第57話 出会いと交錯 その1



 ファーラム国内の要所を結ぶ街道はよく整備されている。


 だがむろん、道はそれだけではない。街道周辺には無数の枝道、旧道が交差し、田園や森林の多いこの国ではむしろそちらのほうが人々の日常に根付いている。中には獣道と見紛うような粗末な道も少なくない。地元の民だけが知る抜け道や近道の類は地図にも記されていない。


 今、そうした道の一本を男が走っていた。


 街道を外れ、旧道からさらに枝分かれした細い道である。森と小川に挟まれ、昼間でも人より小動物の姿が目につくような場所である。


 そこを一人の中年男が駆けてゆく。すでに息は上がり、足はもつれかけていた。それも道理だ、時折振り返る彼の目には自分を追ってくる者たちの姿が映っているのだ。


 そう、男は追われているのである。


 追っ手は五人であった。


 軽装だがそろいの軍服と薄手の兜、手甲はこの国の一般的な兵士の格好である。近衛隊なら肩に小さな徽章がつくが、地方の一般兵にはそれがない。どうやら男たちはこの地の軍に所属する正規兵のようだ。


 それが懸命に逃げる男を追いかけているのだ。道は小川に沿って蛇行し、木々の枝葉も道に張り出して視界を遮る。石ころだらけで足元も悪い。それでも日頃の鍛錬の差か、兵たちは徐々に距離を詰め、男の背中はすでに目前だった。


 そしてついに、先頭の兵士の手が逃げる男の背に届いた。


 後ろから追いすがるとき、慣れない者は肩や首筋を掴もうと手を伸ばすが、それでは振り払われるだけだ。このような場合はどんと背を押すのである。前方に勢いがついている相手はこれで簡単に転倒する。


 男は勢いのままに地面にひっくり返り、したたかに顔面を打ち付けたが痛みに呻いている暇はなかった。ざっと周囲を取り囲まれ、上体を起こした時にはもう逃げ場はなかった。五本の剣が突きつけられ、もはや逃げ出す余地はない。


「くそう、手こずらせやがって」


 男を突き飛ばした兵士が憎々しげに言い放つ。こちらも息が荒い。


「動くな」


「観念しろ!」


「もう逃げられんぞ」


 兵士たちが口々に威嚇する。いずれもとらえた男よりひと回り以上若い。思った以上に走らされてその顔は皆汗にまみれていた。最初の兵士が掴んだ剣に力を込めた。


「ドーレスのカルル・クストーだな」


 そう問い詰めるが座り込んだままの男はふん、と顔を背けた。


「とぼけても無駄だ、調べはついている」


「知らん、俺はただの商人だ、城の兵士に追い回される覚えはない」


「話は聞いてやる。あとでゆっくりとな」


「ふざけるな、俺がなにしたってんだ!」


 男の罵声に兵士たちはもう取り合わなかった。追跡、捕縛、拘引といった仕事に慣れているのか、無駄口を叩かず相手の言い分など聞こうともしない。ある意味、よく訓練されているともいえた。


「さあ、立て」


 兵士たちは相手が一人といえども剣を引いたりはしない。ここまで息を切らして走ることになったのも一度は侮って逃走を有したからだ。捕縛を命じられてはいるが抵抗すれば斬ってもやむなしと言われていた。男に再度の逃走の機会はなかった。


 だが、ここまで兵士たちを引っ張り回した男は諦めが悪かった。五人に取り囲まれ、剣を突きつけられながら素直に応ずる気はなかったようだ。


 のろのろと立ち上がるそぶりを見せながら、隠し持っていた短剣をいきなり引き抜いたのである。振り回した切っ先が一人の兵士の頬を浅く切り裂き、体当たりで退けると逃走しようとした。男も必死なのだ。


 だがそこで彼の命運は尽きた。


 一人の兵士が怒りにまかせて振るった剣は容赦なく男の肩口から背中へと走った。ぐわっと男は苦痛に呻き、その身が硬直したところへもう一人の剣が胴体を貫いた。


「がはっ」


 兵士が剣を引き抜くと傷口から赤黒いものが噴き出し、咳き込むように口からも血が吹きこぼれる。悲鳴すら出ない衝撃に身を震わせながらそのまま前のめりに崩れ落ちた。見る間に地面に黒い染みが広がっていく。致命傷であろう。苦痛のためか手足が勝手に動いているのは断末魔の証か。


