第79話 占い師 その3


(承前)



 謙遜はしたもののアオイ・キサラギの賛辞がうれしかった。


「きっとそう。ほら、あっちを見て」


葵は近づいてくる一つの幻影を指し示した。さっきまでは押し寄せるイメージの大群に圧倒されて方向もわからず、一つ一つの幻影を見定めることができなかったが今は違う。


 傍の少女の姿が比較対象の基準となって個々の幻を見分けることが可能になっていた。そして——。


 流れ去っていく無数の幻。その中の一つ、葵が示唆した幻が彼女たちに近づいてくる。


 草原が見えた。彼方には峻厳な山並みがあり、それを背景に草原の両端に大勢の人間たちが向かい合っていた。


 軍勢である。


 両軍は草原を挟んで睨み合っているようだ。山を背にした兵たちの多くは不揃いな甲冑に身を固め、対するに草原の者たちは統一のとれた騎士装束や戦支度である。


 中でもその先頭に立ち、腕を組んで敵軍を睥睨する細身の騎士に瞠目した。両脇を固める数人の騎士の圧倒的な力感が確信させた。


「あれはガーラさま……じゃあまさか四大騎士?」


「このビジョンはあたしも見たことあるよ。先頭にいるのはクーリアね、へえ、髪を切ったんだ」


「信じられない……あれはどう見ても戦、ですよね。どうしてこんなことに」


「彼女の本質は戦士なのよ、たとえ剣の修練など一度もやったことがないとしてもね。いつかはああやって戦場に立つ日が来る。見たところ今とあまり変わりはないようだからこれはそう遠くない将来の光景ね」


 メルは信じ難い思いで葵の言葉を聞いていたが、そこで両軍の光景に変化が生じた。


 敵軍の中から全身が青い光に包まれた大型の獣が放たれたのだ。虎の体型を持ちながら象に匹敵する巨大さである。そんな化け物が数十頭も草原を突っ切ってファーラム軍に襲い掛かろうとしていた。


 すると騎士装束に身を包んだクーリアが守護の四大騎士さえその場にとどめてただ一人、歩み出たのである。


 メルは思わず「危ない!」と叫びそうになったが幻影のクーリアは素早く星の探検を引き抜いて一閃した。


「ああっ」


 瞬間、白銀の光が走ってメルの目を射た。


 同時にメルが見ていた幻影の光景も千々に砕け散った。


「うーん、やっぱ肝心なところは見えないか。残念」


 メルはまだ呆然としていたが葵ののんびりしたいいぐさに目をむいた。


「そんな呑気なこと言ってる場合じゃないですよ、姫さまが危ないのに」


「本職の占い師がまだ起きてもいないことであたふたしないの」


「ですけど……」


「あの青い獣は敵側の呪術の産物で弓や剣では倒せないの。でもクーリアの短剣、『エリ・エリ』っていうんだけどあれにはあらゆる呪術や魔法を切り裂く力があるの。あの瞬間、魔法で過去から覗き見してるあたしたちの視線さえ断ち切られてしまったでしょう? まさに呪術師や魔法士の天敵ね。だから彼女は大丈夫、きっとね」


「エリ・エリ……」


「王家の秘密兵器だから今の話は内緒よ。それより次が来るわよ」


まだ衝撃から抜けきれずにいたメルダが「次」と言われてはっとした。再び近づいてくる幻影に意識を向ける。


 見知らぬ異境の風景であった。


 乾いた大地の奥に巨大な岩山が鎮座し、その中腹から大瀑布が降り落ちていた。まるで天地をつなぐ大河である。おかげで乾燥地帯でありながらその麓には縦横に水路をめぐらせた美しいみやこが広がっていた。


 優美な大都市であるが、中でも目を引くのは岩山を背にそびえ立つ奇妙な形状の尖塔であった。何本もの巨樹の根やみきが複雑に絡み合いながら上へ上へと天空を目指したあげく、類を見ない摩天楼を形成しているのだ。そして——。


 ここもまた戦場であった。


 おそらくそれぞれが戦いの一局面と思われる幻影が脈絡もなく現れては消える。


 空には数十体の異形が浮かんでいた。 金属らしい光沢の黒く丸い胴体から八本の足が突き出ている。その怪異な飛行機械から立て続けに火球や光条が放たれ、塔に命中すると爆散して火炎と衝撃波を撒き散らす。


 逆に塔からは雷撃や光輪が放たれ、 飛行機械たちをを撃ち落としていく。攻防は一進一退と思われたがそこでまた場面が変わった。


 岩のガーラがおのれよりも巨大な戦士と戦っていた。


 風のシュトルムは文字どおり旋風と化していずことも知れぬ広大な階段を駆け上っていた。


 水のウィアードは自ら斬り伏せた数百の敵兵の骸を背に静かに茶をすすり、火のベルリーンは紅蓮の炎をまとって哄笑していた。


 そしてまた場面は変わる。


 戦場の情景から一転して澄みきった蒼穹だけが広がっていた。


 よほどの高空なのか青を通り越して黒に近い。 空の最も高いところに流れるはずの細い雲がずっと下方にたなびいていた。そこは外科医の騒がしさとは一切無縁の静寂に満ちた領域だ。


 今、その空の彼方にぽつんと小さな白い点が現れ、みるみる近づいてくる。


 小さい? とんでもない。それは長大な体をくねらせながら悠然と虚空を渡る神聖な何かであった。蛇? みずち? いや違う。


「あれは……なんですか?」


 口走ったメルの声には怯えが混じっていた。


「ドラゴン……竜よ。実在したのね」


 答える葵の声には深い感動の念が込められていた。それほど その姿は偉大であったのだ。 翼を持った恐竜のような西洋型のドラゴン——ワイバーンではなく、電光をまといながら長大なその身をくねらせて空を渡る葵たちには馴染みのある姿である。牙や目。爪やウロコといった細部は視認できないが、 白い光そのものが集まって形作られたようなそのシルエットは紛れもなく竜であった。


