第56話 旅立ち その5
(承前)
今度は葵のほうが軽く目をみはった。その発想はなかったという顔だ。
「ずいぶん密偵にこだわるのね。そんなに調べられるとまずいの? 中央って言ったよね。近衛隊でそういうことするとなると第七隊か、イアン隊長さすがに勤勉だなあ。ね、あなたたちって本当になにしてるの」
「誰が!」
そこにまた闇からの矢が飛来した。射手は信じがたい失態の連続でもはや後先考えずに射かけたのだろう。だが、葵が軽く手を振っただけでまたしてもその矢は勢いを失い地面に転がった。
「無駄なのに」
女の目があまりにも妖しく光った気がして今度こそ男は言葉を失った。
この女には弓が効かない!
迷信的な恐怖が襲い、男たちは思わず身を翻そうとした。倒された仲間を気にかけるどころではない、この場にとどまればただでは済まないと確信したのだ。
黒衣の二人は人間ではない!
一旦崩れるともう闘志を立て直すことはできなかった。先ほどまでの強気が嘘のように背を向けて逃走にかかる。
わずかにでもためらえば背後から魔物が襲ってくるという恐怖で足元がもつれそうになっていた。悲鳴をあげなかっただけ上出来だったかもしれない。
恭一は一歩を踏み出しかけたが、そこで葵の「待って!」という緊迫した声に踏みとどまった。
同時に暗闇の奥からオレンジ色の光が一直線に伸びてきた。しかも三本同時にだ。
「む?」
ビーム状の光は矢を凌ぐ高速で飛来したが、恭一の前でなにかにぶつかったように明るくはじけて散った。それまで不可視であった葵の「盾」が一瞬だけ金色の輝きを放って消えた。
「なんだ? 火矢には見えなかったが」
「魔法かも。魔法陣らしい光は見えなかったけど」
「連中の奥の手か。その割にこのタイミングでは出し遅れだろう」
「逃亡の時間稼ぎのつもりだったのかも。どうする? もう危険な気配はないけど」
恭一は男たちが逃げ散った左右の茂みをちらと見やってあっさり「帰るか」と言った。その気で追えばまだ一人か二人は捕らえられたかもしれないが、彼にも葵にもそこまで徹底するつもりはなかった。
昼間、葵が告げた予感の顛末を確かめたかっただけなので、深追いは要らないと判断したのだ。ブガの店を出た直後、危険度Cくらいかな、と葵は告げたのである。
「このままということはなかろうが」
「その時はその時で。今夜はもうなにも起きないよ」
「三日目でこれだとするとやはり都市部ほどの治安は望めんかな」
恭一は苦笑気味だが、葵はあっけらかんと無責任なことを言った。
「黒騎士が目立つから後ろ暗いところのある連中は落ち着いていられないんだよ」
周囲に倒れ伏した男たちは重傷だったが二人はそのまま放置して宿へ向かった。葵の治癒魔法なら数分で回復するだろうが、そこまでお人好しになる気はない。どうせ彼らの仲間がそろりと様子を見に戻るだろう。
「さ、お風呂だお風呂だ」
***
宿に戻ると主人は「お早いお帰りで」と笑顔で迎えてくれたが、どことなく所在無さげだった。
「あら、ずっと店番ですか?」
そう葵が問うと頭をかきながら「若いのが帰ってこないんですよ」とぼやいた。
「ちょっと出てくると言って。いつもは交代の時間にはきちんと顔を出すんですけどねえ、どこで引っかかってるんだか」
なるほど、と葵も恭一もその理由を察したが、むろんとぼけて「お疲れ様です」と自室に戻った。主人には気の毒だが今夜は寝ずの番になるかもしれない。
「連中の仲間は主人ではなく使用人のほうだったか」
「あの様子だとご主人は無関係ね。それらしいものは響いてこないし」
「この分だと意外とあちこちに根を張っているようだな」
「乱暴だけどマフィアみたいな犯罪組織には見えなかったけど」
それは恭一も感じていた。そうした連中なら最初から問答無用で襲いかかってきただろう。そして今頃は全滅して山道に転がっていたはずだ。あれでも恭一は手加減したのである。
だが、さっきの連中は曲がりなりにも話をする余地があった。なんらかの表沙汰にはできない事情を抱え、密偵の潜入に神経を尖らせていたが、抹殺より拉致を優先している様子だった。
「やはりもう一度話を聞いてみたいところだな」
