第73話 国境 その2


(承前)



 城塞都市デッカの中央にそびえるログワント城はこの地の要ともいうべき堅固な城である。


 砦としての機能に特化しているので文官たちの行政官署は周囲の建物群が受け持っている。デッカでは群の存在が最重要で他はそれに奉仕するために構成されているのだ。


 本来なら城主は行政の長としての責務が重いのだが、ここでは趣が違う。すなわち——。


 兵と騎士を束ねる古典的な領主としての側面が大きいのである。


 今、そのログワントの城の回廊を歩く第五守備隊の長、ガトー・ダンはいささか困惑していた。すでに日は落ち、場内には煌々と明かりが灯っている。


 街道に見慣れぬ騎士の姿がある。


 そう聞いても普段であれば部下に様子を見に行かせるだけだ。なのにふと気が変わった。自ら小隊を率いて馬を飛ばした。虫の知らせとでもいおうか、なにかが心にささやいたのである。


 若い男と女の二人連れ。最初はそう見えた。だが両者ともに得体の知れない者たちだった。地方では滅多にお目にかかれないような高位の身分証を持ち、平然と「査察だ」と言ってのける相手が只者であるはずがない。剣を交えずともあの若者が並々ならぬ手練れだということはわかった。そして娘のほうに至っては——。


 城にも当然治癒に長けた魔法士がいる。だがあの娘のまとった雰囲気は彼の知る誰とも違っていた。魔法士も一級となると一国に十人とはおるまい。しかも第一|王女付きだという。宰相の署名と官印のある身分証が偽物のはずはない。


 そんな者たちが予告もなしに査察だと? ありえない、と思った。


 ここはファーラム全軍の中でも一、二を争う重要拠点であり、中央とのつながりも密接だ。予告もなしにいきなり査察の手が入るなどということは絶対にない。もしそんな動きがあれば即座に早馬で知らせが入る。そもそもたった二人で、というのが解せない。この城にも形式上の査察が入ることはあるが、その場合も官僚数十人の規模になる。形だけとはいえ城の会計や行政文書を検めるにはそれだけの人員が必要なのだ。


 だが——。


 あの男の自信に満ちた態度が気になる。彼らはなにか自分の知らぬこの城の手落ちを掴んででもいるのだろうか? むろん一介の守備隊長に上層部の事情などわかるはずもないのだが。


 そう、たとえ上との折り合いの悪い一人の下級騎士がささやかな疑念を抱いていたとしても、彼にできることなどなにもないのだ。


「ガトー」


 ふいに声がかかってはっとなった。いつしか伏目がちになっていた顔を上げると見知った若い女の顔がそこにあった。思わず苦笑がもれる。目の前に来るまで気がつかなかったとは彼らしくもなく意識が散漫になっていたらしい。


「お嬢さん……」


 若い女——名をダリルという。姓はスタッグス、すなわち城主であるスタッグス公の娘というわけだ。明るい茶色の髪と同色の瞳、整った顔立ちはひどく豪華な印象をまとっている。


 若い頃から同家に出入りする機会のあったガトーにとっては少女時代から知る相手である。現在の彼の地位は伯爵の引き立てによる部分もあるので彼女はいわば主家の娘といえば近いだろうか。


「どうしたの? そんな顔をして」


「いや、なんでもない……」


「うそ。ひどく浮かない顔してたわよ」


 十も歳が離れているのにきっぱりとものを言う。彼女はそういう性格なのだ。誰に似たのか昔からガトーに対してもそんな物言いである。強気で華やかな美貌の伯爵令嬢などというものは男にとっては鬼門であり、同性には——刺が気になる薔薇か蜂のようなものだ。


