第55話 旅立ち その4
(承前)
「葵、そろそろか」
恭一がそう声をかけたのはそれからほどなくしてのことである。
ん、と顔を上げた葵は宙に視線を向け、一拍の後に「そうだね」とうなずいた。
「だいぶ近くなってる。頃合じゃないかな」
「よし、出るか」
立ち上がった二人は身支度を整え、恭一は剣を背中に、葵は例の本をしまった鞄を背負った。他の荷物は部屋に置いたままともに黒のマントを羽織る。
「どっちに向かう?」
「そうね、あまり
「では夜の散歩といこうか」
一階に降りて宿の主人に「少し歩いてくる」と告げるとにこやかに「行ってらっしゃいませ」と実に愛想がいい。
「ここって門限とかあります?」
「いえいえ、常に誰かが控えておりますのでお気になさらずに」
「じゃ、行ってきますね」
隅のテーブルでは同宿の客らしい男が二人、酒を飲んでいた。相手をしている女はどうやらこの宿をそういう仕事の場所にしているようで、葵たちにちらと飛ばしてきた視線は商売になるか値踏みしている目であったが、すぐに興味を失ったらしい。葵は若すぎ、恭一は硬すぎると判断したようだ。
外へ出ると夜風が心地よかった。
通りを町の中央に向かって歩き出す。さほど大きなものではないが、宿屋、商店、酒場、食堂などが並んでささやかな目抜き通りとなっている。道ゆく人も多いが、これは町の住人というより観光客の部類だろうか。印象としては地方の温泉街を連想させる。遊びに来ている人々なので黒のマントを羽織った二人は奇異に見えるのか、すれ違う人が一様に視線を向けてくる。
「まあ、観光客の身なりじゃないもんね」
葵は屈託なく笑い、通りをしばらく歩いたところで三叉路にぶつかった。分岐した道は片方が湖畔へ、もう片方が例の小山へ続く道らしい。
「やっぱりこっちは人通り少ないね」
「森を散策する趣味はあっても山に登るという発想はないのかもな」
「これでも昼間だったら眺めいいと思うんだけど」
などと話しているうちに道は少し登りになり、人通りはすっかり絶えてしまった。ろくな街灯もないのではあえて夜の山道に入り込む物好きもいないというわけだ。
周囲は黒い木の影に包まれ、二人の「明日登ってみるか」「いいね、それ」といった声だけが聞こえてくる。彼らも好んでこのような寂しいところを歩いているわけではない。葵がふと足を止めたところでそれは始まった。
木々の間に人の気配が動いたのである。
一人や二人ではない、十を超える影が左右の茂みの間から現れ、二人の前後を取り囲んだのだ。それぞれが剣を下げ、黒や深緑の目立たない服で夜の暗さに紛れている。月明かりに浮かんだその顔はいずれも覆面で覆われていた。当然、尋常な遭遇ではありえない。しばらく両者沈黙のあと、恭一が口を開いた。
「こんな観光地に盗賊や山賊の類が出るとは思えんが、俺たちになにか用か」
なんの動揺も感じさせないその声に中央の男がぴくりと反応した。虚勢を張っているとしても大胆な台詞に驚いたのだ。男たちの数は十二、
「だんまりか、ならば失せろ」
恭一はおもむろに葵の肩を抱いて引き寄せ「無粋だ」と言い捨てた。
男たちの気配がざわりと揺れた。周囲の状況がわからないはずもないのに傲慢といってもよいほどの尊大さである。正面の男が一歩前に出た。覆面のせいでくぐもった声がもれた。
「訊きたいことがある。おとなしく我々と来てもらおう」
「ほう、用件は?」
「来ればわかる」
「こちらは覆面男の集団などに用はない。どうしてもというならここで話せ、ただし手短にな」
恭一の態度は冷ややかで、その声には温かみのかけらもない。さすがに男たちの間にむらっと怒気がわいた。
「強がっても無駄だ、多少腕に覚えがあろうともこの数を相手にはできぬ」
「さて、それはどうかな。俺もおまえたちの正体に興味が出てきた。改めて問おう、何者だ」
「本音が出たか、女連れで我らの目をごまかそうとしたようだが密偵らしい浅知恵だ」
「密偵? なんのことだ」
そのとたん、風を切って飛来した矢が恭一の足元に突き立った。その意味は明白だ。
「ぬしらが中央からの密偵だということはわかっている。探りにきたのは我らか、それとも……」
そこで二本目の矢が突き立った。先ほどより近い。
「警告はした、次は当てる。女が先だ」
男はあくまで落ち着きを崩さず恭一の嘲弄にも乗らなかったが、どうあってもつきあってもらうという断固とした意志を見せた。周囲の男たちもじりじりと殺気をみなぎらせつつある。
だが、恭一の態度はこゆるぎもせず、なにごとか葵にささやいただけだった。
「では当ててもらおうか」
初めて覆面の男の目に苛立ちが見えた。恭一のしたたかさに今度こそ怒りを覚えたのだ。彼らが中央の密偵と断じた男は連れの女を犠牲にすることを厭わないと言っているのだ。しぶといとも冷酷とも思ったに違いない。
「なるほど、密偵とは非情なものだな」
やむをえん、という声とともに男は軽く手を挙げ、三本目の矢が飛来した。
だが、その矢が葵を貫くことはなかった。
それどころか彼女の手前で勢いをなくし、力なく地面に落ちたのである。男たちの中から「ちっ」と短い舌打ちが聞こえた。射手がしくじったと思ったのだ。恭一に対していた男が苛立たしげに再度手を振った。だが——。
立て続けに二本の矢が飛来したにもかかわらず、どちらも二人を大きく逸れ、地面に突き立つ威力さえなく足元に転がった。
「どうした、当てるんじゃなかったのか」
