第85話 光る城 その1


第八章 光る城



 デッカは隣国との小競り合いの最前線なので要となるログワント城には地下も含めて多くの牢がある。収容されている人間は城外の監獄も入れると数百名に達するだろう。


 大半は敵の捕虜だが、中には罪状の確定していない未決囚や隔離のための独房もある。


 常に戦時下のような場所なので収容者の扱いがぞんざいになるのは仕方がない。城の関係者は誰もがそう考えているので傷だらけの囚人など見向きもされない。


 その男もそうだった。


 不衛生極まりない独房にぼろきれのようにうずくまり、粗末な衣服からのぞく手足は青黒いあざや切り傷で埋まっていた。腫れ上がった顔面はさらにひどい。ふさがった瞼でろくに目も見えないのではないか。


 それでもわずかに息はある。


 当然だ。度の過ぎた拷問はたやすく人を死に至らせる。だがそれは悪手である。せっかくとらえた情報源が無駄になってしまっては意味がない。


 ゆえに男は生かさず殺さずの境界線で執拗に痛めつけられていた。彼には是非とも吐いてもらわねばならない情報があったのだ。


 だが男はかたくなに口を閉ざしたままだった。商人上がりとは信じられぬほどの精神力にさしもの拷問官も嫌気がさしたのか、ここ数日は独房に投げ出されたままだった。


 意識はある。だが朦朧として自分がいつからここにいるかとうにわからなくなっていた。繰り返される責め苦にも徐々に無感覚になりつつあり、死期が遠くないことを予感させた。今日まで秘密を守り通せたことが唯一の慰めだった。


 あとは先に逝った仲間たちのところへ行くだけだ。


 ただ——その日に限ってなんとなく周囲が慌ただしいような騒がしいような、そんな雰囲気が伝わってきてわ ずかに「おや」という思いが浮かんだ。


 なんだろう?


 なにか……なにかが近づいてくる……足音? そうかもしれないが別のなにかのような気もする。第一、看守やあのくそったれな拷問官の足音ならもっと荒々しい嫌なひびきが伝わってくる。


 だが、今自分に近づいてくるのはそうではない。この感じは……そうだ、かつて仲間たちと国中を駆け回っていた頃の、彼らの頼もしい気配に似ている。


 今の自分の境遇を思えば遠い郷愁にも似た気分だ。


 帰りたいなあ。


 まるで子供のような素直な気持ちだった。同時に心の片隅では冷静な大人の意識が「こりゃそろそろお迎えが来そうだな」と命の終焉を感じてもいた。


 だがそれでも帰りたいという思いがあふれ出し、かすれた声でつぶやいていた。


「帰りたいなあ……」


 彼の口に宿ったのは五歳の子供のような無垢な言霊であった。


 無論答える声などない。そのはずだったが彼には声が聞こえた。朦朧とした意識が生んだ幻聴ではない。確かに聞こえたのだ。


 ——大丈夫。ちゃんと帰れますよ——


 周囲の状況もろくにわからない彼にはまるで女神か天使が天上からかたりかけてきたのかと思えたほどそれはやさしく彼の心に響いた。


 そして——。


 腫れ上がってふさがった瞼の裏に光を感じた。陽光のように暖かく、黄金のように神々しい光。ああ、これはと彼は悟った。とうとう人生最後の瞬間がやってきたのだ。この美しい黄金の光に包まれて自分の魂は天に召されるのだ……。


 薄暗い独房の片隅で彼は例えようもない幸福感に身を委ねた。安心感で急速な眠気がやってきて我知らず微笑みながら彼は安らかな夢の世界へと滑り込んでいった。


     ***


「この男で間違いないか?」


「うん、やっぱり直接顔を見ると伝わってくるものが違うからね。すぐわかったよ」


「似しても一人の看守もおらんとは。いったいなにが起きてる?」


 恭一が首をかしげるのも無理はない。


 二人が城の建物を出て中庭に向かおうとしたとき、異変はすでに始まっていた。


 正面の出入り口まで 十メートルという回廊のただ中でふと葵の足が止まったのだ。をのままなにもない中空に目をやったまま立ち尽くしている。


「どうした? 葵」


「んー、なんか変」


「というと?」


「うん、なんとなくざわざわしてる。落ち着かない雰囲気みたいなものが……それに、なんか聞こえた」


 ああ、これは、と恭一には思い当たるものがあった。時として葵に訪れる霊感のささやきに彼女が耳を傾けているのだ。とりとめのないつぶやきのようだがそこには重要な示唆が含まれている。


