍に居られなかった。でも俺が一番つらい時、傍に居てくれたのは輝夜だから」

「……そっか」


 優愛は声を震わせた。


「大事に、しなよ」

「……当たり前だろ」


 それが二人の結論。

 俺達の関係は、今の会話に凝縮されている。


 


 そして、翌日──

 俺と優愛と輝夜の三人は、話をすることになった。

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