第54話 旅立ち その3


(承前)



 店で聞いたより少し早く、陽が西に傾く前にきれいな湖が見えてきた。


 リンクネス湖に比べると一回り小さいが、周囲の緑によくなじんだなかなかの景観である。その岸辺に広がるのがどうやらトールセンの町らしい。街道からは外れているのにブガよりよほど大きく遠目にも活気が感じられる。


「観光地ってことかな?」


 葵が言うと恭一もあたりを見回して「確かに景気はよさそうだな。湖畔の人影は観光客だとすると案外『あれ』のせいかもな」


 恭一があれ、と称したのは町の背後に見える小山のことである。平坦なファーラム内地では珍しくここにはそれらしい起伏があるのだ。ただし、山というには低く、丘というには高いという程度の代物だが、湖と森と山とそろえばこれは確かにこの国では珍しい眺めだ。観光に訪れる人がいても不思議ではない。


「小舟を浮かべて遊んでる人がいるね。でもこのへんって向こうじゃ埼玉の北部だよね、こんな湖あったっけ?」


「地理がどこまで同じかわからんからな。葵、富士山を見てみろ」


 恭一はなにやら意味ありげな目で葵を促した。向こうの富士山に相当する山はこちらではユグノールという国境の高峰だ。それはよく承知していたはずだが彼方に目をやった葵は「あれ?」という顔になった。


「変ね、なんかここからだと違って見えるような。なんで?」


「俺もさっき気がついたんだが俺たちの知ってる富士山があの形になったのは三百年くらい前の大きな噴火の後だ。つまりこっちの地球がおおよそ向こうと同じだとしても何万年というスケールになると地殻変動や火山活動まで正確に同じとは限らんだろう。富士に相当する山は存在するが、あれはあくまでユグノールだということだ」


「大まかには似てるけどそれ以上ではないってことね」


 葵はそれで納得したようだが、そこでなにか思い当たることがあったのか「あ、それじゃもしかして」とつぶやいた。


「ねえ恭一、だとすると以前見た日本地図や世界地図、測量精度が低くて古地図みたいと思ったけどこっちじゃ案外あれで正しいのかも」


「なるほど、百万年とか一千万年の単位となるとそこまで違ってくるわけか」


 航空機も衛星もないこの世界ではあの地図が精一杯と思っていたが、それは大きな間違いだったのかもしれない。最新テクノロジーはなくともこちらには——。


「魔法か」


「うん、その可能性はあると思う。あの遠隔地をのぞき見る術があれば、そう、もし何百キロも先が見通せたら」


 魔法にそこまで超人的な技が可能かどうか、正直、恭一にはなんとも言えない。だが、この世界の魔法文化は人々が知る以上に奥深いことを彼も感じていた。古い魔法からはなにが飛び出してきても不思議ではないのだ。


 恭一はしばらく思案顔だったが、やがて「よし」とうなずいた。


「わかった、今後はこちらの地図の精度は高いという前提でいこう。向こうの地理はあくまで参考にとどめるか」


 葵も恭一もこれまでは無意識に頭の中で向こうの地図と照らし合わせるのが習慣になっていた。だが、そうした翻訳作業はあまり意味がないのだ。ここは日本列島ではなくペンドール列島、そしてこの地も関東地方ではなく、あくまで列島中央に位置するファーラムという土地なのだ。


「帰ったら改めて列島の地図は見直さないとね」


「そうだな、俺たちはどうしても東京を中心に考えてしまう。とりあえず今後はオルコットを世界の中心に置くとしよう」


「いつか列島の外にも行けるかな。大きな国がいくつもあるそうだけど」


「案外そう遠くない時期にそうなるかもな。どうも葵が言うと明日にも実現しそうな気になる。まあ向こうに帰れるまではいろいろやってみるさ」


「高城エレクトロニクスの異世界戦略ってことで」


 二人の朗らかな笑い声が湖畔に流れた。


「さて、それじゃあ『金の枝』とやらを探して今夜に備えましょうか」


 二人は湖の景観を眺めながらゆっくりと馬を進めていった。


     ***


 ファーラムは平坦な国土が幸いして街道の整備は進んでいるが、それでも重機やトラックがあるわけではないので力まかせに森や丘を突っ切ってハイウェイを通すような真似はできない。道は曲がりくねって移動には直線距離の何倍もの行程を要する。


