二番隊隊長・神栖谷 御心海
――東京某所――
区と区を分ける河の間に掛かる橋の下は、どんなに晴れた日でも薄暗く、湿っている。
堤防から伸びるパイプからは、ドブの香りが立ち込め、人は全く近づかず、食物連鎖の下層部に分類される動物ばかりが住み着いていた。
そこに、いつもの様に姿を現す者が複数居る。
この日は、黒い中折れ帽を被り、季節外れとも思わせるロングコートを身につけた男が堤防に寄りかかって砂利の地面に座っている。
そしてその両隣に、女と男が一人づつ立っている。
両隣の若者は、真ん中の男の話に耳を傾けていた。
「――多分今頃では……怨獣殺し本部は混乱しているだろう……。」
「私達の作戦が功を奏した、と言う事ですか?」
「ああ。そういう事だ。あいつらは、俺たちの敷いた罠にまんまと嵌った。」
重機の様な低い声でコートの男は女と会話する。
左側の男は河川のせせらぎを見つめて離さない。
「本部の人間が疑心暗鬼に陥ると、連携も乱れる……そこの弱みに付け込むとは――
まぁ深く考えれば、私達が裏切り者なので、間違ってはないですけれど……。」
「そうだな。しかし、何があっても俺達がアイツらにバレることは無い……。
もう少し様子を見てから本部を襲おうと思う。そしてゆくゆくは……八縄を殺し、人類の洗脳を解き、二度目の東京壊滅事件を引き起こす――!」
固く決意の決まったような重低音で拳を握った。深く被る帽子により表情は隠れていたが、歯を食いしばっている事だけは視認できた。
「――しかし、よくなんなに小さな手がかり一つでここまで推測出来ましたね。もう少し手こずるのではと思っていました。」
「真紘――。幸田真紘なら、出来ると思っていた。
――俺の、ただ一人の友人……だからな。」
拳を緩め、何かを懐かしむように顔を上げると、その口は狂気にも似た不気味な笑みを浮かべていた――。
――怨獣殺し本部――
五番隊はエントランスに入ると、落ち着いた雰囲気の中で、固まって行動していた。
着いたはいいものの、何をしていれば良いのか分からない。
「沙羅さん、どうしましょうか。先ずは真紘さんを探しましょうか?」
鳴は先頭を歩く沙羅に言う。他の五番隊も沙羅の意見に従わんとばかりに見つめる。
こういう時は、一番の年齢を重ねている者を頼るという事が筋と言うものだ。
「あぁ? そうだな……。よし、じゃあ真紘さんを探しに――」
「その必要はございませんわ。」
どこからか声がした。一同は突然聞こえてきた声に驚き、声の主を探すようにキョロキョロと辺りを見回す。
しかし、どこにもそれらしき人の姿は見えない。
「はぁ……ここですわ。貴方達の、視線の元をご覧になって下さる?」
上品な声は彼女達の下から聞こえる。彩音は目線を下に落とすと白髪の少女が呆れ顔をして「やれやれ」と言わんばかりに両腕を広げていた。
「あー……。みなさん、下。下ですよー。」
彩音が掌を彼女に指すと、郁美達はそれの方へ視線を落とす。すると、全員「あぁ……」と哀れる様な声を漏らした。
「神栖谷二番隊隊長……そこにいたんですね……。
身ちょ……気づきませんでした……あはは……。」
鳴が冷や汗をかき、苦笑しながら申し訳なさそうに言った。
それを見て不機嫌そうに目を瞑り、首をふんっと振る御心海。
鳴の言葉がつっかえた部分が少し気になったが、いつも言われることだから今回は何も言わなかった。
「――幸田さんは今、総大将の所へ隊長会議で決定した事項の報告に行っていますわ。当分のところ帰ってこないとも仰っていましたわ。
そのため
御心海は自分の制服の内胸ポケットを漁ると、小さなメモを取り出した。
何度も使っているのか、メモの角は丸まり、年季の付いたシミが所々に見受けられた。
そのページを少しめくり、そこに書いてあるものを読み上げた。
「ここへ五番隊を招集した理由は一つ。
怨獣殺し五番隊の星野と奏良を招集し、特別授業を受講させる。」
「……えっ!?」
郁美は聞こえてから少して、情報が理解出来たのか、反応が遅かったが、驚きの声を上げる。彩音も珍しく驚きの表情を表に出した。御心海は続ける。
「そして嵐間も、特別授業の実技担当として二人を頼む。」
「……は?」
沙羅は目を丸くして固まる。まさか自分に飛び火がかかるとは思ってもいなかった。
「特別授業は一日十時間とし、座学、実技共に毎日やってもらう。
雷葉と宇田は、この事を聞いたら帰っていい――と、このような感じですわね。」
御心海がメモを閉じポケットに仕舞うと、くるっと後ろを向き、スタスタと歩いていく。
困惑する一同は、御心海の小さな背中を見つめるまま動かない。少しすると、御心海が足を止めて再び振り向いた。
「貴方達……、いえ、星野さんと奏良さんと、嵐間さん。私に付いて来て下さる?」
察しの悪い人達……と思う様な表情を浮かべながら言う。
三人は互いの顔を見合いながら、困惑しつつも、御心海の後ろをついて行き、エントランス奥のエレベーターに乗り込んだ。
場に取り残された鳴と宇田。これからどうしていいのかが分からず、あの三人以上に戸惑っていた。
「えっと……私達、どうすればいいんだ?