射手のありえない失態に男は面目を潰され、さすがに声を荒らげた。
「なにをしている! ちゃんと狙わんか!」
ここへきてもまだ夜陰でしくじったと思っているのだ。月明かりだけでは距離感を正確に掴むのが難しいのは確かだが、この無様さは失笑ものだった。一瞬、男は対応を迷ったが、その時、恭一がゆっくりと背にしていた剣を掴んだ。夜の闇のように黒い剣である。
男たちがはじかれたように一歩を退き、全員が剣を抜いた。明瞭な殺気が膨れ上がる。
「あくまで抵抗するか、ならば是非もない。多少の痛みは覚悟してもらおうか。口が利ければそれでよし」
そう言って男は一歩退き、無言で周囲の男たちに動けと命じた。十二|対一だ、いくら腕の立つ騎士でもこれでは多勢に無勢、逃れようはない。見捨てるはずの女を一応はかばうそぶりを見せているが、この非情な黒い騎士はいざとなったら女を盾にする気かもしれない。
「ぬかるな、無駄に手傷を追う必要はない。相手は木剣だ、叩き折って取り押さえろ」
三人が飛び込んだ。一人が剣をへし折り、あとの二人で相手の肩や腕を軽く削ってやれば片がつく。
ところが、その三人はなぜか剣を振ることもなくそのままつんのめるように地面に突っ伏してしまった。声もなく手足がひくひくと痙攣している。意識を喪失していることは明白であった。
「!」
男たちは呆気にとられ、思いもよらぬ光景に殺気を忘れた。剣で打ち合ったのならまだしも、双方とも剣を交えてさえいないのだ。
この不条理な光景に男たちは戸惑い、呆然としていた。頭目と思しき男がさすがにいち早く我に返ったが、その目は一段と険しさを増していた。
「侮るな、行け!」
そう叱咤するとまた三人が斬りかかっていった。
今度は無音ではなかった。かすかな打突の音と男たちが一瞬あげる苦悶の呻きが聞こえたのだ。そして同じ結果になった。三人ともその場にくたくたと崩れ落ち、完全に昏倒していた。ぴくりとも動かず全員が白眼をむき、口元から泡がこぼれ出ている。意識も戦闘力も瞬時にして刈り取られてしまったのだ。
全員が総毛立った。
自分たちがこの黒い騎士の実力を完全に見誤っていたことに気がついたのである。
「こ、こいつ」
「ばかな、ありえん」
「ひるむな、全員でかかれ!」
そこに至って再び矢が射かけられたが、何本飛んでこようが同じだった。はがゆいほど無力であり、黒い騎士の足元に弱々しく落下する。子供の玩具にも及ばない。騎士がその剣で払い落とす必要さえなかった。
もはや男たちの余裕は失せ、生け捕りにするはずだったことも忘れて黒衣の二人連れを囲んでいた。まだ数の有利はある。なのに男たちはもうそれを信じることができなかった。
今また同時に斬りかかった二人が瞬殺された。一人は血ヘドを吐いてのたうちまわり、もう一人は喉元を突かれて数メートルも後方に吹き飛び、立木に激突した。生きてはいるだろうが当分は人事不省だ。
疑う余地はなかった。この黒い騎士は化け物だ。
「今一度問う。おまえたちは何者だ」
恭一の声には一切激したところがない。それがかえって不気味だった。
黒衣の騎士は月下に降り立った夜の魔物であり、その目にはなんの表情も浮かんでいない。あるのは近づく者すべてを葬らんとする冷徹な意志だけだ。
恐怖が闘志を上回り、剣を構えていながら全員が及び腰だった。十二対一のはずがあっというまに四対一になり、しかも伏兵だった弓はなぜかまるで役立たずときている。追い詰められているのは男たちのほうなのだ。
ぎりぎりと場の緊張が高まり、もはや彼らには玉砕か逃走の選択しかないと思われたその時、それまで黒い騎士の背にひそむように沈黙していた少女の声が割って入った。
「ねえ、おじさん、お店のほうは大丈夫なの?」
葵は一歩前に出ると恭一の隣に並んだ。
「ここで怪我するとまずいんじゃない? せっかく繁盛してるブガのお店が明日から当分休業になっちゃうよ」
暴力の現場には全くそぐわないのんびりした声だった。男たちは呆気にとられ、一瞬、思考停止に陥った。なにを言われたか理解できなかったのだ。だが先ほどから恭一に対していた頭目らしい男は愕然としていた。覆面の上からでも彼が絶句している様子がわかるほどだ。
「最初からあたしたちに目をつけてたでしょ。それですぐに仲間たちと馬を飛ばして追いかけてきた。そっか、他に近道があるんだ。隣の二人はさっき宿屋でお酒飲むふりしてたね、すると宿の主人もお仲間なのかな? そうは見えなかったけど。まあ、食事が美味しいってのは嘘じゃなかったね」
「な、なにを……」
「あたしたちは本当にただの旅人だよ、でもあなたが変な気を起こすから聞いてみたくなったの。あなた今、急いで仲間たちに連絡を取らねばって考えたよね、ふうん、組織があるんだ。でもあなたが首領ってわけじゃない、ああ、あちこちに分隊があるんだ。本拠は……セリアか。どういう集まりなの? 政治色はなさそうだけど盗賊が本業とは思えないし、密輸でもやってる?」
男の目が真円に見開かれた。信じられないという思いで余裕の最後の一片が吹き飛んでいた。彼は自分が大きな過誤を犯していたことに気づいたのだ。眼前の黒い騎士は密偵などではなかった。なぜなら——。
「そうか、そうだったのか……」
「うん?」
「迂闊だった。まさか真の密偵は女のほうであったとは!」
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