 このトールセンにしても直線なら首都オルコットからせいぜい数十キロといったところだ。それでいて葵たちがここまで三日を要しているのはそうした道路事情がひとつ、そしてあてのない旅で行先は彼女の勘まかせという理由からである。


 恭一の目的も地方の様子をじっくり見てみたいというものだったので寄り道はかえって彼の希望に合致する。現にまだ三日目だというのに首都では見えなかったものが少しずつ見えてきている。都市インフラに近い環境を持つ首都とは違う一面が地方にはあるのだ。


 王宮や近衛隊といった圧倒的な重しがない分、のどかで洗練からはいささか遠いが、想像していたような貧困は目立たない。街道の整備のおかげか経済はそれなりに回っているようで、ブガのような町が廃村に落ちぶれずに済んでいるのもその証拠だろう。


 食堂の主人に勧められた「金の枝」という宿屋は町の中心より少し奥まったところに見つかった。裏手に厩舎があり、使用人に馬を託してすぐに部屋をとった。宿の主人は中年の愛想のいい男で二人の風体にことさら驚くこともなく「相部屋でよろしいですか」と、世慣れた笑顔である。


 旅に出てからはずっと同じ部屋なので「かまいません、できれば少し広めの部屋があるといいんだけど」と答えて二階の奥の部屋を借りた。


     ***


 こんな地方の宿でもさほど貧相に感じないのはやはり魔法の普及によるところが大きいだろう。


 なにしろ光熱費に金をかける必要がない。明るい照明も雰囲気のあるランプも自在だし、風呂はほんの数分でわく。厨房は煮炊きの火も使い放題だ。そうした設備は初期導入時以外はほぼコストがゼロとくれば客商売にとってはありがたい環境である。


「極端な話、水と食材があればあとは生活費最小限で済むんだよね」


「なにを必要とするか、で文明の形は決まってくるという見本のような世界だな」


 宿の主人の話によると観光地らしく食事を出す店は酒場も含めてあちこちにあるらしいのだが、葵たちは一階の隅にあるテーブルでここの食事をとることにした。


「昼間ブガに寄った時、ここは食事も美味しいって勧められたから」


「おう、そいつはうれしい評判ですな、うちの料理人はいい腕してますから。まあ、遅くまでやってる店もありますからあとで歩いてみられるといいですよ」


 出された料理は確かになかなかの味だった。こちらではコース料理の類は少ないのでスープ以外はワンプレートが基本だが、分厚いステーキの焼き加減が絶妙で、少し甘みのあるつけ合わせの野菜とよく合っていた。驚いたことにオルコットでは見なかった「米」が出たので二人ともちょっと目をみはった。


「わ、ご飯がある」


「久しぶりに見ると新鮮だな」


 今ではこちらにもタムタムというほぼ同じ植物があるらしいことはわかっていたが、なぜかこの国ではマイナーな存在らしく、黒鳥亭でも使われていなかった。


「美味しいのにねー、みんな知らないのかな」


「きっかけ次第だろうがな、カレーでもあればブレイクするんじゃないか」


「カレーかぁ、レシピどうなってたかな。お母さんはたまに一から作ってたけど、あたしは市販のルウばかり使ってたから似たような香辛料を探すところから始めないと」


 まあ、帰ったらトライしてみるよと言うと恭一も「期待しよう」と笑った。


 食事に満足して部屋に戻ると入浴は後回しにして恭一は長椅子に沈み込み、ベッドに腰掛けた葵の「日課」を眺める姿勢になった。まだ三日目だがこれが毎日続いている。


 葵はココ先生から借りた例の書物を取り出し、とあるページを開いて注目している。口元に浮かぶ言葉は恭一にはさっぱりわからないが次第に彼女の集中が増して目の光がきらめき出す。それがとても神秘的で美しく、恭一はこの瞬間が好きだった。


 やがて葵が軽く広げた両手の間に小規模な魔法陣が輝き出す。


 彼女は今、ある術の習得に熱心に取り組んでおり、魔法陣の輝きは日毎に鮮やかなものになっていた。そして——。


 じっと葵の手元に目をやっていた恭一が「む?」と身を乗り出した。


 魔法陣の上の空間がゆらりと揺れ、蜃気楼のような淡い幻が浮かび上がったのである。それは見る間に形をとり始め、サッカーボールほどの大きさにまとまると光と陰が入り混じり鮮明な形象が作り出されていく。


