第48話 白銀の女騎士 その6
(承前)
怪物は退けたがこの場をどう収めるかが問題だった。
三百人からの目撃者がいるのだ、人々に状況を理解させることは至難であろう。といって全員をこのまま帰したらどれほどの流言が飛び交うことになるか。
イアンたちは頭を抱えていたが、葵があっさり言い切った。
「ここはひとつ王女さまに演説してもらおう」
恭一を除く全員が目を見開き、ちょっと待てという顔になったが、意外にもクーリア本人がすぐにうなずいた。
「わかりました、民の不安を慰撫することも私の務めと考えます」
「そうそう、人心掌握は王家のたしなみ、まかせたよ」
ガーラが心底呆れたという顔で短く嘆息した。こいつにかかると深刻に悩んだこちらがばからしくなってくる。だがあの獣の牙を受け止められたのも、クーリアの危機を防ぐことができたのもこの娘のおかげなのだ。魔法士であり知恵者であり、気兼ねの要らない話し相手でもある。
ありがたい。今は本気でそう思える。この娘が黒騎士とともに現れてくれたことが心底ありがたい。
恐怖から解放された人々はまだざわついていたが、誰一人この場から出ていこうとしない。皆待っているのだ。誰かが許可を出してくれることを。
そこにクーリアが歩み出た。広間の中央に胸を張ってすっくと立っている。
もはや若年の姫君とは思えない風格である。この一見華奢な王女があの土壇場で奇怪な青い獣を打ち滅ぼしたのである。四大騎士級三人をもってしても仕留められなかったあの化け物を。
誰もが初めて目にするこの凛々しい騎士装束こそがこの少女の真の姿なのではないか。四大騎士とは違う、もう一人の英雄の姿を自分たちは目撃したのだ。
「皆さんに申し上げたい。今宵あなた方はこの場において様々なものを見、体験しました。間近にしたそれらはおそらく生涯初の体験であったかもしれません——」
「——この場をあとにした皆さんはそれらをどう伝えるのでしょう。四大騎士の活躍? 恐ろしい化け物との遭遇? それとも犠牲になった兵たちへの鎮魂でしょうか。むろんそれもいいでしょう。私は第一王女としてこの場の全員に緘口令を敷く権限も持ち合わせておりますが、あえて皆さんのご意思に任せます——」
ですが、とクーリアは続けた。
「——そこにひとつの真実が横たわっていることを忘れてはなりません。あれらもまたみなさんの、私たちの日常であるということを。平和な日々の裏にはあのような現実も常に、ひそやかに流れているのです——」
「——みなさんの穏やかな日々がなにをもって保たれているか考えたことがありますか? 父王が政を投げ出さないこと、私が王女の責任をないがしろにしないこと、騎士や兵たちが命懸けの戦いを放棄しないこと、それらを当然のことと思ってはいませんか?——」
「——私にはあのような化け物の前に立って剣を振るわねばならないいわれなど本当はないのですよ。王宮の奥で安穏と暮らしていても私を責める人はいません——」
「——ですがそれでも、私は次もあの化け物の前に立つでしょう——」
クーリアは昂然と顔を上げ、人々に明言した。誰もが固唾を呑んで少女の堂々たる宣言を聞いた。
「——なぜなら、私には、私たちには決して投げ捨てることのできない大切なものがあるからです。それは民を統べる者たちが負う責任と覚悟です。どれほど重くても魂に刻まれた道しるべとして私のゆく道を照らしています。父王も、私も、四大騎士も、同じ道を歩きながら民を導き、支えることを改めてここに誓約します——」
誰も王女のこのような声音を聞いたことはかつてなかった。穏やかな笑顔で優雅に振る舞う少女の内にこれほど大きな魂が秘められていることに驚愕していた。人々は、全貴族のさらにはるか上に君臨する王家の姫とはいかなるものか、初めて知ったのである。
「——今宵の出来事はみなさんにはおそらく一生に一度の経験でしょう。けれど民たちへの義務と責任を負った者たちは常にああして戦っているのです。みなさんも貴族であるならば決してこの事実を忘れてはなりません。人の上に立つということではみなさんも同じだからです——」
「——ですから今宵見聞きしたすべてのことは深く心に刻んでください。なにをどう語るかはみなさんの自由ですが、民の日常を支える者としての自覚をおろそかにすることのないように願います——」
しんと静まり返った人々は言い知れぬ感動に包まれていた。自国の第一王女が示した威厳に体が震えた。
これを聞いてしまってはもう滅多なことを口走るわけにはいかない。言葉のひとつでさえおろそかにはできないのだ。
誰からともなく拍手が湧くと、期せずして盛大な喝采の嵐となった。彼らが戴くこの国の第一王女はかくも誇らしく、かくも輝かしい存在なのだ。
クーリアを迎えた葵は「うんうん、立派だったよ」とその肩を抱き、リーンは涙を流していた。ガーラは感動のあまりその身を震わせ、常に自己を律することを忘れないダンテス伯爵も目を潤ませていた。
この夜、クーリアはまたひとつ階段を上った。後に「ラントメリーウェルの誓約」と呼ばれることになるクーリア姫の伝説のひとつがここに誕生したのだった。
