第74話 国境 その3


(承前)



 先に立って二人を案内しながらも、ダリルの内心は穏やかとはいえなかった。


 自分が彼らに言葉にしづらい反発を覚えているのは確かだが、その正体が自分でもはっきりしない。そうしたもやもやした感情は彼女が最も嫌うものだった。


 軽い挨拶の言葉さえ喉の奥に引っかかって出てこない。発言を躊躇するような性格ではなかったはずなのにどうにも声がかけづらい。ガトーには「自分で確かめる」などと言っておきながらきっかけが掴めない。話してみなければなにも始まらないというのが自分の信条だったはずなのに。


 黒ずくめの騎士も連れの娘も黙って彼女のあとをついてくるのだが、二人の視線が背中に集中している気がしてますます落ち着かない。


 とうとう彼女は振り返って二人のどちらへともなく声をかけた。


「さっき言ったこと、本当なの?」


「なんのこと?」


「査察の目的よ。あんな漠然とした話じゃ」


「もちろん本当のことですよ。帳簿なんかいくら調べても彼らのひそかな侵入の証拠なんて出てきませんから。歩き回って気配を探さなきゃ」


「気配? だから魔法士が出張ってきたってわけ?」


 正直なところ、ダリルはまだ彼らの言葉に納得したわけではない。どうやら内偵じみた仕事をするつもりのようだが、あまりにもあやふやな話で腑に落ちない。するとアオイと名乗った娘はふいにこんなことを言い出した。


「魔法士の勘だけに頼るのは賢明とは言えません。霊感は気まぐれで解釈にも幅があるから。彼には人を見る目があり、あたしにも隠れた気配を探る目があります。だからあたしたちは二人で一組なんです」


 謙虚にも、自惚れにも聞こえるが、なんとなくはぐらかされたような気もする。意味深な言葉に見せかけてごまかしているのではないかと思い、ダリルはつい挑戦的な台詞を口にしていた。


「じゃあ、一級魔法士だというあなたにはこの瞬間、なにが見えるの?」


 口にしてから言い過ぎたかと思ったが、返ってきたのは思いもよらぬ答えだった。


「そうですねぇ、今わかるのは……あなたがもうずっと以前からガトーさんのことが好きだってことかな」


 思わず足を止めてしまった。心の中に一斉に多くの感情があふれてダリルは慌てた。これほど人前で狼狽したことは一度もない。


「な、なにを言い出すの、いきなり!」


「あら、だってあなたはガトーさんにそっくりだもの」


「……」


「小さい時から憧れてたの? ずっと彼のことを見ていたからいつの間にか言葉つきや話し方まで似てきちゃったのね。立ち居振舞いも多分よく似てるはず」


 二の句が継げないとはこのことだ。あまりにも予想外のことを言われて言葉を選び損ねたダリルは、彼女らしくもなく強気に言い返すことができなかった。アオイ・キサラギは正確に彼女の弱点を突いてみせたのだ。


「……あんな人」


「魔法陣を開くだけが魔法士の仕事じゃないの。わかってもらえた?」


 魔法士の娘はくつろいだ口調でそう言うとにっと笑った。ダリルは先ほどの妙に意気込んだ気分をいなされてどうにも気まずい心境だったが、幸い、二人にあてがわれた客人用の「金剛の間」はもう目の前だった。


「着いたわ、お客人」


 そう言って扉に手をかけ、この居心地の悪い会話を打ち切った。


     ***


 城内にはもちろん居住区に相当する区画も存在する。


 特に城主や側近たちには豪華な自室が用意されているが、そうした高位の人々はやはり無骨な城の中よりくつろげる住まいを求めて城下に別邸を持つのが一般的だ。重役本人はよくても妻子はそうもいかないからだ。


 事情はスタッグス家も同様である。伯爵は常に城内にいることを好むが、彼の妻、そして一人娘のダリルは城からいくらも離れていない場所に建てられた豪壮な屋敷を自宅としていた。名のある伯爵の別邸なので多くの使用人が働いているが、その主人が戻ってくるのはせいぜい月に一、二度だ。彼にはくつろぐことがゆるむことに思えるのかもしれない。


 伯爵夫人もそこはよく心得ていて自宅に硬い雰囲気を持ち込まれるよりは豪邸で多くの侍女や使用人に囲まれて優雅に暮らす日常でよしとしていた。両者を行き来するダリルだけは事情が違うが、彼女の覇気と若さには関係がない。


 一旦城内の自室に戻ったダリルは妙に心がざわついて落ち着けず、屋敷に帰ったのだが、それでも気分が晴れない。理由はわかっていた。あの二人、特にアオイという娘の印象がちらついて心を離れないのだ。そして彼女に言われたあの言葉——。


