第4話

 幻想なんてどうせまやかしだ。僕にとっては、現実ですらもソレ。僕には、何も無いと言い切れる。ただ、世界が空っぽだと思っているだけ。そう信じていたい、だけなのかもしれないけどね。


 信じているものを間違えていたら、何もかもが違ってくるし、失敗もする。僕はそうした人間だった。


 なんて、そんなどうだっていい空虚な理屈を並べ立てていたってどうしようもない。さくさくと、今は足を進めることにしよう。


 あまり調子のよくない目の定期検診とは名ばかりの監視にいい加減うんざりしているのだけど、それ以上にうんざりするのは、こうした足を使った調べ事に駆り出されることだ。


『嫌なら学校に行けばいいだろ?』


 そんな言葉に負けてこうして隣の市まで足を伸ばしているのだけど、正直もう疲れた。


 結構近くまで来たと思っていたのに、途中休憩した喫茶店を出て実際歩いてみると全然そんなことはなく。


 明日の足の痛みは半端じゃないだろうな。横を通り過ぎていく車が、いまいましく目に映る。


 一体僕は、あとどれくらい歩けばいいんだろうか。あと、たった数十メートルが、足に響き、膝がみしみし鳴る。


 僕は決して運動不足ではない。


 見えているのに辿り着けない。そうしたじれったさがもどかしく、胸につっかえる。気分が悪い。気持ちが悪い。眩暈がする。着てきたコートの重さにも耐えられない。大気圧につぶされてしまいそう。肩がだるい。


 必死に足をずって歩く。面倒くさくなってきた。冬独特の、身体は温かいのに呼吸する空気が冷たく乾いていて、まるで体中が乾いてしまうかのような錯覚に陥る。汗は出ない。コートの裾が足に当たる。きっと今の僕は顔色がすこぶる悪いんだろうな、とか思った。コートの片襟を強く引っ張りながら、痛くなった足に鞭打って足を引きずる。このまま行き倒れはしないだろうか? それが、今の僕の心配事。多分、あいつが拾ってくれるんだろうけどさ。所詮僕は偽物で、あいつの手の上で踊っているだけなのだ。ため息。


 そうこう考えているうちにアパートについてしまった。近くで見ると、ますますぼろい。なんだか感動だ。今時こんなものがあるのか。なんだか、時代に取り残されてしまったかのような、そんな感じの建物だった。


 だからこそ、なんだろうけどね。


 それにしても驚きだ。どうしてこうもひとけが無い。一般人はともかく、人が殺されたというのなら、警察が来ていてもよさそうなものを。あ、まだ捜査を止められているんだっけ、警察は。


 人がいるのは、嫌いじゃなかった。たとえそれが、死体だとしても。きっと僕は構わないのだろう。


「……うわぁ。何だ、これ」


 つい、僕は声をあげた。内装のぼろさに感動したのだ。


 茶色の、叩けばすぐに穴が開いてしまいそうな壁。ペンキのはげたドア。ノブがすごく緩そう。外に設置された古い型の洗濯機。両脇にある四つずつのドアの中には、半開きになっているものもあった。体重をかけたら抜けそうな階段。上を見上げると天井が抜けてきそうだった。


 とりあえず、奴から言われた一〇四の部屋を探してドアを開けてみる。すでに、廊下にも立ち込めていた死の独特の気配が、今度は思い切り襲いかかってくる。思わずうめいてしまった。後ろに二、三歩下がるが、すぐによろめいた足を真っ直ぐにし、閉じかけてキィキィいっているドアを、また開けて中へと踏み込んだ。


 そこにあったのは、すでに死の臭いだけだった。死臭の満ちた部屋に、靴のまま踏み入る。ザリ、と砂で足元が鳴った。


 中には、人が死んでいた気配が残っていた。当然か。その人は部屋の中に血を撒き散らして死んでいたことが想像できる。壁と床には血糊の痕がくっきりと生々しく残っていた。警察か《機関》か。死体と現場の汚染処理だけはしてあると聞いていたけど、それでもなお生々しい。死因はまた聞くとしよう。