ダンテス伯爵は高らかに夜会の終了を宣言し、あれほど奇怪な事件を体験しながら誰もが深い満足を胸に城をあとにしたのである。アル少年はウルマン家の馬車に便乗するということで一足先に帰宅させた。家族には質問責めに遭っているだろう。
ただ、あの三人の処遇については明確な証拠がなく、立ち去る後ろ姿をみすみす見送らねばならなかった。
イアンや葵には三人とも限りなく黒に近い人物だったが、今日の一件だけでも解明を待つ多くの事実が山積みだ。
「なに、今後は目をはなさんから」
イアンがそう言うからには彼らも極めて動きにくくなるはずだ。いずれ尻尾を掴んでやるさ——しばらくはイアンのその言葉に期待することになろう。
そして——。
とりあえずの後始末を済ませるとクーリアは「では」とダンテス伯爵の前に立った。そしてかしこまるシュトルム・ダンテス二世に向かってこう告げたのである。
「もうよろしいでしょう、私になにか話がおありのご様子。うかがいましょうか」
この不意打ちにさしもの伯爵も硬直し、ついで、がくりとその場に膝をついた。王女にはお見通しだったのだと悟ってしばらく頭が上げられなかった。
「実は……」
***
時刻はすでに夜半に近い。
幼い少女が眠る寝台の周りに立つのはダンテス夫妻とエレオン子爵、葵と恭一、クーリアとリーンである。少女は昏睡のように深く寝入っており、目覚める気配はない。
葵は大きく目を見開き、寝台の周りを一心に見つめている。寝台全体が葵が呼び寄せたルフトの光点で包まれていた。魔法陣ではない。細い光の糸を細かなメッシュ状に編んだような不思議な薄膜である。
伯爵の告白を聞いた葵は「心当たりがある」と言ってこの奇妙な光の薄膜を浮かべたのである。やがて——。
「見つけた、ここだね。見える?」
そう言って眠る少女の胸元、その数十センチほど上の空間を指差した。訊かれたクーリアもしばらく目を凝らしていたが、こちらも「見えました、ずいぶんおぼろげですね」とうなずいた。
「うん、これじゃなかなか気がつかないよ。小さな穴だし」
「初めて見ました。こちらでは知られていないやり方ですね」
「これじゃあ胸に穴が空いてるようなもんだからね、そりゃあ疲れるよ」
周囲の者たちには二人がなにを言っているかさっぱりわからないのだが、彼女たちにはルフトの薄膜に生じたわずかな歪みが見えていた。
葵は外野には構わず「じゃあ、やってみて」とクーリアに何事か促した。
そこで王女は腰の短剣を引き抜いてちらと葵に確認を求め、彼女がうなずくと先ほど確認した空間にさっと短剣を滑らせたのである。すると——。
眠る少女の胸の上に小さな火花が散った。
青白い糸くずのようなものが浮かんだかと思うと細かくちぎれて消滅した。と、同時に枕元に置かれていたウサギのぬいぐるみの腹がぱんとはじけ、詰め込まれた綿が飛び出した。
遠慮なく裂け目に指を突っ込んだ葵は「これかな」と小さな円盤を取り出した。表面の模様を見るまでもなくカプリアである。
「葵、そいつは?」
「これを媒介にして呪いを飛ばしてたんじゃないかな。この魔法陣らしい模様はたぶんカーストン事件や近衛隊襲撃の時に見つかったやつと同系統だと思う。図形のいくつかに見覚えあるよ」
「やはり西国の様式を思わせますね」
「これを使ってじわじわと呪ってたんだよ。カプリア式だから術者がほっといても自動的にね。もう大丈夫だと思うんだけど……あら」
たった今まで深く眠り込んでいた少女がぱっちりと目を開け、きょとんとした顔で葵を見ていたのである。
「あはは、起こしちゃった? ごめんね」
少女レニはそこで周囲の大人たちに気がついてますます不思議そうにしている。ダンテス夫妻はあえぐように娘の傍にかがみ込み、涙を流さんばかりに頬ずりすることになった。
「どうしたの、お父さま、お母さま、おじいさまも。えと、おはよう」
少女の顔色はすでに先ほどまでとは違う。血色の良い健康な女児のそれだ。ただしお気に入りのぬいぐるみの姿に気がついて「あー」と飛び起きた。
「うそ、ミーナちゃんが……」
「あ、大丈夫、ちょっと破けてたからおじいさまやお父さまが『レニに叱られる、どうしよう』ってなってね、今からすぐに直してもらうとこ」
「ミーナちゃん元気になる?」
「絶対よ、すぐお医者さま来るからね」
「……ほんと?」
そこで恭一が慌ててベリンダを呼びに走った。葵の目配せは「全速力!」と命じていたのである。
「あぁ、これなら。まかせてください」
ベリンダはぬいぐるみを見るなりその場で針と糸を取り出し、ちくちくと手を動かした。ルシアナのお手玉を作ったのも彼女である。役に立たない男たちが突っ立っているわずかな間に元の裂け目が全くわからない完璧な手術を完了させた。
はい、と手渡されたそれを胸に抱く少女の笑顔にはすでに病の痕跡などどこにも感じられない。
今夜はずっと付き添うというジーナにあとを託して、他の全員は応接間に通された。イアンやガーラもだ。王女が今夜はこの城に一泊することは決まっていたので朝まではレニの様子見といくつかの問題の対処で夜は更けていった。
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