第72話 国境 その1
第五章 国境
室内の声が途切れた。だが瞳をきらめかせる葵には男たちの三者三様の沈黙の意味が伝わってくる。
恭一は高速で考えをめぐらせ、クストーは驚きに言葉を探しあぐねている。そしてドーレスの指導者は困惑しつつも破綻を回避しようとしていた。
「……なぜそれを」
「時々ひらめくんです」
「それは……天啓か」
「さあ?」
葵は小首を傾げてみせたが相手はそこからしばらく沈黙していた。何度か口を開こうとしたクストーを制して目の前の若者たちをじっと見つめていた。やがて——。
「ドーレスというのは……」
長い黙考の末、男は静かに語りだした。
「何代か前のデイル家の領地の名だ。カフカ東部の片田舎ですでにその名はない」
デイル家はなんの変哲もない田舎貴族に過ぎなかったが、民をよくまとめ、街道を行き来する商人たちを保護し、ダンテス家が武勲を立てた戦乱の際も目立たぬながら北部の経済をよく支えたことで通商に携わる人々の確かな信頼を得ていた。
当主の才覚もあったのだろう、街道の要所を起点に交易の調整や商人たちの組織化といった地道な労力を重ね、気がつけば地方経済を陰から支える立場になっていた。
ところが、いつの頃からか風通しのよかった街道の流通に奇妙な齟齬が混じるようになった。商人同士のいさかいが増え、物の相場が乱高下し、あちこちの領主と癒着して汚職を引き起こす等々、経済の歯車に小石が挟まったように軋みや破損が頻発し始めたのだ。
それが「荘園」との遭遇であった。
素朴ではあってもなめらかに回る経済をもってよしとするファーラムの国情とは異質な富への執着。欲に憑かれる者が増え、以降、相容れない二つの意志はぶつかり続けることになる。
「デイル家もまた街道の経済から財力を得ていたことは確かだが、決して搾取や簒奪に走ったことはない。荘園の侵入は食い止めねばならないが、そのための力がなかった。ゆえに——こちらも対抗するための組織を必要とした」
それがのちのドーレス商人組合の原型というわけだ。
「以来、代々デイル家の当主は荘園の拡大を阻むために力を尽くしてきた。その過程でドーレスもまた変質し、不正に手を染めるようなこともいくたびかあった。きれいごとでは済まない争いだったのだ」
そして両者の抗争は荘園の過激化によって新たな段階を迎えた。事態を憂慮した現当主ハーランは王宮や官僚に周到に根回しを重ね、時には賄賂を送り、最も荘園の活動が顕著なブンデスの州都セリアに乗り込んできたのだ。敵の本拠ともいえるカットナー城の主人として。
狩猟三昧の凡庸な城主に見せかけて各地を飛び廻り、組織の立て直しと荘園の内情探索に明け暮れた。にわかにしぶとくしたたかになったドーレスに対し、荘園はその指導者を狩ることに躍起になっている。
「だがそれでも現状維持で手一杯だ。我々は彼らを退ける根本的な方策を希求していた。そこに君たちが現れた。中央は荘園もドーレスも知るまい。知っていたとしても街道の経済を蝕む同類に見えているかもしれん。クストーが密偵の存在を恐れたのもそういう理由からだ」
そこまで聞いて葵は無言で恭一にうなずいてみせた。彼女に話をまかせていた恭一が初めて男に質した。
「組合長、もう気がついていると思うが
「……そのようだな」
「あんたが正直に話していることはわかった。ドーレスの言い分は信じよう。だがあんたはまだ肝心なことを話していない。俺たちの立場はそれを聞いてから決める」
「……それは?」
「聞こう。俺たちになにを望む? あんたが自ら姿を現したのはそのためだろう」
恭一の直球にドーレスの二人はまたしても息を呑み、互いに顔を見合わせたあと、ハーラン・デイル伯爵にしてドーレス商人組合を束ねる「しるべさま」は居住まいを正した。
「正直に言おう。君たちに助力を求めたい」
「具体的には?」
「囚われた仲間の救出を図っているが、アオイどのが言われたように我々は武闘の場では素人だ。手を貸してほしい」
「どこに囚われている? カットナー城にそんな気配はなかったが」
「ローリエの国境、デッカの城塞に送られた。あそこはインガルに最も近いがゆえに荘園の浸透も濃い。兵たちにも荘園に与する者が少なからずいる」
恭一は「なるほど、どうりで」と葵を見た。
「城主代行がデッカと聞いて動揺したというのも」
「だね、荘園の拠点にしようと画策している現場をあたしたちに探られたくなかったってことね」
