第84話 盗賊の二つの顔 その4
(承前)
そしてログワント城内某所——。
その男は冷めた目で窓から城の中庭を見下ろしていた。銀色の長い髪、灰色の無機質な瞳をした男はそろそろ青年期を過ぎようかという年齢に見える。一見すると中肉中背の優男のようだが、見る者が見れば服の下の意外なほど鍛えられた筋肉に気がついたかもしれない。
何を考えているのか他者に読ませない顔だが、今、その表情が一瞬だけ震えた。
鳥の声のような響きが風に乗って伝わってきたのである。鷹笛と呼ばれる特殊な警笛、その独特の高周波|音は一度でも軍に身を置いた者なら決して聞き違えることはない。
その証拠に眼下を歩く兵たちがそろって立ち止まり、頭を巡らせるようにして笛の音を聞き取ろうとしている。それを眺めながら男はつぶやく。
「やれやれ、隊長殿はしくじったか。あれほど盗賊のまねごとなどやめておけと言ったのにねえ」
室内に他者の気配はなく、彼はそう独りごちたつもりだった。
ところが——。
「それはどういうことでしょうか」
いきなり背後からそう声がかかった。若い女の声だ。
突然だったにもかかわらず、男はあわてることもなくゆっくりと振り返った。それだけの動作だったのに先ほどまでとは表情も雰囲気もがらりと変わっていた。
冷ややかな気配は跡形もなく、温厚で優しげな雰囲気をまとった青年医師のようなたたずまいである。驚くべきことに男は一瞬でその切り替えをやってのけたのである。
「おや、メルさんではありませんか。どうしました? あなたが医療院に顔を出すとは」
医療院というのは城内の治癒魔法士たちの仕事場、いわば病院や診療所に相当する部署のことである。兵士たちは日常的によく怪我をするし、過労やストレスから体調を崩す者も少なくない。平時でさえそうなのだから隣国との小競り合いともなれば尚更だ。
厳密にはに部門に分かれており、一部は治癒魔法士たちが具体的な傷の治療に当たる処置部門、そして今二人が対峙しているここ二部はその後の悩み、不安など主に心理的な問題に対して慰撫や激励などを与えるカウンセラー的な役割を負っていた。常に兵たちが出入りしている処置部門と違ってこちらを訪れる者は少ない。
男はその両部門を統括する現在の責任者で、通常は班長と呼ばれていた。名をレプトル・ゼンという。
「自分の職場ですから」
メルは短く答えたが、彼女にしては冷ややかな声だった。
「まだ僕のこと、何か誤解してるのかな。ずいぶんと怖い顔になってますよ」
「班長殿はここで何をなさっているんですか」
メルは男の言葉を無視してぶすりと言い放つ。本来の彼女は上司の言葉を断ち切るような無礼な物言いはしない。にもかかわらず今は素っ気ないほど非礼な態度を崩そうともしない。異例といってもよかった。
「何をと言われても、ここは治療院ですよ、兵たちの傷を癒やし、時には悩みを聞いて助言を与える。よくご存じのはずでは?」
「ええ、もちろん。でも私はそのたびに兵士たちに変な話を吹き込んだりはしませんよ」
「変な話? 何のことかな?」
「色が変わるんです」
メルの言葉があまりに唐突で男は肩をすくめるだけだった。だがメルはかまわずに続けた。
「あなたの前を通り過ぎるたびに兵士たちの色が変わるんです。気味の悪い緑色の肌をした……生気のない……人形みたいな……」
「支離滅裂だね、 一体何の話かな」
「ダリルから聞きました。武力ではなく、人々の欲をあおる形で密かに浸透してくる勢力があると。占うたびにあなたに感じていた気持ち悪さやあなたに近づきたくないって印象はあなたが皆を変えようとしているからだと気がついたんです」
「意味不明だね。占い? そんなあやづやなもので人を糾弾するとは失敬な話だな。それでは理屈も何もあったものではないよ」
男は冷静に受け流しているようだが、両者の間には言い知れぬ緊張が張り詰めていく。男もその態度ほど落ち着いているわけではないのだ。
メルア・メリルは若手随一の治癒魔法も使い手だが、性格的には羊のように穏やかで、こんなふうに彼にかみついてくるような相手ではなかった。そのように理解していたのだが、そういえば彼の着任時から微妙に避けられている感じがしていた。しかもさっきの言葉は明らかに彼が殉じている「ある勢力」を暗示していた。
だとするとこの女は「敵側」の息がかかった者である可能性がある。
危険だ、と思った。
誰にも気づかれず、密やかにこの城を食い荒らしていくという彼のもくろみの障害になるかもしれない。
だが、すでに鷹笛は鳴った。鳴ってしまった以上、計画は一気に最終段階へ突入する。もしこの女がその意味するところに感づいているとしたら……。
事は急がねばならない。彼は素早くそう計算し、結論づけた。
この女はここで始末する!