「仕掛けてくるのを待つ?」
「そうだな、こちらはこのまま旅を続けよう。のんびりセリアに向かっていれば連中も密偵の接近を見逃すわけにはいくまい。嫌でも接触はあるさ」
ブガのあの店だったら覗けると思うけど、と葵は言ったが恭一は「今はいい」と首を振った。まだ事態はそれほど切迫しているわけではないと判断したようだ。
「葵に反則を使わせるほどの相手じゃない」
「わかった。じゃああたしはお風呂」
にっと笑って葵は立ち上がる。その日はそれで終わった。
***
翌朝——。
早めに食事を済ませた二人は瞼の重そうな主人に送り出されて宿を引き払った。
昨夜歩いた道をゆっくり馬で進む。山道のほうへ入ると木々の葉が涼しい風にざわざわと鳴っていた。
山といってもせいぜい湖面から百メートル足らずだ。葵たちの感覚では全世代向け散歩コースといったところだが、思ったとおり山に入るという趣味はこちらの人々にはないようだ。湖畔には既に多くの散策する人の姿があるのに、こちらは無人である。
男たちが倒れていた場所には予想どおりその影もなかった。
「夜中にご苦労なことだな」
「気の毒だけどしばらく身動き取れないから、あの八人の中に宿の使用人が混じってたら代わりのバイト探さなくちゃね」
「ホテルマンと秘密結社、どっちが副業なんだか」
「ブガのお店、やってるかな」
「今日は臨時休業が順当だろう」
そんなことを言いながら登っているうちに道は少しずつ細くなり、外周をふた回りしたところで頂上に出た。多少潅木が茂っているだけの空き地といった風情だが、期待したとおり眺めはよかった。
「せっかく道を作ったんなら朝の散策でもすれば気持ちいいのに」
「俺ならここに宿泊用のロッジでも建てて客を呼ぶがな」
「ここから見る湖があんなにきれいなんだし、もったいない」
わずか百メートル足らずの低山でも眺望を邪魔するものが皆無なのでファーラムに来てから初めて見る風景が広がっていた。遥か西に望むユグノールは向こうの富士山とはまた違った趣であり、南アルプスに相当するのか峰々の連なりも遠望できる。
二人は馬を降り、そのまましばらく遠方の景色を眺めていたが、そこで葵が唐突に恭一の袖を引いた。
「ねえ」
「ん?」
「この世界には飛行機ないんだよね?」
「ハンググライダーらしきものもないと聞いたな」
「じゃあ、あれってなんだろ」
あれ、と言って葵は空の一点を指差したのだが、そちらに目をやった恭一はこの若者らしくもなく呆然とした顔で瞬きをくりかえすことになった。
「……まさか」
そうつぶやいた恭一が見つめる青空の高みを、一本の白い筋が伸びていくのである。
「飛行機雲、に見えるんだけど」
「……俺にもそう見える。どういうことだ」
「ジェット機ってことはないよね?」
「プロペラ機でもドッグファイトのような急な機動では翼の先が雲を引くことがあるらしいが、どっちにしろここには存在しない」
そのはずなんだが、と恭一も首を傾げていた。
高城エレクトロニクスは航空機の電装品も手がけているので彼にも多少の知識はあるのだが、そもそも飛行雲は自然現象ではない。航空機の存在しないこの世界で発生するはずがないのだ。
「わからん、どういう理屈だ」
「鳥ってことは?」
「聞いたことがない。隼は瞬間的には時速四百キロ近く出せるそうだが、その速度であの高さを水平飛行は無理だろう」
飛行雲はかなりの速度で南へ伸びていき、やがて先端が彼方の雲に紛れてそれ以上、目で追うことはできなかった。その間、わずか十秒ほどの出来事である。その正体はわからずじまいだったが、結局、恭一は肩をすくめてこうもらしただけだった。
「さすが魔法の国だな、この分だと本物のドラゴンが飛んでたりするんじゃないか」
「それはそれで見てみたいけど。こっちにも竜の概念はあるみたいだし」
「俺は正直、遠慮したい。これでも常識人なんでな」
恭一は嘆息し、その台詞はガーラさんと同じだと言われて苦笑いしていた。
「今度見たら遠見の術で追いかけてみるよ」
南の空を見ながら葵はそう言って馬の背に上がった。
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