第3話

 次の日。僕は予定通り、大崖崎おおがけさきのアパートへと足を運んでいた。もちろん、車なんか無いからバスを使った。後で交通費は請求する。


 僕の住んでいるマンションから、大崖崎まではバスで三〇分程度。しかし、最寄りのバス停から更に三〇分ほど歩くことになっている。この頃運動らしい運動をしてないから、きっと明日は筋肉痛で動けなくなっていることだろう。


 それでも行くしかないんだろうと思う。引き受けてしまったからには。


 そして、何も持たずに出発した僕を襲ったのは疲労と、こんなことを半ば強引に強制的に押し付けた、あいつへの怒りだった。


 いや、八つ当たりなんだけど。


「……あ、やっと……?」


 そう放心気味に呟いた僕。


 車一台と自転車一台がかろうじて通れるくらいの、コンクリートで固められ、両面にある田んぼによって浮き彫りにされた、真っ直ぐな道路。少し先に、右にゆがんだ十字路が見える。その先は、住宅が好き勝手に建てられて、その間を細い道路が通っている。目的地はその先だ。


 目的地の目処が立ったところで、足を休ませるべく近くの適当なお店へと入った。そこは暖房が効いていて、暖かい。……でも、人工的。


 どうしてこんなにも僕はマイナス思考なんだろう。どうでもいいけど。


 あまり広くない店内。隅のほうへ進んで移動し、着席した。喫煙席だろうが、禁煙席だろうがお構いなし。


 そして、しばらくして注文を取りに来たアルバイト風のお兄さんに、定番のコーヒーではなく、ホットココアを注文する。コーヒーは、残念ながら僕は飲めない。苦いのが嫌いっていう、子どもじみた理由で。


 ちらりと店内を見回すと、雑然とした雰囲気が伝わってきた。やがて届く、ホットココア。それは、湯気が立ち昇っていた。


 当たり前が、今は新鮮だ。


 もう僕は鮮やかではなくなったから。


 今日はもう疲れている。


 ホットココアのカップを指先の冷えた両手で包み、じっと暖を取る。


「……帰ろうかな」


「それは許されないよ」


「……分かってるよ」


 はたして、彼が来たのはいつだろうか。


「それで、アパートは分かった?」


「アパートの場所は分かったけど、来るなんて聞いてない」


 ちゃっかり相席している情報源は、値踏みするような目で僕を見ている。どうにも好きになれない、この男。


 恩人っていうのは、本当だけどさ。


 トレンチコートに清潔感のあるポロシャツと綿のパンツ。その若い外見にそぐわない短い白髪が目を引く。細いアンダーリムの銀縁フレーム眼鏡の奥から、人を刺すような鋭い眼光が僕を射ていた。


 愛用タバコの銘柄は、ハイライト。暇さえあれば銜えているので、一日のニコチン摂取量は多いのではないか。僕に栄養失調で死ぬというが、そっちは肺癌でくたばるぞ、といったところか。というか、こいつがタバコ吸っていても文句を言われないところを見ると、ここは喫煙席か。


 でも多分、こいつは禁煙席でもタバコを吸う、そんな奴だ。


 名前は、幽園ゆうえん燈堵禍ひどか


 なかなか耳慣れない名前だ。本名なのか偽名なのかは分からないが、僕からしたら奴を名前で呼ぶことはない(呼べない)ので、偽名だろうが、名前を忘れようが、あまり支障はなかった。


「サボらないか様子を見に来るのは当然だろ?」


「僕も信用がないね」


 温かなホットココアを胃に流し込んで、僕は夢うつつで言葉を返してやった。


「それは仕方ないだろう。監視も兼ねてるんだから」


 あっさりと言われたことに、僕はこっそりため息を吐く。


「だったら家にいさせてくれればいいのに」


「そんな不健康は推奨出来ない。たまには外に出て日光を浴びないと、また駄目になるよ」


 また、という言い回しが地味に心臓をえぐってくる。奴は素知らぬ顔でブレンドコーヒーを口にしていた。


 しばらくの沈黙を経て、僕は両手に持ったココアのカップをテーブルに戻した。温かかった中身はもうぬるくなっている。


 ずっとここにいるわけにもいかないから、仕方ない。


 立ち上がった僕に、彼は読んでいる本から顔も上げず、声を投げてきた。


「アパートに行ったら、一〇四の部屋を特に調べるように」


「……分かった」


 一応、全部屋調べるつもりではあったが、部屋を指定されて助かった。調べる場所が決まっているなら、早く帰れる。


 ここには戻ってこないようにしよう、と思いつつ、僕は店を出た。


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