 そして葵もまた心に響いてくる「この感じ」には覚えがあった。失せ物の場所がひらめいたときの感覚、脈絡もなくその答えがわかってしまう独特の納得感のようなものだ。


「あっちだね」


 葵は回廊を別の方向へと向かって歩き出した。この唐突さは見慣れたものだったので恭一は細かいことは問いたださず、黙って葵に従った。葵はなにかに導かれるように右へ左へと通路を折れ、着いたところは城内北端の牢であった。


 なぜか途中で誰かに出くわすことはなく、看守の姿さえない。城の管理がそのように甘いはずはないのだが、二人はすんなりそこへたどり着いたのだった。


「独房のようだが」


「うん、捜し物発見。だいぶ弱ってるね。かわいそうに」


 恭一はそれだけで事態を理解した。救出への協力を依頼されたドーレスの幹部がこの中にいるのだ。他の独房に囚人の気配はなく、彼は隔離状態にあるようだ。


「どうする? 今ここで助ける?」


「それもいいが外の様子も気になる。雰囲気がおかしいというが牢に看守が一人もいないというのがすでに妙だ」


「じゃあとりあえず怪我だけ治しておこうか」


「そうだな、居場所はわかったんだ。組合長たちに連絡するなり後で救出するなりは状況を見て考えよう」


 うなずいた葵は鉄扉の取っ手に手を伸ばした。そのまま数秒、ガチリと堅い音がして鍵が外れた。恭一がややあきれたように目をみはる。


「開錠の魔法なんてあったのか」


「今作った」


「作った? 作れるのか?」


「まあ、簡単なものならね」


 葵はあっけらかんと口にするが恭一にすればこれもまた「反則だろう」と苦笑するしかない。旅に出てから葵の魔法は日々進歩し続けているが、実際のところ、今の彼女にどこまでのことが可能か恭一にもわからなかった。


 それは葵にしても説明しづらい。


 ただ、不完全ながら今の彼女は魔法陣の記述原則が実感できる。単純なものならオリジナルの魔法を作り出すこともできるようになってきた。如月葵は古代の優れた術者たちに追いつこうとしていたのだ。


 三畳ほどしかない独房内には半死半生といった体で一人の男がうずくまっていた。なにかつぶやいているが意識があるのかどうかも怪しい。葵たちが傍らに立っても反応がないのだ。


  葵は身をかがめて男のつぶやきを聞き取るとすぐに右手を振った。ほぼ一瞬で魔法陣の輝きが室内を染める。わずか数十秒で全身の傷が癒え、室内に漂う異臭までが消え去った。通常、治癒の魔法にそのような効果はない。よく知られた術だけに人々は「これでよし」としてそれ以上の工夫をしなかったからだ。


 だが遠見の魔法がそうであったように、この術にも「その先」が存在した。葵の直感は治癒の概念に浄化や復元といった領域が含まれることを見抜き、次の一歩を踏み出したのである。


 彼女はこの世界で伝統的な魔法の教育を受けたわけではないので常識や固定観念から自由であったのだ。


「よし、長居は無用だ。外も気になる」


 二人は牢の鉄扉を元どおりに施錠し、足早にその場を離れた。葵が感じた妙な気配、常ならぬ雰囲気はますます濃くなってきており、もはや何らかの異常事態が発生したことは確実と思われた。