真紘さんもずっと戻らないんでしょ?
帰っていいって言われても……ホントに帰っていいかも分かんないし……」
「な……何か……私達……試されて……ますかね……?」
その時、眼鏡をかけた一人の女性が二人の前を通りかかった。そしてピタッと足を止めて話し出した。
「――お、真紘くんのとこの!鳴と、水樹だっけ? 久しぶり!」
「あっ、榊原さんっ! お久しぶりです!」
嬉しそうに鳴は榊原へ駆け寄った。それに続き宇田もついて行く。
これからどうしようという不安と、久しぶりに会えた事への嬉しさから、二人はこの上なく榊原との偶然の出会いを喜んだ。
そして、自販機隣のベンチに腰掛けると、世間話などをして時間を潰した。
その際に二人が今置かれている状況を話した。
「――なるほど。つまり二人はこれから暇ってことね。郁美ちゃん達三人と御心海は、何すんだろなー?」
「特別授業? だか何だかをやるみたいですよ。郁美と彩音が授業受ける側で、神栖谷二番隊隊長と沙羅さんが教えるみたいで……」
「げっ――。
ふーん……。それじゃあかなり帰って来ないねー。私も一回だけ授業したことあるけどさ、あぁ、実技の方ね。やる側もかなりキツいんだよね。」
榊原は物憂げな顔で言った。この表情から伺えるように、郁美達は教える側も辛いという、想像を絶するような苦難が待ち受けているのだと悟ることが出来る。
その時、急に榊原が勢い良く立ち上がり、鳴達に提案した。
「私、今日これから暇なんだよね。二人もこれから暇でしょ? ならさ、私の車でドライブしない?
私の自慢のマイカー、見せつけたいんだよねー!」
それを聞いた瞬間、鳴と宇田は退屈が覆った事を確信して、輝く瞳を榊原へ向けた。
これが、人々が榊原を好いている理由。
「こうすると面白いだろうな」と思うことを他人にも振る舞うし、それをすぐ実行する。どうすれば場が楽しくなるかをよく考えてくれる。怨獣殺しで彼女に憧れる人間は多い。
「そんな顔するって事は、行きたいんだね? オッケー!そんじゃ、すぐ出掛けよっ! 私に付いて来てー!」
「はーいっ! 行こっ! 宇田ちゃん!」
「あっ、はいっ。」
こうして鳴と宇田は、榊原に連れられ、本部を出て、ドライブをする事になった。
久々の散策に、鳴は心が踊っている事を自覚した。
そして駐車場で、榊原の愛車に乗り込み、行く宛てのないまま出発した。
一方の郁美達は、本部の十二階でエレベーターを降りると、一つの教室に案内された。
冷たいグレーのコンクリートに囲まれていて、暗い雰囲気が漂う。
三十人程収容出来る位の教室に、机がたった二つだけ、ホワイトボードの前に教卓一つだけと、かなり物悲しい。
御心海が教壇に上がり、教卓に両手をつけると、郁美達に言った。
「さ、お二人共、そこの席について下さる?」
「は……はぁ……。」
郁美と彩音は、何をされるか全く想像もつかないまま席に着く。沙羅は扉の横に寄りかかった。
一息つくと、御心海が口を開いた。
「貴方がたは今から五時間、私の元で怨獣への基礎知識及び対策、戦闘についてを理解して頂きますわ。
――自己紹介がまだでしたわね。私の名前は
自分の胸に手を添え、優しい声で言った。
「私の事は好きにお呼びになってくださいまし。これからよろしくお願い致しますわ。」
上品かつ丁寧な自己紹介。郁美は思わず頭を下げる。彩音は既に認知していたようで、反応は薄かった。
ここで、どうしても我慢出来なかったのか、郁美が申し訳なさげに細い声を出して御心海に尋ねた。
「あの……、真紘さんの伝言とはいえ、何でこんな事するんですかね……?」
すると御心海は目を瞑り「はぁっ」と声を漏らすとくぐもった声で言った。先程の自己紹介からは伺えない程に冷ややかな雰囲気が漂う。
「貴方……、今までの怨獣との戦いを覚えていますの?貴方の行動は常に幸田さんから聞いておりますわ。まだ一回しか自分の手で怨獣を駆除したことが無いそうですわね。」
郁美は冷や汗をかく。御心海は続ける。
「それに、毎回任務から帰ると負傷が酷く、寝たきりになるのが日常茶飯事。
このままでは、貴方の父親の事を知る以前に貴方自身が死にますわよ。」
「…………」
低く、残忍な声が教室内に響いた。その声の尖った破片が、郁美の胸を幾度となく貫く。
――知っていた。自分が弱い事に。
さっきの御心海の言葉に何も言い返せない事が、自分の心身共に未熟である事を物語っている。
かろうじて、郁美は声を出す。
「こ……、この時間を過ごしたら、私は強くなれますか……?」
御心海は笑った。