にやりとした恭一は男たちに向き直った。
「詳しい話を聞こうか」
***
ファーラムの七つの州の中でもローリエは一風変わった土地である。
ブンデスとブージュに挟まれた細長いベルト状の形には理由がある。まだ国内が安定していなかった古い時代のこと、両州があまりにも揉め続けるので業を煮やした時の国王は強権をもってその州境に幅十レント(約十二キロ)の緩衝地帯を設定した。これが起源である。葵たちの目には向こうの東京都を南北に圧縮したような土地、と映るだろうか。
その名は東京湾に相当するローリエ湾にちなんだもので、湾岸に州都リラが置かれた。人口約六万は州都にしてはやや小さいが、代わりに同規模の都市がもうひとつ存在する。西端の国境近くに築かれた城塞都市デッカである。
他の州都も古い戦乱の名残で城壁を有してはいるが、国内が安定して久しい現在では歴史の遺物に等しい。だが、デッカだけは例外であった。ここは戦に備えた現役の砦なのである。
隣国インガルとの国境はその大半が山岳地帯であり、執拗にファーラム進出を図るかの国にとってもその壁が大規模な出兵を阻んでいる。だが唯一、デッカを擁するこの辺りだけは山が途切れ、幅広のハイウェイのようなローリエにつながっているのだ。
結果としてこの地は長年、両国の小競り合いの舞台となっていた。平穏なファーラムにおいて唯一、戦時体制にあると言ってもいい。一万の兵に加えて正騎士三千は首都オルコットを除けば国内最大の戦力である。それを維持するための物資、経済、人員など必要な資源が集合してデッカという都市を形成しているのだ。セリアからリラへ下った街道が首都やカヌートの州都アルドロウへ向かうだけでなく、デッカへも分岐しているのはそれだけこの城塞が重要視されている証だった。
あれから三日——。
セリアを発った葵と恭一は一旦リラに向かい、二日ほど現地の事情を見聞きしたあと今朝方早く街道を西に折れ、デッカへ向かいつつあった。
これまで、どちらかといえば街道から外れた枝道を通ることが多かった二人だが、今は幹線道路ともいうべき街道を進んでいる。なにしろ南北がたった十キロ余りしかない土地なので道の両側にはブンデスとブージュそれぞれの州境が見えるほど狭い。わざわざ枝道を回る利点も必要もないのだ。
二人に先を急ぐ様子は見えない。
ゆっくり馬を進める彼らの脇を多くの人、馬、馬車が行き交う。セリアの近辺と異なるのは明らかに兵や騎士の姿が目につくことだろうか。セリアが商人の街ならデッカは軍人の街なのだ。
ブンデスの田舎道では黒いマントの二人連れに振り向く人も少なくなかったが、向けられるのは好奇の目であった。それに比べると鋭い視線が飛んでくる。戦に関わる人間にとって黒騎士の存在感はただ事ではないのだ。デッカまではまだ距離があり、到着は明日の昼ごろになるはずだが、この様子だともう噂が立っているかもしれない。
「目立ってるねえ。途中でなんか言われるかも」
「まあ予告もなしだからな、向こうの出方を見るにはちょうどいい」
「ローリエの街道で盗賊が出たって話、本当かなあ。こんだけ兵士や騎士がうろうろしてるのに」
「確かに。事実だとしたらよほど度胸が据わってるか手際のいいやつだろうな。さすがに昼間から仕事はしないだろうが」
いざとなったら街道から左右どちらに逃げても隣の州まで直線距離でほんの五、六キロだ。近衛隊以外の一般兵は越境しないのが不文律であるから仮に街道でひと働きしたとしても案外逃走は容易かもしれない。
「そう考えるとあえてリスクを冒そうと考えるやつも出てくるかもな」
ただし街道沿いの逃走経路を知り尽くしていれば、という条件付きだ。そう恭一が締めくくった時である。前方から騎馬の一隊が向かってきたのは。
見ると先頭の男だけはマントを羽織っており、胸当や手甲なども一般兵のそれとは違う。軽装だが正騎士であろう。明らかにこちらを目指して進んでくる。二人は路肩に馬を寄せて一団を待った。
十メートルほど手前で馬を止めたのは十数人の小隊である。雰囲気は鋭く、街道で行き交った兵たちと同様厳しい視線を向けてくる。恭一の存在感に反応しているようであった。
先頭の騎士がゆっくり進み出ると恭一の前で馬を止めた。
歳の頃は三十ほどであろうか、均整のとれた体つきで馬を降りれば身長一八〇センチはあるだろう。髪と口の周りの髭は濃い茶色、薄い灰色の瞳が眼前の若い騎士を見つめていた。