「……見えてきた」


 葵がつぶやく。声に抑揚が欠けているのは意識の集中のためだろうか。恭一はその集中を邪魔しないようそっと葵の傍らに移動した。魔法陣の上には夕方通った湖のほとりの夜景が浮かんでいた。彼女の視点が反映されているのか「カメラ」がゆっくりパンしたりズームになったりするさまが恭一にもはっきりわかる。


「だんだんわかってきたよ、この『飛ぶ』感じが昨日までは難しかったんだけど、いったんイメージが掴めるとあとは割と楽」


「話しかけてもいいか」


「大丈夫、要領がわかるとそれほど力んで集中する必要はないみたい」


「葵自身にはどう見えてるんだ? この映像のとおりか?」


「少し違う。もうちょっと俯瞰に近くてそこから『ここ』とポイントを意識すると目の前の幻影に反映される、みたいな感じかな」


「たいしたものだな、どのくらい先まで見えるんだ?」


「漠然と視界を伸ばしても今のところ裏山の向こうくらいかな、でもはっきりとイメージできる場所なら」


 すると魔法陣の上の幻影がゆらりと揺れ、夜を背景にしたキサラギ館のシルエットが浮かんだ。窓に灯る明かりも恭一のよく知る光景そのものである。さらに視点が移動すると厨房の後片付けをしているリオやジェシカの姿が映し出された。しかも——。


 驚いたことに彼らの談笑する声までが聞こえるのである。


「アオイさまたち、今頃どのあたりかしら」


「のんびり寄り道しながら行くとおっしゃってたからな、まだブンデスの片田舎ってとこじゃねえかな」


「ヴァルナさんの話じゃルシアナさまはもう退屈そうにしてらっしゃるって」


「一番の遊び相手がひと月かふた月も帰ってこないとなると無理ねえな」


 二人がやれやれとため息をもらしたところでふっと視点が揺れ、そこで魔法陣も浮かんでいた映像も薄れて消えた。


「まあ、プライバシーの侵害は控えなくちゃね」


 葵は笑ったが、恭一は驚きでしばらく絶句していた。この術のことは彼女から聞いていたが予想をはるかに超えた代物だった。文字どおり「魔法」としか言いようがない。大きく息をもらすと「とんでもねえな……」と呆れ顔だ。


「まさかこれほどとは。人間の世界でこんな術が使えたら反則もいいところだ。正直、あの時の閃光や爆音より驚いたぞ」


「あたしとしてはクーリアにもこれ覚えてほしいの。そうしたら離れていても双方向で連絡つくはずだから。音を鳴らすとか着信の合図を組み込めたらいいんだけど」


 なるほど、と恭一は納得した。葵がこの術に熱心に取り組んでいたのはむしろそちらの可能性を探るためだったのだ。魔法による映像通信。使えるのが葵とクーリアの間に限られているとしても実現すれば大きな可能性が生まれる。通信手段が未発達なこの世界では圧倒的なアドバンテージになりうるのだ。


 そこから一時間ほど葵はこの術の習熟に務めていた。最初は映像が浮かび上がるまで数分の集中を要したが、コツが掴めてきたらしく次第に魔法陣の発動まで短時間で移行できるようになった。


「あたしの印象なんだけど」


「ん?」


「この術、どうもあの時の監視カメラとは微妙に違うみたい」


「というと?」


「ルフトの流れにあの時みたいな嫌な歪みが発生しない。正直あれを自分がやるのは邪道かなって思ってたんだけど、もしかすると別系統の技なのかも」


 鳥の目を意識せよ、風とともに舞って天に至れ。


 想像力イマジネーションは魔法の基本であり、イメージをどうとらえ、どう構築するかが発動のカギになる。葵が手にした古書の記述もそれを具体的に伝えるために一見詩編のようなレトリックで埋め尽くされていた。


 鳥の目となって飛翔する。それは清々しいイメージであり、決して不吉な視線を暗示するものではない。葵の中にわずかにあった「よこしまな術かもしれない」という危惧を感じないのである。呪術をベースにした敵の魔法はこことは違うところで発達したものかもしれない。


 今はそれが葵の実感であった。

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