穏やかさを装っていた男の表情が一瞬で険しいものに変わった。同じ顔のはずなのにもうさっきまでとは別人だ。瞳の奥に何か赤い斑点のようなものがちらついていた。
「!」
メルはいきなり冷水を浴びたような衝撃で立ちすくんだ。
足が動かない。
声も喉にからんで出てこない。
全身に冷たい汗が噴き出して吐き気をもよおした。それらは男の目をのぞき込んだ瞬間に襲ってきたのだ。
いけない! と心の中に警報が鳴り響いた。この目を直視してはならない!
それは魔法士の超常的な勘がとらえたひらめきだった。
メルは実施にこの異常な不快感を立て直そうとした。相手の目が怖い。あれは人の心を縛り上げようとする
それに捉えられまいとあがくメルの心を様々なイメージが乱舞する。相手の眼光はそれを絡め取ろうとする網だ。
目……眼光……瞳……。
その連想が一瞬、あの人の目を想起させた。
この男のそれとは正反対の、瞳の奥から星の光があふれ出てくるような美しい目は……。
アオイさま!
天恵のようにひらめいたアオイ・キサラギの神秘的な瞳のイメージは彼女を縛ろうとする邪悪な意思を引きちぎり、振り払った。
動かなかった体が大きく後ろに飛びすさった。立ち尽くしていたほんのわずかな時間で息が上がっていた。荒い呼吸を繰り返しながら彼女は悟った。
今のは「攻撃」だったのだと。
「ほう、私の目にあらがうとは。さすがは若手第一の治癒魔法士といったところか」
男はわずかに面白げな顔で余裕を見せたが、メルの抵抗が意外でもあったらしい。ならば実力行使でとでも考えたのか、メルに向かって一歩を踏み出そうとした。
「ああ、メル、ここにいたのね」
数瞬前までの緊張感を無視するかのような声が聞こえたのはその時である。偶然ではあるのだがそのタイミングがあまりにも絶妙であったため、男もメルモ一瞬、気がそがれた。
声の主は部屋の入り口に立ったダリル・スタッグスであった。
その刹那、男はめまぐるしく考えを巡らせ、選択した。目の前の不愉快な治癒魔法士の女より城主の娘を押さえた方が有用であると。
ダリルは今日が例の盗賊急襲の日だと知っていたが、その詳細は父とガトーのみが知ることであり、彼女が関知することではなかった。従ってダリルは普通に友人のメルを探してお茶にでもしようと思っていただけだ。
なのに、治癒部門の班長、ラプトル・ゼンが彼女めがけて突進してくるのを見て唖然として動けなかった。
「え、なに?」
メルの「逃げて!」と言う声を聞いたような気がしたが、何の訓練もしていない身ではとっさに動けるはずもなく、気がついた時にはゼンの握った短剣の切っ先が喉元に当てられていた。男の動きは普段の温厚な治癒魔法士たちの指導者とは信じられぬほど素早く、ここに至ってもダリルには状況が理解できなかった。
「な、なにを……メル!」
「ダリル!」
「フフ、時がきたのさ。さあ、一緒に来てもらおうか。メル君も友人の身が心配なら同道を許可するよ」
「い、いったいどこに行こうというんです……」
事情はわからないものの、ダリルは気丈に問いただした。一般の貴族令嬢なら震えて声も出せなかったろう。
「ん? もちろんご城主のところさ」
「父上の? なんのために」
「ほう、さすがは城主の娘だ、なかなか肝が据わってるな。ならば教えてあげよう」
男は不敵に笑って口元を歪めた。
「デッカはね、生まれ変わるのさ、本日ただいまをもってね」
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