「――強くなれますわ。約束して下さいまし。」
御心海の自信に満ち溢れた眼差しに、嘘を見出す事は出来なかった。
その顔につられ、郁美の自責する顔は次第に緩んでいった。
そして郁美は思った。
この人は、人の心を、感情を動かすのが得意なんだ、と。
気を取り直し、郁美がいつもの態度に戻ると、今度は彩音が不満そうな顔を浮かべていた。
「ここみーん。しつもーん。」
郁美はぎょっとした。隊長に向かって友達と話すようなノリで話す彩音に。
前々から仲が良かったのだろうか。いや、そんな気はしない。
もしそうならもっと移動中とかに話をしているはずだからだ。
静かに郁美は、彩音に問いかけた。
「彩音、神栖谷さんと仲良いの?」
「? 全然。会ったことはあるけどー、ちょこっとだけだしー。」
「それなのにもう『ここみん』って……」
郁美は苦笑しながら首を傾げる。
「――それで、奏良さん。質問とは何でしょう?」
「あ……。ここみんでもいいんだ……。」
「ええ。好きに呼べと言いましたもの。」
郁美と彩音の会話を待っていた御心海は、頃合を見て彩音の質問を聞き入れようとする。
「その授業ー、郁美は分かるけど、私もやんなきゃなんないのー?」
「ええ。幸田さんからの伝言ですから。
何でも、幸田さん言わく、五番隊が活動再開してから、もう三週間は経ったと言うのに、一度も任務を受けていないし、休止する前もサボり気味だったと。」
「うっ……。」
珍しく彩音が追い詰められた表情を見せた。冷や汗をかき、顔が引きつっている。
確かに、彩音が怨獣や任務について話している所は見た事が無い。
彩音と言えば、毎日早く起きてフィーカの開店準備をしているイメージがある。
本当に怨獣殺しなのかと疑う余地もある程だ。
しかし、考えすぎても謎は深まるばかりであることを郁美は悟り、考える事を中断した。
「――そのため、ペナルティとして貴方にも特別授業を受けて頂きますわ。」
淡々とした口調で言う。お手上げ状態の彩音は唇を少し尖らせて「むーっ」と言った後、黙り込んで机に顎をくっつけて頬を膨らました。
「けっ。サボりのツケが回ってきたな。
ガンバれよー彩音。――まっ、五時間後アタシが待ってるけどよっ!」
愉悦の表情を浮かべた沙羅。
どうやら彼女は教師役を受け入れた様だ。
沙羅はいつもサッパリした行動を取る。
気分屋と言い換えても問題は無い。
自分が楽しいと思えたり、その方が面白いと思えた事しか調子が乗らない性分である。
そんな彼女が教師役を受け入れたのだから、これは
「面白くなる」。
彩音は沙羅のニヤリとした顔を見て、ぞくぞくと背筋に冷たいものが一瞬で通り過ぎた。
御心海は自分用の、ホワイトボードに字を書く用の、踏み台……と言うよりほぼ脚立に近い物を持ってくると、早速黒いマーカーで、字をでかでかと書いた。
書いてある文字は「遊戯」。
ホワイトボードの中心に、余白を五割程残して書いたその文字は、止め・跳ね・払いが完璧に出来ている。
コピー機で印刷して貼り付けたのかと思わせる程に達筆であった。
御心海は振り返り脚立を降りると、ニヤリと相手を屈服させる準備をするような顔を浮かべ、教卓の下から緑色のボードを取り出した。
「さぁ、お二人共、前に来て下さいまし。今からこれで私と対戦致しましょう?」
「――? オセロ……?」
「二対一で構いませんわ。ただ、これだけではゲームをする上で楽しくありませんわ。
もし、このゲームに勝てたら、私の授業はこれで終わりに致しますわ。『今日の』ではなく、ですわ。」
「――ほんとっ!?」
御心海の放った言葉に、彩音は奮い立った。
負かしてやる、そういった気配が悶々と沸き立っている。
「郁美、これ勝ってさっさと帰ろー!」
こんなにやる気に満ち溢れていた彩音を今まで見た事が無い。気迫に押されて、
「えっ、あっ、うんっ!」
と、中途半端な返事をした。郁美は知っていた。
大体こういうのはボロ負けして結局授業を受ける羽目になる事を。
(はぁ……どうせ負けるんだって……。)
やる気に満ち溢れた彩音が教卓を挟み御心海と対峙して、あまり乗り気でない郁美がもじもじと後ろに付いた。
「準備はよろしいですわね?」
「ばっちぐー! 早くやろーよー。ここみーん!」
彩音の顔を見た御心海は、優雅に自分の手元の駒を指に挟むと、顔の近くまで持っていき、フンと鼻を鳴らした。
その顔は、怪しい笑みを浮かべていた。
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