第67話 密書 その1



 大ゴドワナ大陸——。


 葵たちがユーラシア大陸の名で知る世界最大の陸地はその広大さから単に世界大陸とも呼ばれている。無数の小国を束ねる三つの大国が覇を競っているが、中でも大陸中央を統べる「王天連邦皇国」は国土、産業、文化などあらゆる面で抜きん出た超大国であった。


 通称「青の都」として名高い首都「冠華都クワンカート」はその名のごとく大陸中央に咲いた絢爛たる花の冠であり、支配者たる帝は世界最大の高層建築である蒼天宮そうてんきゅうから下界を見下ろし「世界はすべてわが足下にあり」と豪語していた。


 だが、その彼の威光をもってしても意のままにならぬものがこの大国には存在する。


 それは一人の若い女の姿をしていた。


 九天玄女——玄女と呼ばれる女魔法士の集団を束ねる皇国最大の魔法士である。


 名をサクラ・アマミヤという。


 彼女が世界に五人しか現存しない「超級魔法士」の一人であることは帝すら知らない。超級魔法士は世界全体を裏側から支配する者たちであり、その存在は厳重に秘匿されていたからだ。


 ゆえに彼女は現世の興亡などには興味がない。超級魔法士たちの意に沿っているかぎりどの国が繁栄し、また滅びようともかまわない。自国においてさえもだ。


 だが、最近の彼女はさして興味がなかったはずの皇国の行末にささやかな不安を覚えていた。心の隅に刺さった小さな棘が抜けないのだ。


 胸騒ぎの原因はたった一人の少女の面影であった。


 失われた秘宝探索のために広げた心の網——千里眼の視野に浮かび上がったその姿を見た瞬間、心にさざ波が立ったのである。


 彼女は何者なのだろう? なぜこうも自分の心を騒がせるのだろう?


 その思いでふと心が漂いそうになる。常に冴え渡る超常感覚の持ち主であるはずのサクラが、気づけばぼんやりともの思いにふけっている——そんな瞬間が増えてきたのである。以前には決してなかった緩みが心の内に生じていた。


 今夜もそうだ。


 冴えた月光がなぜか心に刺さる。ちりちりとした刺激が眠りの欲求を妨げ、心理操作に慣れているはずの彼女が不眠を持て余しているのだ。かつて覚えのないことであった。


 そのあげく、眠ることを諦めた彼女は薄衣を一枚羽織って庭に出た。


 庭といってもここは蒼天宮の頂上、御所の足下に広がる空中庭園である。花々の咲き乱れる昼の姿と違って月光に浮かび上がる幻想的な眺めがそこにあった。


 すでに夏は過ぎ、深夜に薄衣一枚では肌寒いはずだが、周囲を温暖に保つことなど彼女の魔法には造作もない。


 そのままゆっくりと歩み出た。その姿はさながら月下に舞い降りた天女である。


 だが、月光に溶け込みそうな朧な情景がふいにこわばった。


 誰かいる——。


 ぎくりとしてサクラの足が止まったのである。


 誰? そして何故? この庭は事実上、九天玄女一人のものであり、帝でさえ足を踏み入れることをはばかる。立ち入ろうにも彼女が施した強力な結界がそれを許さない。


 そのはずだったが、「彼女」の背中は確かにそこにあった。


 若い娘である。皇国の民にはあまり見られないゆったりとした男装の上下に黒いマントを羽織った姿は明らかに異国のものだ。じっと月を見上げていたが、サクラの気配に気づいたのかゆっくりと振り向く。サクラとそっくりな黒い瞳が月光を弾いて猫の目を思わせた。背筋が軽いおののきに震えた。


 あの少女だった。


 サクラの千里眼に浮かんだどこの誰とも知れぬあの少女が今、眼前に立っていた。


 いや、正確には立っているとは言えない。サクラの霊眼は相手が実体ではないことをすでに悟っていたからだ。だが——。


 ありえない、と思った。ここは彼女が作り出した結界の中であり、いかなる霊的な干渉も受け付けない。彼女が通路を開かぬかぎり、幻影を送り込むことなど不可能だ。なのに幻影の少女はサクラを見て静かに微笑んだのである。


「こんばんは、素敵なお庭ですね」


「……あなたは? どうしてここに?」


「さあ、月を見ているうちに少しぼうっとしちゃって。そうしたらここに立っていたの。もしかしてあなたが呼んだの?」


「そうかもしれない。あなたのことを考えていたから」


「あたしを知ってるの? あなたは誰?」


「わたくしはサクラ、サクラ・アマミヤ。皇国の玄女を束ねる者です」


「あら、まるで日本人みたいな名前ね。皇国って?」


「王天連邦皇国、ご存知ない? あなたは?」


「あたし? あたしは、ええと名前なんだっけ、そうだアオイ、アオイ・キサラギ……だったと思う。ちょっと記憶が曖昧だけど」


 えへへ、と少女は笑った。屈託のない笑顔がとても清々しく、サクラもつられてくすりと吹き出した。


「サクラさん、名前も知らないのにあたしを知ってたの? どうして?」


「大切な宝物を見失って探していたのです。そうしたらあなたの顔が占いの中に浮かんできたの」


「宝物?」


「エリ・エリというの」


「エリ・エリ? もしかしてこれのことかな」


 アオイと名乗った少女が右手を持ち上げると次の瞬間、一本の短剣がその手に握られていた。月光の下でさえ白銀の輝きが鮮やかに目を射る。それはまぎれもなくサクラたち超級魔法士が総がかりで捜索している秘宝であった。むろんこれも実体ではないが、実物を知らぬ者にはここまで精緻な幻は作り得ない。