「ちっ、やむを得ん、報告は俺がする。帰るぞ」


 最初の兵士が舌打ちとともに仲間たちを促した。周囲に人の気配はないが長居は無用だ。兵士たちは男を置き去りにしたまま足早にその場をあとにした。


 残された男にはまだ息があったが、兵士たちがためらうことなく立ち去ったのも当然だ。傷は深く、誰が見ても生存の可能性はない。


 ただ、男にはまだ意識があった。


 あまりにも苦痛が激しく、気を失うことさえできなかったのである。自分の命が今まさに尽きようとしていることはわかっていたが、もはや身動きもできない。


 このような形で果てることは無念であったが、あのまま連行されるよりはいい。拷問にさらされた仲間たちの無残な骸は何度も目にした。口を割っても割らなくても待っているのは死だ。こうして陽の光の下、大地に寝転がって死ねるならそのほうがずっとましだ。


 そう思うとなぜか不思議と気持ちが楽になった。あれほど激しかった苦痛もいつの間にかやわらぎ、ほとんど感じなくなっているのだ。痛覚にさえ限界がきたのだろう。


 ああ、いよいよお迎えの時がきたかと覚悟した。こうして最後は痛みも苦しみも感じずに逝けるのなら死の神もまんざら無慈悲ではないのだなと思い、それが妙におかしくて彼はつい笑いそうになった。むろん声など出ないのだが。


「ほう、この状況で笑うか」


 誰かの声が聞こえたような気がした。男? そう、若い男の声だ。


「これで三度目。よっぽどあたしたちと縁があるのね」


 また聞こえた。今度は若い女の声だ。なんとなく聞き覚えがあるような気もしたが、地面にうつ伏せでぴくりとも動けない彼には確かめようもない。


「いけそうか?」


「なんとか間に合ったみたい」


「さて、どうしたもんかな」


「少し手前に小屋があったでしょ、人の気配は感じなかったけど」


 どうやら若い男女が傍に立って何事か話をしているらしいのだが、ここへきて男の意識は急速に薄れつつあった。激痛が収まったことでこわばった体から力が抜けてきたせいだ。気がつくと瞼の裏に金色の光が差しており、言葉にできないほどの安らぎを感じた。


 黄金の光。


 ああ、なんという美しい光だ。死に際に最後に見たのがこれとは。


 彼は深い満足を覚え、光に包まれたままなにもわからなくなった。


     ***


 ぼんやりと漂っていた意識がふいに凝集し、彼は戸惑った。


 疑問、自我、認識、そして思考。拡散していた心の働きがひとつにまとまったせいで混乱しているのだ。


 自分という言葉が浮かぶと自他の区別が生まれ、ああ、夢から覚めるのだなと思った。それは誰にでもなじみのある感覚であろう。彼は浮上する意識とともに自分が目覚めつつあることを知った。


 もうすぐだ、もうすぐ自分は目が覚める。そうしたら……。


 いきなり目が開いた。


 目覚めた直後の混乱で即座には状況が理解できない。背中が固くこわばっているので少なくとも自室の寝台で目が覚めたわけではなさそうだということはわかった。


 ここはどこだ? わからない。


 俺は誰だ? 思い出せない。


 自分はなにをしている? わからない。


 わからないことだらけだが、不思議と不安は覚えない。再び眠気がやってきて瞼が閉じそうになる。そうだ、眠れ、あんなにひどい傷を負ったのだ、自分にはもっと休息が必要だ……。


 その傷という言葉が妙に引っかかった。


 傷? 傷だと? そうだ、自分はひどい怪我をした。あの時、兵たちに斬られて。


「あっ」


 一瞬で記憶が舞い戻り、思わず跳ね起きようとしたが実際にはわずかに身じろぎしただけだった。


「気がついたようだ」


「まだ混乱してるみたい」


 ふいに傍で声が聞こえた。そちらに目だけを動かすと、今まで全く気がつかなかった若い男と女の姿がすぐそばにあって彼の顔を覗き込んでいるのだった。


 その顔!


 なにかがはじけるように今度こそ彼は覚醒した。記憶の奔流がどっと押し寄せ、彼はすべてを取り戻した。


「おまえたちは!」


 今度は体が動いた。声も出た。ただし、上体を起こしたところで激しいめまいに襲われ、彼は頭を抱えて呻くことになった。


「気がついたとたんにそれか、ごあいさつだな」


「急に動くと目が回るよ、もう少し横になってなさい」


 男の声は冷たく、女の声にはいくらか彼を気遣う響きがあった。記憶を取り戻したおかげで彼にはなおさらこの状況が理解できず、なんと言っていいのかわからなかった。結局、めまいに負けてまた横になってしまう。自分がなぜ「この」二人と一緒にいるのか理不尽すぎてなにもかも理解不能だった。


 そう、彼の傍らに座っているのはあの時の「密偵」だったのである。

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