「いささかお父上の機嫌を損ねてしまいましてね」


「またぁ? どうせまた口ごたえしたんでしょ、あなたってほんと頑固だから。少しは折れてみせればいいのに」


「処世のなんたるかくらいはわきまえていますよ。あの方にはどうやら俺の報告が気に入らなかったらしい」


 ガトーは素早く気分を立て直し、わざとらしく肩をすくめてみせた。先ほどのようにうかつに内心を表情に出すのは本意ではない。


「なにかあったの?」


「査察ですよ」


「え、この時期に? そんな話聞いてないわよ」


「俺も今日言われたばかりです。査察官本人から直接にね」


「……どういうこと?」


 ダリルは理解に苦しむという顔をした。気は強くても聡明な娘である。城主の傍で様々なものを見聞きして育った彼女にはガトーの言葉が今ひとつ腑に落ちない。


「さてね、俺にもさっぱりですよ。街道に見慣れぬ騎士の姿がある——そう聞いて様子を見に行ったら女連れの若い騎士が」


「まさかそれが査察官だっていうの?」


「騎士のほうは近衛隊剣術師範、女のほうは第一|王女付きの一級魔法士だそうです。両名とも王宮や宰相名の正式な身分証を持っていました」


 ガトーの言葉があまりにも意外だったのであろう、ダリルは呆気に取られた顔で「冗談でしょ?」ともらした。そんな突拍子もない話は聞いたこともない。だが目の前の男が冗談など口にしない人物だということを彼女は知っていた。


「俺は見たまま聴いたままを報告しましたよ」


「……お父さまがご不快になるわけだわ。でも本物なの? その二人」


「少なくとも男が恐ろしい腕前だということはわかりました」


「女は? 私、一級魔法士なんて一度も見たことないわよ」


「あなたより年若い娘でしたが、たぶん本物でしょう。雰囲気が独特でした。男に言わせるとその娘の前ではどのような不正も見抜かれてしまうと」


「お父さまは不正など!」


「だとしても取り巻きの側近や官吏どもまで清廉であるとは」


 ダリルがすごい目で睨むのでガトーは軽く両手を挙げて形ばかりの詫びを口にした。


「その二人はいつ?」


「明日の昼には、と申していましたな」


「いいわ、自分で確かめるから」


「一応中央からの客人です。いきなり突っかかったりするのはなしですよ」


 ダリルはまたなにか言いかけたが、ガトーはそれ以上令嬢を相手にせず、そのまま足早に歩み去った。


     ***


 ダリルがその二人を前にしたのは翌日の午後のことであった。


 父であるレンゼル・スタッグス伯爵の傍に立ち、中央から来た査察官だという若い男女に少々きつい眼差しを向けていた。


 城主の間には他に二十名を超える側近や高位の官僚が居並んでいる。皆、時ならぬ異例の査察と聞いて食い入るように問題の「査察官」に注目していた。


 二人を迎えた城主はにこりともせず「よく来られた。歓迎する」と形だけの言葉で応じたが、ダリルには父の不快が伝わってくる。


 スタッグス伯爵は城主として着任してすでに十年余、貴族にしては珍しく武張った人物で、兵や騎士をよく統率し、隣国と小競り合いの絶えないこの国境の地を長年にわたってよく治めてきた。非公式にだが王宮からは終身城主であれと信頼されている人物である。


 男子に恵まれなかった伯爵は娘に剣を取らせることこそなかったが、自分の傍で大人たちが政治や行政、軍事を営む姿を見せてきた。彼女が賢く、強気で率直にものを言うのはそのためでもある。父に問われれば意見も言う。城内では誰もが彼女の聡明さを知り、暗黙のうちに側近の一人と認められていた。


 だからといってダリルは父の判断に異を唱えるような差し出たことはしない。彼女の父は威厳と気迫に満ちた強さの象徴であり、尊敬こそすれ到底批判などできる相手ではなかった。


 今、ダリルは目の前の二人を睨みつつ(?)同時にその異彩ぶりに瞠目してもいた。


 長身で立派な体格の若い騎士は全身黒ずくめで、そこに立っているだけで室内のどの騎士よりも強靭な覇気が伝わってくる。彼女はガトーの剣が守備隊でも一、二を争う腕前だということを知っている。そのガトーが「恐ろしい」と評した言葉が偽りではなかったことを実感した。このひとは強い——。


