第53話 旅立ち その2


(承前)



「王女の手にあるという短剣のことじゃが」


「なにか知ってるの?」


「いや、ただ前にも言うたように古文書から得体の知れぬ口伝まで漁った中には様々な神話伝承の類も多くてな、おぬしは人類発祥の地について知っておるか?」


「アフリカ……ええとこっちじゃ南大陸って言うんだっけ」


「さよう、そしてそこは魔法発祥の地とも言われておる。確たる証拠があるわけではないが、あの地はいまだに多くの魔法や呪術の使い手を生み出していると聞く。それだけの伝統があるのだろうな。彼らの漠とした伝承の中に魔法を断つ秘宝の話があるという」


「ほんと?」


「あてにならぬ口伝だが、確か名を『エリ・エリ』といったか」


「エリ・エリ……」


「遠いおとぎ話だ。誰が作ったか、どんな形をしたものか、そもそも実在しているかどうかさえ定かではない」


「覚えとく。名前だけでもなにかの手がかりになるかもしれないし」


「大陸の彼方の神話伝説にまで手を出すとはおぬしもたいがいじゃな」


 老博士はそう言って苦笑した。謎というならおぬしこそが謎であろうよ、そう言いたいのかもしれない。


 そこから話は葵たちの旅へと移り、老博士は壁の書棚から一冊の書物を取り出した。


「もうこの地の文字は読めるのであろう? ならば持っていくがいい」


「これは?」


「わが神殿の書庫で魔法について書かれたおそらくは最も古い文献じゃ。近年になって書架の奥から掘り出されたものだが、もはやわし以外に興味を示すような物好きはおらなんだ。今は滅んだとされる古い魔法について記されておる。残念ながらわしには試みる力がなかったが、おぬしにはよい示唆となろう」


 それはまさに葵が知りたいと欲していた知識であった。前回は老博士の無謀な実験をめぐる騒動のおかげでそれらしい話はできなかったが、元はといえばそれを知りたくて神殿に専門家を訪ねたのだ。


「うわあ、ありがとう! こういう資料について話を聞きたかったの」


「信頼性については保証できんぞ、わしには判断する才がないのでな」


 相当に古い書物らしく、図版も含めて全て手書きだ。辞書の助けがなければ難儀しそうだが、ぱらぱらとめくっているうちに葵の手が止まった。見慣れない魔法陣とともに以前図書館で見た目の形のアイコン、いや図像が目に留まったのである。


「遠見……」


「ほう、知っておるのか」


「図版だけは王立図書館で。でも実在しない言い伝えだと」


「今は、な。じゃが……」


 かつては存在した。現に敵はそれらしき術を使っていたのだ。


「こういう魔法陣だったのね。エレ・オプト・アーニマ・コルデ・アントワ・レベ・ニークト……我、鳥の目と風の足を以って駆け上り、天眼へと至らん……」


「ほっ、初見で顕現呪を読み解くか。うちの若い連中なら五年はかかるところだ」


「この術には興味があったの。実在するなら覚えたいと思ってた」


 これはよいものを預かったと感謝して葵は神殿をあとにしたのだった。一晩眠ればもう出発である。


 明日の今頃はどこでこの空を見上げているのだろう。


     ***


 ファーラムの国土は首都オルコットを囲む国王直轄区と七つの州に分かれている。地図上ではおおむね向こうの関東地方に重なっているが、富士山に相当するユグノール付近が西の国境なので関東をやや西に膨らませたような領土といえる。


 七つの州はオルコットを中心に西部は北からカフカ、ブンデス、ローリエ、ブージュの四州、東部は同じく北からルールー、ミント、カヌートの三州である。


 多少の起伏はあるものの、国境付近を除いて山らしい山はほとんど見当たらず、国土全体が丘陵や平原といってもいい。水資源が豊富で肥沃な土地が広がり、農業や牧畜は主要な産業となっている。またカプリア石の大きな鉱床がいくつか存在し、これも交易の重要な柱であるという。


 海に面した南と東の諸州は漁業や海上交易も盛んで、農業主体の北部のややおとなしい土地柄と比べると活気がある。総じてファーラムという国は大きな田舎であり、豊穣の神の名を戴くだけあって実り多い多産の国といえた。


 その七つの州のひとつ、ブンデス北部の片田舎にブガという町がある。


 人口は二千に満たない。森と農地と小高い丘にはさまれて家々と商店、役人とわずかな兵が詰める役場の出張所があるだけという町とは名ばかりの田舎である。州都セリアへ向かう街道沿いにあるので交易の荷が頻繁に通る。おかげで町は寂れることを免れているのだが活気があるというにはほど遠い。


 それでも時刻は昼どき、町に食堂は三軒あるが、一軒は酒場、もう一軒は宿屋と兼業なので専業は一軒だけ、となればその一軒はさすがに混んでいる。主人とその妻、二人の料理人と給仕の手伝いだろうか、若い娘が一人という構成できりきりと働いていた。


