第6話


 自分が何者なのか分からず、不安や焦燥にも似た気持ちに襲われたことがある。


 僕はその頃名前も何もなく、ただそこに存在しているだけだった。


 ベッドの上。気がついて、最初に見たのは、白い壁。どこまでも白く、どこまでも潔白を主張するかのようにその色はあった。見た瞬間眩暈がした。僕が再び目を閉じることを防ぐように、横から声がした。


「目が覚めた?」


「…………」


「外に出られて、どんな気分だい?」


 僕は起き上がって、そいつを見た。


 透き通るような白い肌、その若い顔つきには似合わない白髪。人を射殺すような眼光。細い銀縁フレームの奥からこちらを見る視線の冷たさに、僕はその男が何者なのかを思い出した。


 あの真っ暗な中から、僕を出してくれた人間だ。


 だがどうして今、僕はこんなところで横たわっていたのか。


 それがよく分からなかった。


 分からないままに奴を見上げると、奴はふと口元を和らげた。


「俺が、君に新しい居場所を与えてあげるよ」


 ベッドの脇に立って、奴は確かにそう言った。白衣を着て、僕を観察する目で見ていた。


 最初から、そういう人間だった。あいつは。人間を自分と同種として見ない奴だ。


 そして、僕にマンションを与え、あの人に会わせた。


 そこまで思い出して、僕は気分を変えるために首を大きく振った。駄目だ。名前を思い出すと、ずるずると関連することまで思い出してしまう。


 それはそうと。


 また部屋から連れ出されてしまった。引きこもり計画失敗。


 僕はもう外を見て視野を広げたくないんだけどな。まぁ、あいつに僕の気持ちなんて理解出来ないから、何も言うつもりはないんだけど。


 他人の気持ちが理解できると言う奴は気持ち悪い。僕の好みだけど。


 駅前の通りを一人で歩く。奴は車で僕を連行した後、人に勝手にご飯を食わせてケータイに連絡が入ったから勝手に帰っていった。僕を置いて。送っていってくれたっていいのに。


 そんなわけで、僕は一人で家へと向かって歩いている。普段こんなところに来たことないから、すれ違う人とぶつかったりしてしまう。


 駅前とか人混みは苦手だ。


 周りの人は足が軽快なのに、僕だけどこかどんくさい。これもしょうがない。そう開き直ることにした。足も痛いし。


 さて、そろそろ急がないとまずいかな。


 ケータイで時刻確認。午後三時五分。定例通りだとしたら、あと三時間弱で侵蝕が始まる。


 そういえば、今日は定期検診の日だったような気がしないでもない。なんだ。結局あいつ、何しに来たかと思ったら定期検診に来たのか。それならそうと、最初から言ってほしい。紛らわしい奴。


 そういえば、もうそろそろ月末だ。あの人のところに行ってみるか。多分、また酷い有様になっているだろうから。


 コートのポケットに手を突っ込んで、そんなことを考えながら歩いていたら、また人にぶつかった。軽く頭を下げる。顔をあげたら、何故か目が合った。


 眼球のレンズを通して、網膜に彼女の姿が僕の脳に認識される。


 チカ


 右目の奥で何かが光った。チカチカ。断続的に続く光。それは段々と大きくなって、ついには右目で何かを見ることすら、敵わなくなってしまった。


 左目で彼女の方を見ると、彼女は左目を押さえていた。右目が、驚いているのか、大きく見開かれている。


 そして、油断した。


 “侵蝕”


 頭の中でその言葉が大きく浮かんだ。


 右目が痛い。痛い痛いいたい。喰われる、喰われる喰われる喰われる。右目の奥が焼けつくように痛んだ。ブツブツ喰われる。神経を。何かによって。どうして今日に限って定時に起こらない。


 疑問と痛みが全身を刺すように駆け巡る。気付けば、人通りの多い駅前で僕はその場に膝をついて、必死に声を抑えていた。それでも、喉の奥から、せり上がってくる悲鳴は止まらない。


 脂汗が全身を濡らし、悪寒が背筋を貫いた。


 ずきん、とさらに頭が割れるように痛んだ。そのまま頭が真っ二つに裂かれてしまうかと思うくらいの痛みが、僕を襲った。


 右目と頭を押さえ込むようにして抱えた。そのまま軽く地面に頭をぶつける。外部からの圧迫で、少しは痛みが他へ紛れると思った。紛れなかった。


 僕の世界は、その時一度壊れたみたいだ。僕はその時初めて、僕の中に巣食う悪魔を認識した。


 記憶が、途切れて流れてくる。怖いくらいに。海。幸せそうな人の声。少しだけ吐き気がした。これは一体、誰の記憶だ?


 自分の声が、こんなに耳の奥にへばり付いて取れなくなるとは思わなかった。


 そこまでだ。僕は意識を失った。


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