第86話 光る城 その2


(承前)



 城の建物の中はまだ落ち着いているように見えた。


 回廊を行き来する人々は軍人、官吏、下働きの別なく通常勤務についており、足早に先を急ぐ葵たちに怪訝な目を向ける者も多かった。仮に異変が大規模な呪術によるものだとしてもその影響は屋外にいて鷹笛をダイレクトに聞いた者に限定されるようだ。


「どっちに向かう?」


 恭一の問いに葵は「ご城主のところに」と即答した。


 異変はいずれ城内に波及する。城主とその側近たち指揮系統の中枢はなんとしてもガードしなくてはならない。彼らが秩序を掌握できるかどうかでこの混乱の先行きが決まるのだ。


 戦闘力を持たないダリルやメル、世話係の侍女たちの安全も気になるがまずは城主の安否だ。


 そして葵には城主の間へと急ぐ理由が生まれていた。


 暗雲が——。


 城主とその周辺——ダリルやメルも含めて——に立ちこめる暗雲が直近の未来の光景として浮かび上がろうとしていた。数分後には確定するであろう凶事の予感だ。ここへきてにわかに鋭さを増した彼女の霊感は異変の核心が近いことを告げていた。


     ***


 同時刻——。


 別方向から城主の間へ急ぐもう一人の男の姿があった。普段の落ち着きとはうって変わって焦りまくった顔で通路を走るその男——ガトー・ダンは盗賊たちを急襲した現場から一人馬を飛ばして城へと駆け戻ったのである。汗にまみれたその姿は彼がいかに焦慮にとらわれているかを如実に物語っていた。部下たちは皆、後方に置き去りである。


 あの鷹笛を耳にした瞬間から彼は本能的に城内の異変を予感した。霊感は持たずとも優れた一隊の指揮官として事態の危うさを直観したのだ。


 馬が潰れるのも覚悟の上で飛ばしに飛ばした。


 裏門から城壁内に入るとますます異様な気配に背中がざわりとしたが、彼はあえて城主のへと急いだ。門に衛兵がいなかったことは無視した。行き交う人々は彼の鬼気迫る表情に絶句し、飛び退くように道を空けた。


 ログワント城は起伏の多い地形を利用して作られた立体的な階層構造である。攻めるに難く、守るに好都合という利点が今はガトーをいらつかせる。


 だが、止まるわけにはいかない。


 とにかく城主の無事を確認し。周囲の異様な気配に対処しなければ城が、そしてこのデッカの地が危ういのだ。根拠はない。なのに彼の心中では一歩ごとに危機感がつのる。


 やがて前方に見慣れた城主の間の扉が見えてきた。ここにも常に扉の前に立っているはずの衛士の姿が見えない。隣国との戦の最中でさえ持ち場を離れるはずはないのに。


 おかしい、なぜだと考えるのは後回しだ。ガトーはノックもなしに扉を押し開け、勢いのままに飛び込んだ。


「ご城主!」


 その刹那、彼の脳裏を閃きすぎたのは「間に合った」と「遅かった」という相反する思いだった。


 間に合った、というのは城主が未だ健在であったからであり、遅かった、というのは室内の異様な光景を認識したからである。


 日頃から城主の間に詰めている幾人もの側近たち、そして護衛の騎士たちが倒れ伏し、例外なく血に染まっていた。城主の喉元には剣が突きつけられており、その傍らにはダリルとメルが呆然と立ち尽くしているのだった。


 そして城主の首に剣を当てている男——その意外すぎる顔にガトーは唖然とし、状況が理解できなかった。戦場では一瞬でも我を忘れた方が負ける。彼ほど優秀な騎士であっても。