「やっぱさっきの鷹笛のせいだと思う?」


「おそらくな、俺にも落ち着かない気分が伝わってくる。看守だけじゃなく兵たちが一斉に持ち場を離れてしまっているようだ」


 あの鷹笛が何の合図だったかは不明だが城内の気配が急速に変容しつつある。葵たちは通路から中庭に飛び出した途端、そのさまを目撃することになった。


     ***


 中庭では一見したところ特に異常は認められなかった。


 だが葵にも恭一にもそれが異常な光景だということはすぐにわかった。


 本来なら厳しい規律や統制の下で整然と行動している騎士や兵士たちが勝手気ままに動き回っている——葵たちにはそう見えた。


 兵たちにはそれぞれの持ち場があるはずだが、皆がそれを放棄し、城内を、中庭を好き勝手に歩き回っているように見えた。


「サボタージュというわけでもなさそうだが」


 恭一の言葉は的確だが、単に兵たちが一斉に職務を放棄したようでもない。なぜそんなことになっているのかは不明だ。


「そうだね、なんかたがが外れたって感じ?」


「ホイッスルのひと吹きでか?」


 そんなことがあるのか、と恭一はいぶかしげだが葵には別の考えがあるらしく「あれは引きがねだったのかも」とつぶやいた。


「引きがね?」


「どうやったかはわからないけど、兵たちの目がちょっと焦点合ってない感じだし……暗示というか条件付けされてたのかも」


「一人ずつ催眠術をかけて回るのは非効率だと思うが」


「いつかのように大がかりな呪術っていうのは?」


 呪術と聞いて恭一は「なるほど」とうなった。ここは魔法や呪術が具体的な力を発揮する世界だ。現に近衛隊の宿舎に仕掛けられた呪術は百人近い人間を操ったのである。


 嫌な予感がした。


 あのとき、敵の術中にとらわれた騎士たちはこちらに襲いかかってきた。恭一は一人で数十人を打ち倒したが、ここは常時数千の兵が常駐する砦なのだ。同じことが起きれば恭一といえどもさすがに対処できない。


 まずいなと思ったその時、心の奥でなにかがひらめいた。無造作に振るった剣が飛来した一本の槍をたたき落としていた。考えて動いたわけではない。反射的に体が動いていた。それは極めて自然な動きであり、葵の特殊な目でもとらえきれないほどの反応だった。しかも槍は完全に死角となる方向から飛来したにもかかわらず、恭一は瞬時に対応した。彼の感覚はすでに常人を超えつつあったのだ。


 如月葵が魔法士として生長しているように、剣士としての高城恭一もまた進化し続けているのである。


「ごめん、ちょっと城の外にきをとられてた」


「外もこんな感じか?」


「今のところこの変な空気は城内だけみたい。でも……」


 葵は周囲を見回して兵たちの様子にため息をもらした。剣を抜く者、槍を構える者、弓に矢をつがえる者、いつの間にか多くの兵たちがこちらに目を向けつつある。その意図は容易に想像がつく。


「さすがにこの数は相手にできんな。撤退しよう」


「じゃあまたお城の中へ」


「ここは城外へ向かうべきじゃないのか?」


「ダリルさんたち、まだ中のはずだから」


 その時、ひゅんと風を切る音がして無数の矢がこちらめがけて飛んできた。本職の兵士らしく狙いは正確で数十本の矢が二人に集中する。数は力だ。恭一の剣をもってしてもすべてを打ち払うことは不可能だろう。だが——。


 四方から飛来したすべての矢が見えない壁にはじかれたように地に落ちた。兵たちは二射、三射と矢を放ってくるが青いと恭一の周囲にむなしく落下するばかりだった。かつて青い獣の突進を防いだ葵の「盾」は長足の進歩を遂げ、周囲を包む不可視の障壁と化していた。魔法陣の形成に時間をとられることもなく「シールド」と内心で唱えるだけで発動する。


 超能力者ミリアム・サンドの高速な魔法発動に刺激を受けた葵は徹底的なスピードアップに励んだ。顕現呪さえもイメージ化して古語で唱える手間も省略した結果、どの魔法もほぼ瞬時に起動できるまでになっていたのだ。


「今のうち!」


「おう」


 兵たちの無表情な顔がすべてこちらを向く前に二人は駆け出した。

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