 まさか初対面の相手に指摘されるとは思わなかった。


 あれほど直接的にではないが彼女には思い当たることがある。ありすぎるくらいだがむろん誰にも明かしたことはない。伯爵のもとで育った彼女には色恋沙汰に足を取られるような女は軽侮の対象でしかなかったのだ。だから——。


 自分が「あんな人」に想いを寄せるなど断じて認めるわけにはいかない。


 そう思ってきた。


 なのにあの娘の一言で心が揺れる。


 あれが魔法士の霊感? それとも自分が気づかないだけで他人からはそんなふうに見えているのだろうか?


 侍女たちに運ばせた最高級の紅茶も、最近首都で人気の甘いジャムとやらをはさんだ焼き菓子も、今日ばかりは心を静めてくれない。何度か大きなため息をもらしたダリルはもう一度身なりを整えて部屋を出た。すでに夕刻に近いが伯爵令嬢の気ままさは家人も使用人もよく知っている。


「メルのところへ行ってくる」


 その一言で筆頭執事も侍女たちも深々と頭を下げてダリルを送り出した。無言で二人の護衛がつき従う。つかず離れず、影のようにその存在を意識させない。そうでなくとも城主の娘を襲おうなどと考える命知らずはこの街には皆無である。


 そろそろ夕餉どきとあって通りには夜勤の兵と交代した騎士や兵士がどっとくり出し、露店や食堂は大いに賑わっていた。街の人口はおよそ五万。砦の街だから大半の人間がなんらかの形で城と関わっているので全員軍属と言えなくもないが、軍とその関係者が約三分の一で残りは民間人——すなわち商人であったり職人であったり、はたまた食堂の主人であったり身一つの人足であったりする。


 むろん市場いちばもあれば酒場もある。若い男が多いので女たちも集まってくる。軍の重要拠点として様々な物資も優先的に送られてくる。結果としてセリアとはまた別の形で賑わう街になっていた。


 ダリルが向かったのは繁華な一角から外れた東側の住宅区画であった。石造りの家屋が密集し、細い路地が入り組んでいるためちょっとした迷路だ。仮に外敵が侵入したとしても容易には中央の城までたどり着けまい。ここを目をつむっても迷わず歩けるようになれば一人前のデッカ市民ということになる。


 やがてダリルの足が止まった。


 路地の両側はなんの変哲もない住居だがそこだけ玄関扉の脇に鉄製の飾り物がぶら下がっている。枝に留まった小鳥を象ったもののようだ。すると——。


 ダリルがノックする前に扉が開いた。にこやかな表情で迎えてくれたのは若い娘であった。ダリルよりやや歳下だろうか、くすんだ金髪と水色の瞳が愛らしいが、なにやら面白そうな表情である。


「いらっしゃい、待ってたわ」


「……わかってたの?」


「これでも占いで生計を立てている身だから」


 そう言うと娘は「さ、入って」とダリルを家の中に迎え入れた。勝手知ったる友人の家なので遠慮なく玄関をくぐり、椅子をすすめられる前に長椅子に腰を下ろした。目の前の低いテーブルには様々な図柄の絵札が広げられたままである。魔法陣らしき紋様を刻んだ薄板カプリアも何枚か混じっていた。


 今、お茶をいれるね、と台所から声がかかる。お茶はもうけっこうという気分だったが黙っておいた。


「あなたは本当に顔に出ちゃう人ね」


 盆に茶器を抱えて出てきた娘は朗らかに笑った。友人の性格はよく心得ているのだ。対してダリルのほうはあまり相手の心情を察する柄ではない。からかわれるのはいつも彼女のほうである。


「言わないでよ、気にしてるんだから」


 そうぼやいてテーブル上の絵札を束ねて脇へ置いた。


「メル、もしかして今も占ってたの?」


 メルと呼ばれた娘は「まあね」とだけ返して紅茶をすすめてくれた。どこから仕入れてくるのか、彼女が出してくれる紅茶は少し薄荷に似た香りが独特で「お茶はもうたくさん」という気分がたちまち薄れて消え去った。急速に心が落ち着くのを感じる。