 やはりこの少女は「あれ」の消失にかかわっていたのだ。


 サクラは内心の動揺を抑えてこう尋ねた。


「なぜあなたがそれを手にしているのか知らないけど、それはわたくしの大切な宝物なの。返してくださる?」


「うーん、それはちょっと。今はあたしの手元にはないし」


「どういうことでしょう」


「これの真の持ち主として運命づけられた人に委ねたの。第一……」


 そこで少女は右手を軽く振って傍の空間を薙いだ。すると青白い光が細い稲妻のように走り、不可視の裂け目が生まれた。


 サクラは思わず驚きに喘いだ。


 切り裂かれたのは彼女の結界であり、その事実は少女が「エリ・エリ」を使いこなしていることを意味する。それ以上に驚くべきは彼女の手にあるそれが実物ではないという事実である。ただの幻に本物と同じ力が宿ることなどありえないはずなのに。


「魔法を断つ剣があなたに必要とは思えないな」


「アオイ、あなたは……」


「これは死蔵するためにあるんじゃないよ。今はあの子の手にあるのが正しい。剣もそれを望んでいるから」


「……あの子?」


 半ば呆然としているサクラの問いに少女はこう答えた。


「剣の稽古など一度もしたことのない小さな国のお姫さま。でも彼女の戦いが世界をあるべき形へ向かわせる。だから——」


 ごめんね、これは返せないの。


 少女がそう言って軽く手を振ると短剣はふっと消え失せた。


「アオイ……」


「要は長い目で見てってこと」


 にっと笑った少女はこの上なく蠱惑的で黒いマントなどより華やかな衣装をまとわせたいと思ったが、サクラはこの不可思議な邂逅の意味を考えあぐねていた。


 運命の悪戯か月光のまじか、それは九天玄女と称えられる皇国最大の魔法士サクラ・アマミヤが初めて遭遇した真の不思議であった。


 そうした想いでわずかに心が逸れた刹那、アオイと名乗った少女の幻影は消失し、もうどこにも見えない。幻影のはずなのに彼女の残したかすかな芳香が漂い、立ち尽くすサクラにはもはや虚実のあわいがわからなくなっていた。


     ***


「葵」


 背後から恭一の声がかかってはっとした。


 もう何年も経験していない寝起きの混乱に似た自失で「あれ」と声が出た。二、三度瞬きして自分が窓辺に立っていることに気づいた。さっと意識がリセットされて明瞭になる。振り向くと恭一が寝台に身を起こそうとしていた。


「早起きだな、まだ外は暗いだろう。よく眠れたか」


「ついさっき目が覚めたとこ。窓から外をのぞいてたら月の光がきれいでね、見ているうちにちょっとぼーっとしちゃってた」


「らしくないな、疲れてるんじゃないか?」


「大丈夫、でもあたし、そんなにぼんやりしてた?」


 葵は少しばつが悪そうに頭をかいた。恭一となら一緒に風呂に入っても平気だが、心が無防備なところを見られうのはちょっと恥ずかしい。


「いや、珍しく心ここにあらずという雰囲気だったからな」


「ここにあらず? あ、そういえばちょっと夢を見たかも」


「立ったまま居眠りか、どんな夢だ?」


 恭一の軽い揶揄に「さあ」と笑みで返す。


「もう忘れちゃった。でも……そうだ、きれいな女の人に会って話をしたような。名前も聞いた気がする。なんだかとても親しみのある名前だったと思うんだけど……思い出せないなあ」


 自分によく似た黒髪と黒い瞳の若い女の姿が心の隅をかすめたが、流れる星のように消え去ってつかまえることはできなかった。とても大切な出会いであったように思えるのだが、夢を持ち帰ることは誰にとっても至難だ。


 外はまだ暗いがここは商売の都である。二人が着替えて朝の支度をしているわずかな間に街はもう動き出していた。馬車の音、人々の声、階下の厨房で店の準備をする活気が伝わってくる。


 昨夜はいろいろと動きがあり、収穫もあった。


 ダルフリンの長老たちとの話は興味深いものであったが、外とのかかわりを敬遠する彼らとは表立って密な関係は望めない。とりあえずの接触は果たした、というところだ。ただし、これで終わりというわけではない。まだ漠然としてはいるものの、葵にはそうした予感がある。長老たちは結界への出入りの許可をくれたのだから。


「そなた、二度目は穏便に訪うたであろう? 次はあれでよい。あれで入り口が開くようにしておくゆえ」


 彼らはどうやら葵がノックするイメージで接触した手順をちゃんとわかってくれたらしい。老レーネウは「器用なことをなさるの」と感心していた。葵がやったような心象操作を自力でできる魔法士は少ないのだという。想像力が魔法の鍵だという事実の一端であろう。


 あえて話題にはしなかったが、翌日、葵たちが城を訪れることもどうやら承知しているらしく、彼らもまた遠見かそれに類する術を心得ているものと思われた。彼らはなにもかも見ているのかもしれないが、気にしないことにした。ダルフリンの信条は「傍観者」であり、その点に葵の直感は偽りを感じなかったからだ。


 ミリーとはあまり立ち入った話はしなかった。ただ、近日中にクストーたちとの接触があるだろうということは伝えておいた。


「もうぶつかるようなことはないと思うけど向こうの事情も聞いておきたいしね。あなたはどうするの?」


「わからない、でも……」


 彼女としては気にはなるが表立ってついていくわけにもいかない立場である。葵は「信用して」とだけ答えてダルフリンの結界をあとにしたのだった。

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