 部屋の中は狭い。玄関を入ってすぐ脇に台所。台所より向こうに見える扉はトイレだろうか。視線を戻して台所。流しのちょうど前に引き戸があって、その奥は畳が四畳半くらい敷いてあった。開ききった引き戸の手前に、その人の上体が半分、見えている。テレビが死体より奥にあった。床には、テレビと反対側。ちょっとしか見えないけど、タンスから飛び出したんだろう衣類が、一面に散らばっていた。誰が引っ掻き回したんだろう。


 さて、と。


 こんなぐちゃぐちゃでばらばらな部屋から、一体何を採取出来るというのか。奴の狙いもよく分からない。


 それに、いくら人に関心がないからと言っても、死んだ人間の部屋を荒らしまわる気分はよくない。そういうのは専門の人がやるべきだ。


 そして僕は専門の人間じゃない。よって調べる部屋はここだけでいい。というか、早く帰りたい。コートに臭いがつくと困るから。


 大体どうして、無関係のこの僕がこんなところまでわざわざ足を伸ばさなくちゃいけないんだ。全部奴のせいだ。奴がうまいこと言って、自分が欲しいだけの人材を僕に探させようとするから。欲しいなら自分でやれ。


 文句なら心の中でいくらでも言える。ので、今は一刻も早く手がかりらしいものを見つけて帰ろう。それでいい。人探しのスキルは、僕よりも奴の方が上だ。そのくせ面倒で人手がないから僕を利用しているだけなんだ。


 しかも僕は奴の頼みごとを断れないから、さらに困ったもんなんだけど。


 なんて思いながら、更に室内に侵入。死体のあった場所は避けて、奥の部屋へ。中に入ると、見た目以上に散らかっている。人の住む環境じゃないな、と思った。


 ふと、窓から入る日光を、衣類の間にあった何かが反射した。上に被さっていた衣類を退ける。床に放置されたゴミ類の間に、シンプルな十字架が描かれた、小さな銀プレートのペンダントが落ちていた。持ち上げてみると、金具の部分がばかになっている。落としたのか、ゴミとして放置されていたのか。それにしては銀のプレートが綺麗に磨かれている。


 とりあえず、それは拾ってビニール袋に入れ、ポケットへ。あとは、と思って辺りを物色してみても、めぼしいものは見つからない。あったといえばガラスの割れた写真立てくらいだな。中に写真はなかったけど。アルバムくらいあれば、写真を一枚くすねて、それを奴に渡すだけで終わったのに。


 思っていてもしょうがないので、思いつく限りの作業を終え、アパートから出たら、コートのポケットに入れておいたケータイが鳴った。


 なんとなく出たくない。とか思っていたら着信音は切れ、代わりにアパートの目の前に黒の乗用車が停まった。


「どうだった?」


「その前に、ストーカーじみた真似をするな」


 僕の言葉などお構いなし。乗用車の助手席の窓を開けて首尾を聞いてくる奴を、僕は呆れた視線で見ていた。


「疲れていると思って迎えに来てやったのに、その言い草はひどいな」


「頼んでないけど」


「じゃあ歩いて帰るか?」


「……乗ります」


「よろしい」


 こうして僕は、いつもいつもこいつに言いくるめられる。仕方ないんだよ、足痛いし。


 自分に呆れつつも、奴に用意された靴に履き替えてから車の助手席に乗り込んだ。車内には、タバコの臭いが染み付いていた。車が静かに動き出す。


「で、なにか収穫は?」


 僕は何も言わず、運転している奴にデジカメとガラスの割れた写真立てを差し出した。


 奴はハンドルから片手を離して僕の差し出した物を受け取ると、それを運転席のドアポケットにしまった。


「退屈だった?」


「まさか」


 あっさり答えて、僕はシートに深く腰掛けた。結構疲れが溜まっていたことを実感。明日一日動けそうもないな……。まぁいいか。どうせ予定なんて、ないんだし。


「こういう面倒事を僕にやらせるの、止めてほしいんだけど」


「そうしたら君は何もしなくなるだろう? 生きているのに、それは勿体ないことだよ」


「僕は全然、困らないんだけどな……」


 すぐに移り変わっていく窓の外を眺めながら、僕は呟いた。


 そういえば、とふと思い出す。


 窓の縁に肘をかけ、思いにふける。


 ――拾ったコレ、明らかに女の子向けだよな……。


 車は、いつのまにか見知った町へと入っていた。


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