「ラプトル班長……なぜあんたが」


「知る必要はないよ、でもまあこの短時間で駆け戻ってくるとはさすが隊長さん。とりあえず褒めてあげるよ。調子に乗って盗賊なんぞやってる馬鹿とはちがうね」


 男はガトーの問いなど無視して軽薄に言い捨てた。おかげでガトーは一瞬の自失から気を取り直しかけたが、その瞬間だった。


 たった今まで城主の喉元に向けられていたはずの剣が恐ろしい速さで迫ってきたのは。


 ガトーは正面から飛んでくる矢を打ち払うほどの腕を持っていたが、その彼にしてかろうじて身をかわすのが精一杯だった。それもほとんどまぐれと言ってもよかった。


「野郎!」


 ガトーは一気に引き抜いた剣を横に薙いだが相手は彼以上の反応で飛び退くと再び城主の首に剣を当てていた。その俊敏さにガトーは内心舌を巻く。反撃しかけたガトーの足が止まった。


「おっと、そのままそのまま、これが見えるだろ」


 ガトーの盛大な舌打ちが鳴った。


「いやあ、さすがだね、あれを避けられるとは思わなかったよ。守備隊きっての剣士という噂は事実らしい。でも——」


 男はことさらに剣を見せつけるようにして警告した。


「君は私より強いかもしれないけどその剣が届くよりこの剣が先にご城主どのやそこのお嬢さん方に届くと思うよ。馬鹿な賭けに出るのはおすすめしない」


 ガトーは歯ぎしりする思いだったが、城主を盾にされては動けない。スタッグス公は彼を一人前の騎士にまで育て上げてくれた師でありもう一人の父親でもあるのだ。


「貴様なにを企んでおる」


 きしる声でラプトルに詰問したのはその城主であった。


「いやなに、私には見届ける責任があるのでね」


「見届ける、だと」


「そう、この忌々しい城が我らの色に塗り替えられるさまをね」


「では貴様はまさかインガルの手の者だと?」


「さあね、ただちょっとばかりおのれの欲に忠実に生きてもいいんじゃないかとは思ってるけどね」


「欲……」


「まあ平和で豊かな国の人々にはわかってもらえないかな」


 下手に動けない状況でありながら城主の眼光だけが厳しい。彼にはふと閃くものがあったのだ。


「なるほど、人の欲を煽って密かに我が国に浸透してくる者どもがいると聞いたが、事実であったか」


 その瞬間「ぐわあっ」と城主の苦悶の声が上がった。その太股に細身のナイフが突き立っており、早くも血の染みが広がりつつあった。かなり深くまで刺されている。


「父上!」


 ダリルの悲鳴が上がった。あわてて駆け寄ろうとする娘を男の剣が冷酷に威嚇する。


「ご城主どの、おしゃべりが過ぎるよ。下手な時間稼ぎを企むのはなしだ。次はこの程度じゃすまないからね。それとメル君、治癒の魔法陣なんか開くのもなしだ。そんなそぶりが見えたらご城主どのは即死させるから」


 とぼけた口調でありながらその邪眼とも言うべき異様な眼光を知るメルは唇を噛むしかなかった。この男の本質は冷酷で無慈悲そのものだ。躊躇なく自分の宣言を実行するだろう。しかも彼女以上の魔法の使い手とあってはどんなごまかしも通用しないはずだ。


 非力なダリルやメルにはどんなに悔しかろうとも男の言葉には逆らえない。


 怒りで顔色を変えながら一歩も動けないガトーの様子がいたく気に入ったらしい男は城主には「黙れ」と命じながら自身は妙に饒舌だった。


「そう怖い顔をするなよ。そこでじっと待つといい。もうじき片がつく」


「貴様……いったいなにをしようってんだ」


「言っただろう、見届けるだけさ。タガを外された欲望の行き着く先をね。なあに、日没までには結果が出る。それを見れば君たちも気が変わるさ」


 ガトーには男の言い草は全くの意味不明だったが、このまま放置すれば城もデッカも得体の知れない混乱で滅んでしまうような気がした。そんなことになったら……。


 ここはインガルの侵攻を食い止めている最重要の防壁だ。もしそれが崩れたらこの豊饒の地は荒廃した戦場へと変わる。


 許せるものではないと思った。


 怒りに身を焦がしながら頭の隅で冷静にそう考えているおのれを感じる。


 きっかけが欲しい、と思った。ほんの数秒でいい、やつの注意をそらすなにかのきっかけが。


 焦慮とともにそう願った途端、背後でギッと低い物音が鳴った。室内の全員がはっとした。ちらと音のした方向を目だけで探ると先ほどガトーが入ってきた扉から三人の兵士が姿を現したのだった。


