第58話 出会いと交錯 その2


(承前)



 男は口を引き結び、顔色は青くなったり赤くなったりしていた。固く目を閉じているのは必ずしもめまいのせいばかりではない。対応に苦慮している、といったところか。


 無理もない、ほんの二日前に徒党を組んで襲撃し、見事に撃退された相手がなぜか横たわる彼のそばでじっとこちらを見つめているのだ。これに勝る不条理はあるまい。戸惑い、混乱、疑念、そして不審。どうにも不可解で思い出したはずの記憶さえあやふやになってくる始末だ。


 あれからなにがあった? 自分はなぜこの二人といるのだ? そもそもここはいったいどこだ?


「わからん」


 とうとうそんな言葉がもれ出た。今の彼には最も正直な気持ちであった。ひとつ大きく息を吐くと目を開けて二人のほうへ顔を向けた。


「記憶がはっきりしない。私は君たちにとらわれたのか?」


 二人はちらと顔を見合わせ、ついで男のほうが感情をうかがわせない声で答えた。


「まだ俺たちを密偵だと思っているのか」


「……それ以外のなんだというのだ」


 すると今度は女のほうがこう応じた。


「言ったでしょ、あたしたちは本当にただの旅人だって。あの場所を通りかかったらあなたが倒れていたので空いていたこの小屋まで運んだ。それだけ。三度目となるとまんざら知らない仲じゃないでしょ」


 そんなふざけた偶然があってたまるかと怒鳴りたい心境だったが、怒りを奮い立たせる気力がなかった。


「やはりまともに答えてはもらえんようだな、大方あの兵士たちをそそのかしたのも君らなのだろう」


「兵士? なんのことだ」


 彼はため息をもらすしかなかった。この黒ずくめの若い男は密偵の件に関してはあくまでとぼける気だ。さすがに中央の密偵ともなると徹底している。


「今さらなにを言う。私が生き延びたので改めて尋問する気になったか」


「生き延びた? 大げさなやつだな」


「剣で腹を貫かれたくせに死にぞこなった人間は稀だろうが」


「まだ夢を見ているようだな。どこにそんな傷がある? 寝ぼけるのも大概にしろ」


 どこまでも腹の立つ物言いだったが、そこで彼はふと異様な事実に気づいて声を呑み込んだ。


 痛みがないのだ。


 腹と背中の傷はどう考えても致命傷のはずだった。たとえ一日二日もったところで時間の問題である。奇跡的に命を取りとめたとしても回復に何ヶ月もかかるだろう。こうしてその日のうちに平然と言葉を交わすなど不可能だ。


 そう思うと急に不安になり、恐る恐る腹に手を伸ばした。


 ない。


 傷はおろか衣服にも切り裂かれた跡さえないのだ。そんな馬鹿なとつい口にしながら今度は忙しく手を動かして体を改めた。だが、剣の傷どころかしたたかに地面に打ち付けたはずの顔面にもかすり傷ひとつないのだ。めまいはまだ残っているものの、体のどこにも痛みを感じない。


「目が覚めたか」


 黒ずくめの男が冷たく言い捨てる。だがそれどころではなかった。彼は愕然として「そんな馬鹿な……」とつぶやくのが精一杯だった。


「信じられん、どうなってる」


「俺たちに訊かれても困るな、それこそ夢でも見たんだろう。どうせまともな商売じゃないんだろう? ストレス……心労が重なると苦しい夢を見るそうだからな」


 これは明らかに揶揄する口調だったが彼には言い返すことができなかった。驚きすぎて完全に思考停止に陥っていたのだ。


 その時、場の緊張にそぐわない異音が聞こえた。


 盛大に腹が鳴ったのである。どのような深刻な状況とも無関係な生理的反応だ。先ほどから妙に鼻をくすぐる刺激を感じていたのだが、女が明かりを置いた手元で小さな鍋をかき回していることに今の今まで気づかなかった。


「お腹に穴が空いてないんだったら少し食べる?」


 食べる? と聞かれて彼は初めて猛烈な空腹に気がついた。また派手に腹が鳴る。体は正直である。恥ずかしいやら情けないやらで言葉もない。


「はい、熱いから」


 気をつけて、と差し出された小さな椀につい手が伸びてしまってはもうばつが悪すぎて相手の顔が見られない。それでも匙ですくった一杯が腹に染みた。


「おたくの昼の煮込みには及ばないけど」


「……いや、美味い」


「そ、よかった。一応野宿の用意も持ってきたんだけど使う機会がくるとは思わなかったな。切れ端だけどパンもあるから」


 目の前の椀にだけ目を向けたまま彼はパンの包みを受け取った。ここまでくれば開き直るしかない。事情はまるで理解不能だが、今は体が食べ物を要求しており、ささやかであってもそれを満たす快感を優先させた。


 ことり、と椀を置いた時にはいつもの落ち着きを取り戻していた。どうせ逃げようとしても目の前の若い騎士の腕前を思えば不可能だ。腹をくくった。なるようになれ、という心境だった。


「わからなくなった……」


 彼は率直に本音をもらした。


「正直、なにがなにやらという気分だ。兵士たちに追われ、追いつかれて斬られた。致命傷だと観念したはずだが目が覚めればこんなことになっている。あれが夢だったとはいまだに信じがたいが、現実は動かせん」