「街道に——」
男は前置きもなくいきなり切り出した。
「見慣れぬ黒衣の騎士の姿があると聞いてきた」
「あんたは?」
「ガトー。デッカの守備隊の者だ。後ろは俺の部下たち。そちらは?」
「俺はキョウイチ、隣は俺の連れでアオイ」
ガトーと名乗った男はちらりと葵に目を向けただけで恭一に視線を戻した。彼が興味があるのは黒衣の騎士だけであるようだ。
「デッカへ向かっているのか?」
「そのつもりだ」
「目的は?」
「これは尋問か?」
あえてそっけない口調の恭一だが、男は眉をちりっと持ち上げただけでその挑発には乗らなかった。
「素性のわからぬ者をデッカに入れるわけにはいかん、そのための守備隊だ」
「ではこれでいいか?」
恭一は懐から例の身分証を取り出し、男に差し出した。するとセリアの衛兵が飛び上がって驚いた近衛隊最高士官の身分証にも男は表情を変えず、わずかに「ほう?」という目をしただけだった。
「もう一度聞く。何用だ」
「査察だ、と言ったら?」
「一人でか? ありえんな」
「一人だと? どこを見ている」
そこで初めて男はまじまじと葵に目を向けた。まさかこの女が? と侮る表情は隠せない。だが葵は一歩馬を寄せ、無言であの身分証を懐から取り出した。差し出されたそれを男はやはり驚きもせず見ていたが、表情はにわかに厳しくなった。恭一が冷徹に告げる。
「この娘は王女付きの一級魔法士だ。どのような不正も彼女を偽ることはできん」
言下に一陣の風が巻き起こり、男の手から二通の身分証をもぎ取った。それは風に乗って頭上高く舞い上がったかと思うと狙ったように葵と恭一の手に落ちてきた。
「見てのとおりだ」
「魔法士……」
男の表情は一気に真剣味を帯びた。恭一の言葉が嘲弄などではないことを理解したのだ。
「当方に査察を受けるような手落ちはない」
「それを決めるのはあんたではない。俺たちは官吏ではないが、王宮や近衛隊にはいささか義理があるのでな」
「今一度、名を聞いていいか」
「俺は近衛隊剣術師範のキョウイチ・タカシロ、黒騎士と呼ばれることもある。この娘は第一|王女最高顧問のアオイ・キサラギ。近衛第七隊の相談役でもある」
「……到着は明日だと言ったな?」
「あぁ、昼には着けるだろう。話は通しておいてくれ」
男はわずかに眉を寄せたが、それ以上口にすることなく馬を翻した。じっとこちらを睨んでいた兵たちに短く「行くぞ」と命じるとそのまま馬の脚を早めて走り去った。
「守備隊か、さすがにセリアの寝ぼけた兵たちとは違うな」
「真面目な人だね、厳しいけど部下思いで。でも立場的にちょっと居心地の悪い思いをしてるみたい」
「というと?」
「まだちょっと。向こうの様子も見てからでないと」
「わかった、覚えておく」
守備隊の規模がどの程度にせよ、皆がガトーの小隊のようにピリピリしているとすればデッカという街の緊張も相当なものだろう。むろん、国境を守護する兵にゆるみがあってはならないのだが、緊張が過ぎてこちらから小競り合いをしかけるようでも困る。うまく手綱をとるのが城主の役目というわけだ。
その城主の名はレンゼル・スタッグスという。
「かなり好戦的でインガルに対しては強硬派だと聞くが」
「貴族なのに戦好きって珍しいね」
「陰謀家タイプより扱いやすいとも言えるが、まあ、会ってみればわかるだろう」
近衛隊で知り合った人間はどちらかといえば都会的でスマートな印象があった。だが、ここの兵たちは明らかに違う。少し話しただけでガトーからは厳しさ、ふてぶてしさ、そして緊張感が伝わってきた。首都でつきあってきたエリートとは違うたたき上げの迫力である。
「案外、城のお偉方より守備隊とやらの連中のほうが手強いかもな」
恭一はそう独りごちて葵をうながした。宿を取る予定の小さな町までもう少し馬を進めなくてはならない。国境の城塞はまだ先だ。
***************
そろそろ地名が増えてきたので位置関係を把握するためにも必要かと思い、ファーラムのざっくりとした地図を近況ノートに掲載しました。といっても手元の作業用にとりあえず作ったものなのでほとんど関東地方 そのままですが(笑)まあ、そういうせっていですので。
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