「いつも思うんだけどこのお茶って不思議。なにか混ぜてあるの?」


「内緒。商売道具だからね」


「商売道具?」


「まず依頼人の気分を和らげて話を聞き出しやすくするの。素直に事情を打ち明けてくれるとこちらも絵札の解釈で迷わずに済むから」


 ふうん、とつぶやいたダリルはそういえばメルの前では正直になれる自分を思い返していた。そうか、これも占いの小道具だったのか。


 メル——メルア・メリルはダリルより二つ歳下の魔法士である。いざとなれば城の治癒魔法士として駆けつける身だが、平時は占い師としてこんな路地の片隅で開業している。よい師についたおかげか少女時代から才能を認められ、十六歳で三級の国家試験に合格した。まずは秀才といってよいだろう。治癒魔法に関しては城でも一、二を争う腕前で、小競り合いの多い守備隊からは若年ながら一目置かれていた。


 ただ、本人は血腥い現場は遠慮したいと言って普段は市中で占い師をやっている。優れた素質のおかげか、それなりに商売は安定しているらしい。この住まいは次の弟子を求めて旅立った師匠が譲ってくれたものだという。


 ダリルとは城で知り合い、歳が近いこともあってすぐに意気投合した。もっとも、突っ走りやすいダリルをメルがなだめる、という形が多かったが。強気な伯爵令嬢にとっては格好の相談相手であった。


「で、今日はどうしたの? 食いしん坊のあなたが夕食も後回しにして押しかけてくるなんて」


 ダリルの向かいに腰を下ろしてメルはそう水を向けた。


 すぐには答えられない。ダリル自身、自分でもよくわからないもやもやを持て余して友人の顔を見たくなったのだ。


「……城にね、急な査察が入ったの」


「査察? そんな時期だったかしら」


「ううん、すごく異例。なんの前触れもなかったし。それに……」


 言いよどむ友人をメルは焦れずに待つ。いつものことだ。


「査察官というのがたった二人なの。なんだか怪しげな」


「二人? それじゃ全然手が足りないでしょう、前の時は三十人くらいお役人が来なかった? どんな人なの」


「一人は黒ずくめの若い騎士で……すごく強そうだった。そしてもう一人は私より若い娘で、その、第一王女付きの一級魔法士だというの」


 さすがにメルも目をみはった。それではダリルでなくとも不審に思うに違いない。


「どういうこと? 全然話が見えないんだけど」


「見えないのはこっちよ」


「まさかとは思うけど……本物なの?」


「らしいわ、あの人が……ガトーが王宮や宰相名の身分証を見たって。騎士は近衛隊剣術師範のキョウイチ・タカシロ、だったかな? 娘は第一王女最高顧問のアオイ・キサラギ……そう名乗ったわ」


「ますます話が見えないわ。査察ですって? そんな偉い人たちがいったいなにをしにきたの」


 メルは本気で驚いていた。突拍子もないとはこのことだ。怪しいどころではない。ダリルが持ち込む相談はたあいもないものがほとんどで、話につきあってやればダリルは自分で心を整理して答えを見つける。だがこれは——。


「彼らが言うには帳簿などを見にきたわけじゃなくて、なにかこう内偵のようなことを考えてるらしいの。インガルからこっそり侵入してファーラムに食い込んでいる勢力があるって。その娘はそうした気配に敏感だと」


 ダリル自身は具体的な話を好む性質だったのであの二人の言い分をうまく説明できない。彼女の不機嫌はそこから来ていることをメルは察した。


「要するにあなたはその人たちのことがよくわからなくて苛々してるのね」


「それもあるけど……」


「けど?」


「なんていうか、あのに見透かされてるような気がして……どうにも」


「気に入らない?」


 少女のようにこくんとうなずいた友人をメルは可愛いと思った。愛すべき友だ。


「一級魔法士ねえ、先生は腕利きだったけどそれでも二級だったし……私、一級魔法士なんて一度も会ったことないなあ。どんな人なの?」


 ダリルはしばらく言い淀んだ。さすがに「あの人」のことまで打ち明けるわけにはいかない。


「どんなって、歳は多分十七か十八くらい、あなたもそうだけど目の光が特徴的で、いきなりこっちの内心を言い当てて……初対面なのに」


「それは占い師がよく使う手管よ。初手から相手の秘密を言い当てて主導権を握るの」


「初対面でそんなことがわかるの?」


「観察力の問題ね。顔つき、仕草、わずかな言葉、そうしたものを見逃さないの。そこから推理するわけ。霊力なんかなくてもけっこういろいろわかるものよ。その人はきっとそういうことをよく知ってるのね」


「……占いってそういうものなの?」


「もちろん霊感もあるけど、使えるものはなんでも使うわね」


「最初にお茶を出していろいろ聞き出して?」


「そうそう」


 そこで初めてダリルは笑った。少し気が晴れた。やはりここへ来てよかったと思った。持つべきものは友人だ。

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