 そして連れの娘は。


 魔法士なら彼女の友人も含めこの城にも何人もいる。実戦の場に治癒の魔法士の存在は不可欠だ。だが、黒ずくめの騎士の隣に立った娘はその誰とも違う雰囲気の持ち主だった。威圧するでもなく見下すわけでもなく、といってあやしげな気配というのも違う。


 自然にそこに立っている。


 そう、あえて言うなら「自然体」なのである。一級魔法士は極めて稀な存在で、この国にも七人しかいないと聞いたことがある。一級魔法士、しかも第一|王女付きというからさぞ摩訶不思議な存在感を漂わせた相手かと思っていた。なのに、その娘は城主の威厳を前にしても臆するどころかなにやら面白げに周囲を見回し、ダリルと目が合うと「へえ」という表情で小さく笑ってみせたのだった。


 だが城主である父にはそうした印象は届かなかったようで言葉には素っ気なさが滲んでいた。


「デッカは常にインガルに備えてゆるむ暇などない。予告もなく査察と言われても戸惑いを覚えるばかりだ。正直、心外でもある」


「城主どの、お言葉ですが相手の都合に合わせていては査察の意味がありません」


 黒ずくめの騎士がそう応じるのを聞いてダリルはひやりとした。これでは父の気分を逆撫でするようなものだ。城内でこんな物言いをするのは口の悪いガトーくらいである。その度にどやされているが。


「ほう、ぬかしおる。近衛隊剣術師範とな? よほど腕に覚えがあるようだが自惚れが過ぎるのは感心せんな」


「自戒しております」


 城主はふんと小さく鼻を鳴らしたが、歳若い騎士の態度に怒りをのぞかせることなく「まあよい」とだけ答えた。ちらりと若者の隣の娘に視線を向けたがあえて言葉をかけることはしなかった。封建的な城主らしく女に敬意を払うような態度には遠い人物なのだ。城内に働く治癒の魔法士たちと変わらぬように見えたのだろうか。


「で、査察官どの、当方はなにを用意すればよい? 財務監の帳簿か、それとも」


「いえ、お気遣い無用。できれば我々が滞在するためにひと部屋お借りできれば」


「部屋? 当然客人には用意済みだが」


「ではそれでけっこうです。あとは我々が城内や市中を好き勝手に歩き回る自由を」


 黒騎士の言い草が奇妙に聞こえたのか城主は「なに?」と不審げな顔をした。歩き回る自由だと?


「これは異なことを。貴公らは遊山にでもまいったのか」


 そこで改めて魔法士だという娘に目をやる。その視線にはいくらか軽侮の光が浮かんでいた。若い男女の浮ついた内心を連想したのかもしれない。


「城主どの、我々は官吏の不正や軍規の乱れなどを確かめにきたのではありません。まあ、帳簿の記載に不可解な改竄の跡が一つや二つあるのは珍しくもないこと、そんなものに興味はありません」


 ダリルはまたも肝が冷える思いを味わった。この若い騎士は意図して父を挑発しているのではと思うほど言葉に刺がある。たとえ若くして近衛隊に認められた身分だとしてもこの態度はいただけない。


「……ではいったいなにを見にきたというのだ」


「影を」


「なに」


「城主どの、ご存知かどうか、隣国インガルは武力による侵攻がままならぬと見てもうずいぶん以前から影のようにひそやかにこの国への侵入を図っております。武力によらず人々の暮らしに溶け込み操る形で」


 城主は思わず「む」と瞠目した。


「それは……」


「ゆえに我々が来ました。この娘はそうした気配を見逃さぬ特別な目を持っておりますのでね。なに、そちらに手間は取らせません。しばらくこの地にとどまり、歩き回るだけですから」


「……なにやら胡乱な話だな」


 知ってか知らずか、レンゼル・スタッグス伯爵は不審げな表情を隠さずしばらく沈黙していたが、やがて「わかった」とだけつぶやいてこう続けた。


「兵や騎士たちの邪魔をせぬというのなら好きにされるがよい。滞在中はこれなるダリル・スタッグス、わが娘に貴公らとの応対はまかせる。要望があれば娘に言うがよい。できることはする」


 そこまで言うと城主はダリルに「客人たちを金剛の間に」と指示して謁見を終えた。


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