 衛士が帰ってきたわけではない。異変を知って城主の下へ駆けつけたわけでもない。三人とも無表情でどこかうつろな目をしていた。室内の異様な光景を見ても表情に動きがない。明らかに尋常ではなかった。


 男たちはものも言わずに抜剣した。


 そのまま一人がガトーに、残る二人がラプトルたちに向かって襲いかかってくる。彼らに道理や理非を考慮する気配はなかった。おそらく「立っている者は殺す」という不条理な目的だけに突き動かされているに違いない。殺気も気迫も感じられない代わりにゴーレムのような不気味さをまとっている。


「くおっ」


 ガトーは向かってくる男の剣を受け止め、押し返す勢いでそのまま斬り伏せる。悲鳴もなく倒れた男の向こうでラプトルが舌打ちしながら残る二人を打ち倒していた。


「ちいっ、この木偶どもがっ!」


 その剣は素早く、かなりの使い手であることは間違いない。だが、ガトーにとっては待ち望んだ瞬間であった。ラプトルを城主たちから引き離すには今しかない。


 ラプトルの剣が城主から外れた瞬間、全速で跳躍し、まだ体勢の整わぬ相手を下段から斬り上げる。騎士らしい型もなにもない。実戦で身につけた必死必殺の斬撃である。


 男は城主を殺すかガトーに対するか一瞬迷ったが、ガトーの勢いに剣を合わせるしかなかった。両者の殺気が激突する。


 激しい剣戟の音が響く。この好機を逃せば後がないガトーの気迫は凄まじかったが、相手の技量も並ではない。ただの治癒魔法士とは思えぬ動きは明らかに剣を振るうことに慣れた者のそれだった。


 比較すればガトーは剛、相手は柔の剣と見えたが、勢いに勝るガトーの方がなぜか押され始めていた。城主に駆け寄って治癒魔法を施しているメルたちを背後にかばいながらではどうしても動きが制約されるのだが、ガトーの焦りは別のところにあった。


 やりにくいのだ。


 凡庸な相手でないことは確かだが、剣技で自分が劣るとは思えなかった。十分に勝機はあると確信していた。なのに妙にしぶとい。一撃を入れたはずがきわどく交わされ、思わぬ方向から反撃が来る。その鋭さにひやりとした瞬間は一度や二度ではない。


 相性が悪い、とガトーは思った。剣技、足さばき、受けの技術といった要素が自分のそれとは異質でどうにもかみ合わない。ここまで手こずるとは想定外だった。


 だがこれには理由があった。


 武術は上達すればするほど動きに無駄がなくなる。それは相手に対する観察力が増して目の動き、足の位置、体の裁きなど無数の要素を常に感じ取り、最も効率的な攻撃につなげることができるからである。特に重要なのはフェイントと本物の攻撃を見分けがつかぬほど巧妙に組み合わせる技術でこれを「虚実」などと称することもある。


 ガトーも十分にそれを身につけた剣士であったが、ラプトルはおのれの邪眼により視線をごまかしていたのだ。虚実が身についていればいるほど無意識に相手の視線を読んでしまい、フェイクの視線にだまされてしまうのである。


 相手の動きを見切る技術に長けていることで皮肉にもラプトルの動きは予測を外れてしまう。ガトーが優秀な剣士であることが裏目に出た形だ。

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