「腹が減って行き倒れていた、が正解じゃないのか」


「この状況では違うと言っても信じてはもらえんだろうな」


 男はまだこの二人が密偵だと疑っていたのでかなり慎重に言葉を選んでいた。めったなことは口にできないが、先夜と違い落ち着いて交渉する好機でもある。相手から情報を引き出すことも可能かもしれない。


「でも夜道で襲撃するくらいだからあなたたちもまともな稼業とは言えないね」


 女は単刀直入に言って「けど」と続けた。


「こう言っちゃなんだけど、あなたたち、慣れないことしてるでしょ」


「なに?」


「彼に言わせると剣の扱いがまるでなっちゃいないと。普段からあんな荒っぽいことしてるわけじゃないんでしょ。あれじゃあ本気の騎士には太刀打ちできないよ」


 思わず言葉に詰まった。確かにそのとおりなのだが、これは彼らの事情にかかわることなので沈黙せざるをえない。相手は密偵なのだ。


「まだ疑ってる? あたしたちは異国から来た旅人だよ。オルコットから出るのはこれが初めて。彼が腕が立つのは当然だよ、そうでなければ長旅なんてできないもの」


「……異国だと?」


「そう、あなたは知らないだろうけど日本にっぽんという国があたしたちの故郷。ファーラムの人とは人種が違うのがわかるでしょう?」


「ニッポン……聞かない名だ」


「世界にはあなたたちの知らない国が無数にあるわ」


 にわかには信じられなかったが、そう聞くと黒髪に黒い瞳、肌の色、体つきやどことなく異国風の言葉遣い、確かにこの国の民とは少し違う。初めて会った時に「密偵では」と直感したのもその漠然とした違和感が目を引いたのかもしれない。


「だが、それにしては我らの内情を心得ているような口ぶりだったではないか。密偵でなければ……」


 彼の疑念はもっともだったが、そこで男のほうがひときわ冷たい目でこう告げた。


「長旅の危険には備えている。俺はこの剣で、そしてこの娘は占いをよくする」


「占い? まさか魔法士なのか」


「あいにく俺たちの国では魔法はおとぎ話の中にしか存在しない。だがいささかの霊力があれば魔法は知らずとも天啓を得ることができる、だそうだ。よく当たるぞ、占い師として日銭を稼ぐくらいなら容易だ」


「天啓、まさかオケイアを」


「あたしたちの国ではオカルトって言ってたけどね、そんなたいそうなものじゃないよ。ただ、危ない人間はぴんとくるだけでも旅の安全には役に立つから」


 彼には真偽を判断するすべはなかったが、女の瞳がきらりと光るのを見てかすかな畏れを感じた。魔法士を見たことは何度かあるが、この女の雰囲気はその誰とも違っていた。


「信じがたい、だが、それなら我らが襲撃することも」


「まあね、事情まではわからないけど、お店を出た時にはもう」


 わかっていたから。


 そうあっさり言われて彼は二の句が継げなかった。ではあの晩、待ち伏せされたのは自分たちのほうだったのか。


 魔法士ではない、だが天啓をよく見る者。本当だろうか? 事実だとすればこうして言葉を交わしているだけでも自分たちの内情を見抜かれてしまうのではないか。それは密偵よりも恐ろしい相手ではないかと思った。


「君たちは……これからどうするつもりだ」


「急ぐ旅ではないが二日後にはセリアにいるだろうな」


「どこかいい宿屋知ってる? 食事の美味しいところ」


「……本気で言ってるのか」


「もちろん」


 正気か、と一瞬真剣に悩んだが彼は腹をくくってこう答えた。


「中央北の通りに『白鹿亭しろしかてい』という食堂がある。その二階が宿だ。評判はいい」


「わかった。訪ねてみる。あたしたちに用があるなら来て。今度は礼儀をわきまえてね」


「わからんな、君たちは本当に何者なのだ」


「旅の騎士と連れの占い師だって。あたしの名前だけは教えてあげる。葵だよ」


「アオイ……」


 この女の言葉はひどく唐突でとらえどころがない。つられたわけでもないのだが、彼は「クストーだ、カルル・クストー。それ以上は言えん」と口にしていた。


 それじゃあ、と言って二人は立ち上がった。


「あたしたちはもう行く。あなたは夜明け前にこっそり出かけるといいよ。道は一旦東に迂回したほうがいいと思う」


「それは……占いか」


 女は「イエス」と片目をつぶった。意味はわからなかったが肯定ということなのだろうと思った。


「明かりは置いとくね」


 二人は手早く荷物をまとめ、あの黒いマントを羽織ると小屋の戸を押し開けて出ていった。束の間吹き込んだ風が冷涼で心地よかった。馬の気配がして彼らが遠ざかっていくのが風に乗って伝わってくる。


 なんとも言い難い不思議な一夜であった。



     ************


 本年最後の更新になります。慣れないWeb投稿でとまどうことばかりでしたが、少しずつペースも掴めてきました。この物語はまだまだ続きますので気長にお付き合いいただければ幸いです。

 それでは明年もよろしく。

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