「初めて……見ました。竜なんておとぎ話の中だけの存在だと」


 メルのつぶやきは驚きを通り越してうっとりとその偉大な姿に見惚れているようだった。


 竜はメルたちの目の前を悠然と渡っていく。が、その時——。


「ええええー!」


 それまでどんなビジョンが流れてきても落ち着いた声でメルの動揺を宥めてくれていた葵が驚きの声を上げた。 よほどの衝撃だったのか目をみはる思いが無意識に遠見の術を発動させていた。しかも内なる魔法陣を室内の全員に投影してしまっていた。


 結果、恭一もダリルもいきなり拡大された視界の中でそれを見ることになった。


 眼前を長大な竜が悠然と飛んでいる。信じられぬほどの巨大さだ。


 恭一は表情を引き締め、ダリルは悲鳴をもらすことさえ忘れてその光景に見入った。


 それだけではない。


 竜の頭部から首筋にかけて波打つ鬣の中に埋もれるようにしてそれを掴んでいる人間の姿があった。


二人の男女——葵と恭一であった。


その時、竜を駆る少女、如月葵がちらりと「こちら」を見た。のみならず軽く手を振って微笑んだのである。声もなく竜の巨体を見送っていた全員が確かに彼女の笑みを見て目をみはる。


 そこまでだった。


 周囲を乱舞していた様々なビジョンが急速に薄れ、消えていった。


「すみません、もう……」


 どうやらメルの集中力が途切れたようだ。テーブル上に散乱した絵札キカハと光を失ったカプリア、メルは疲労困憊のていで荒い息を吐いていた。


 占いの術者は大なり小なりああしたビジョンの経験を持つ。だが、その代償として術者は多大な「心の力」を必要とする。


  当然であろう。本来の人間の五感では捉えられない時間軸上の情報を取得しようというのだ。そのための対価として術者が差し出さねばならない心的・霊的リソースは生半可なものではなかった——メルア・メリルの潜在的な才がいかに大きかろうとも。


 しばらくは皆、無言であった。


 こうした霊的ビジョンに慣れている葵でさえこれほど豊かな幻想には覚えがない。一般人としては例外的に許容度の大きい恭一もさすがに自分が見たものを扱いかねていた。


 ダリルもだ。


 常識人であるがゆえに垣間見た魔法士の視界はほとんど理解不能だったが、自分が何かとても貴重なもの、素晴らしいもの、本来なら触れることもかなわぬものを見たと直感が告げていた。理屈など無意味だと。


 自分は不可視世界の神秘に立ち会ったのだと。そして——。


 それを導き出したメルもまた生涯初の経験に半ば酔っていた。自分が憧れ続けた上級魔法士の霊力を垣間見て恐怖さえ感じる。アオイ・キサラギの圧倒的な霊力なくしてあのように深く「潜る」ことは不可能であった。


 一級魔法士? 違う、この人はもっと別のなにかだ。


 みずから否定したようにアオイ・キサラギは国家試験などとは無縁の存在であり、メルの知る他の魔法士たちの誰とも違っていた。


 強烈な畏れと憧れ。それが今メルの感じているすべてだった。


「さすがににわかには言葉が出てこんな」


 しばらくして京一がぽつりとこぼした。それでも冷静な声が彼の驚くべき胆力を表している。メルやダリルではあれを目撃した直後にこんな平静な声で応じるのはまず無理だ。


「お茶が冷めちゃったね。いれ直すよ」


 葵がそう言って傍の茶器に手を伸ばした。


 ハーブティーの落ち着いた香りが室内に漂うと皆の動揺も少しずつ静まっていった。


「葵のおかげでいろいろ非常識な体験にも慣れたつもりだったが……こいつはどはずれだな。あれも占いなのか?」


「たぶんね。あたしが足場を作ってメルさんがその上で術を発動させたから二人の魔法のハイブリッドみたいなものかも」


「しかし、あれも未来の光景だとすると……いったいどんなシチュエーションなんだ?」


「さあ、あたしもあんなビジョン見たの初めてだったから」


「心当たりは?」


「全然。メルさんは?」


「いえ、全く。でも……戦はともかくあの竜……実在してたなんていまだに信じられないけど、あれを見られて嬉しいです。なにかこう、とても神聖なものだと思うから」


 メルは深いため息とともにそうつぶやいた。


「なんだかその気持ちわかる気がする……」


 ようやく落ち着いたらしいダリルも同感だったらしく、こちらも感慨深げにそうもらした。治癒魔法士達との交流があるとはいえ、彼女がたった今目撃したのは日常とは隔絶した光景だったのだ。


「びっくりしたけど、何かとても素敵でした。ちょっと人には話せそうもないけど……」


 普段のダリルなら大騒ぎしたかもしれない。自分でもそう思うのだが不思議とそんな気分にはなれなかった。


 そうだな、と若者は同意した。


「同感だ。あれを見たのは俺たちだけの秘密にしておいた方が無難だ。騒ぎの元だからな」


「だよね、ありがたみも薄れるし」


 葵がそんなまとめ方をしたので全員が小さく笑った。


 結局、ドラゴンの幻影があまりにもインパクトがありすぎて全員が毒気を抜かれた気分になり、お茶会はそこでお開きとなった。


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