 この時間は客の回転が早いので目の回る忙しさだ。店内は客たちの喧騒でたいそう賑やかであり、ここだけは首都の繁盛店と変わらない。


 ところが、その騒々しさがぴたりと止んだ。


 店に入ってきた二人連れがなぜか異様に目を引いて全員の口と手が止まってしまったのである。


 一人は長身で立派な体格の若い男である。マントも含めて全身黒ずくめで木太刀らしい黒い剣を背負った姿は明らかに騎士のそれだ。


 そしてもう一人は若い娘である。こちらもややゆったりとした男装に黒いマントを羽織っており、黒髪ときらめく黒い瞳が印象的だった。


 テーブルについた二人の周囲にだけ光が当たったかのように皆の視線が集中する。


 給仕の娘が昼は牛と野菜の煮込みにパンだけしかないと言うと連れの娘はそれでいいとうなずき、運ばれてきたパンとシチューを黙々と食べていた。


 時折、娘が何事か口にすると男が短く答え、男がなにか問うと娘が軽い笑顔で答える。言葉は周囲の客たちと同じに聞こえるが、どうやら異国の言葉が混じっているようで、つい聞き耳を立てていた隣のテーブルの客にも今ひとつ彼らの話していることが判然としない。


 興味を引かれたのか水を注ぎ足しにきた給仕の娘がさりげなく聞いた。


「お客さんたち、見ない顔だね。旅のお人?」


 そう尋ねた娘はよく見るとまだ十二、三歳の少女である。癖のある茶色の髪、くりっとした灰色の瞳がよく光る。混んだ店内でもくるくるとよく動く働き者だ。


「そう、ちょっと南へ」


「もしかしてこのへんは初めて?」


「まあね、おかげであちこち寄り道ばかり」


「なんか似てるね、妹さん?」


「女房だよ」


「あら、ごめん。このへんじゃ騎士さんなんてめったに見かけないからどんな関係だろ、とかつい」


 そう言ってえへへと舌を出すと歳相応の幼さがのぞいて愛嬌があった。この店の看板娘といったところか、笑顔がかわいらしい。


 そこで近くのテーブルまで盆を運んできた店主の妻が「ミリー!」と娘を呼んだ。


「いつまでもくっちゃべってないで、ほら、注文つかえてるよ」


 ミリーと呼ばれた娘は「はーい」と慌てて離れていき、女は「すみませんねえ」と小さく会釈した。


「本当におしゃべりな子で、ご迷惑だったでしょう」


「かまいませんよ、失礼ですがお嬢さん?」


「いえいえ、近所から手伝いに来てる子で。お客さんたちもセリアへ?」


「急ぐ旅じゃないのでネイかウボウに寄ってみようかと。他に景色のきれいなとこあります? あ、さすがに野宿は遠慮したいのでちゃんと泊まれるところで」


 女は「そうだねえ」と首をひねったが隣のテーブルから男が「トールセンはどうだい? あそこの湖はきれいだしユグノールがよく見えるぜ」と声をかけたので「ああ」と手を叩いた。


「うん、トールセンなら馬でゆっくりいっても夕方までには着けるね。ここより大きな町だから宿屋もいいのがあるよ」


「道はどっち?」


「街道を少し南に行くと道しるべが立ってるからそこで東に折れてあとは道なり、でよかったはずだよ」


 娘は若者に「行ってみようか」と尋ね、相手が無言で頷くと女に「ありがとう、そうします」と笑顔を向けた。すると今度は店の主人が寄ってきてわざとらしい咳払いをするものだから女は「あらいけない」と先ほどの娘そっくりな仕草で店の奥へ戻っていった。


 店主はやれやれという顔だったが、黒ずくめの二人連れには「お客さんたち」とこちらも一言つけ加えた。


「もしトールセンに行きなさるんなら宿屋は『金の枝』をお勧めしますよ。安いし料理もうまい。うちほどじゃないけどね」


 客の娘はあははと笑い、ほどなくして連れの若者と店を出ていった。


 するとおかしなことに店内から一斉にため息がもれた。どうやら皆あの二人のことが気になっていたらしい。あちこちから苦笑の声が上がって客たちは先ほどの奇妙な客の噂で盛り上がった。


「なんだあ、ありゃあ。女連れの騎士だって?」


「なんか陰気な野郎だったな、上から下まで黒ずくめって」


「おおかた女の前で意気がってたんだろうよ。まあガタイはよかったが背負ってるのが木剣じゃな、カッコがつかねえぜ」


 どっと客たちが笑う。木剣など実戦ではなんの役にも立たない。本物の剣と打ち合えばあっさりへし折られておしまいだ。


「貧乏騎士ならあんなもんだろ、運よく女房ができたんで実家の親に報告の里帰りってな」


「まあ若いうちは苦労もあらあな」


 その冴えない一言が締めになって話は落ち、客たちはまた忙しく目の前の食事にとりかかった。すでに彼らの中から黒いマントの二人連れの記憶は急速に薄れつつある。


 ただ、店の主人だけがなにかものを考える顔で二人が出ていった扉を少しの間見つめていた。

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