第47話 白銀の女騎士 その5
(承前)
騒然となっていた広間が瞬時に静まり返った。
人々は見たのだ。青い光に包まれ、半ば透きとおった獣の姿を。毛皮をまとった生身の獣でないことは一目でわかる。両眼にあたる部分にはランプのような白い光が灯っており、小刻みにまたたいていた。
絶句した人々は言い知れぬ恐怖で体がすくんでいた。動いたとしても広間から脱出することはできなかったであろう。獣は扉の前に居座ったようにそこから動こうとしない。扉を塞がれた格好なのだ。
葵は昼間のヴィジョンで垣間見たとおり、青い獣に虎のイメージを重ねていた。半透明だが実体のない幻には見えない。だがその体は剣を透過する。この状況でどうすればこの化け物を退けられるだろう。
リーンはすでに剣を抜いていたが、クーリアの動揺はさほどでもなさそうであった。葵たちへの信頼、彼女自身の成長と覚悟が眼前の化け物から目を逸らすことをさせなかった。
葵たちはひそかにこういうものと戦っていたのだ、クーリアのために。つないだ葵の手が熱かった。
「アオイさま、あれは」
「正体不明、でもおそらく魔法か呪術の産物。だから剣では斬れないの」
「でもそれでは……」
「考えてる、なにか破る手立てはあるはずだから」
そう答える間も葵は「それ」を観察していた。幻影ではない、だが実体らしき存在感も希薄だ。ただし皆無ではない。なにかがそこにあるのは確かなのだ。
さらに目を凝らす。奇妙なのはルフトが流れ込んでいないことだ。あれが魔法で生み出されたものなら存在を維持するためにも周囲のルフトを必要とするはずである。なのにそうした様子が見えない。それどころか獣の体はルフトをはじいているようにさえ見える。
なぜ? どうして? そもそもこいつの体はどういう作りになってるの?
葵は全力で考えている。同時に男たちもこの状況に対して素早く対応しようとしていた。青い獣はなぜか扉の前から動こうとしない。だが人々が逃げようとすればどのように暴れだすか。それこそ最悪の事態であろう。
「さっきよりでかくなっていやがる」
ガーラのつぶやきにダンテス伯爵が短く質した。
「あれを知っているのか?」
「昼間やりあった。あいつは剣では斬れん、すり抜けちまうんだ。だがあいつの牙はこっちに届く。始末に負えん」
「馬鹿な、ありえん」
伯爵は短く否定したが、それは剣を頼みとする者すべてに共通する感情だった。
「事実だ。俺が命拾いしたのは運がよかったってだけだ」
人々はいつの間にか壁際に身を寄せ、冷や汗に震えていた。口元が小さく動いているのは祈りの言葉でも唱えているのだろう。突如現れた青い獣が不吉な化け物だということを誰もが悟っているのだ。
三人の騎士と葵、クーリア、リーンだけが青い獣と対峙する格好になっていた。獣の意図は不明だったが、怯える人々には関心を示さないようだ。むしろ目の前の六人以外には興味がないと言わんばかりである。
「つまり獲物は俺たちってことだな」
「冗談ではない、姫さまに近づけさせはせん」
意を決したように伯爵は一歩前に出た。
「待て、向こうは生身じゃないんだ、いくらあんたでも分が悪いぞ」
ガーラは止めたが伯爵も四大騎士の一人として剣には絶対の自信を持っている。剣が通用しないと言われても自分の目と手で確かめなければ承服できないのだ。
「試してみなければわからん」
短く言って獣に向かう伯爵をガーラはそれ以上引き止めることはしなかった。
「あいつの牙はまっすぐ首筋を狙ってくる。それだけは絶対に避けろよ」
答えずに進み出る伯爵に獣は初めて反応して両肩が盛り上がった。
間合いを確認するそぶりもきっかけも全くなかった。両者はいきなり激突した。獣は唸ることも吠えることもしないため伯爵の驚くべき足さばきと振るわれる剣が空を切る音だけが響く。
「速いな」
恭一が初めて目にした風のシュトルムの剣は文字どおりの瞬速だった。フットワークが完璧で最短最速で相手をとらえる。剣さばきにも無駄がない。腕だけではなく腰や足の動きと連動しているので剣の軌道を途中で変えるような荒技も可能にしている。並みの相手なら自分がどうやって斬られたのかさえわからないだろう。
並みの相手なら——。
「さすがだが……やはり苦しいな」
ガーラは厳しい顔でつぶやく。伯爵は驚異的な動きで獣の牙も爪も避けているが、やはりその剣は獣の体をすり抜けている。いくら足が自在でもこれではきりがない。彼の脚力にも限界はあるのだ。
それは戦っている伯爵自身が痛感していただろう。彼もガーラの言葉を疑っていたわけではない。だが戦ってみて初めて実感できることもあるのだ。
伯爵は大きく飛び退るとじりじりと間合いを広げた。獣から視線を逸らさずガーラたちに「手はないのか」と質したのは彼も限界を感じていたからだろう。
「ないこともない」
そう言って一歩前に出たのはガーラであった。
黒騎士よ、と振り返り「試してみないか」と誘ったその意図を恭一は即座に悟ったが、誰が「その役」をやるかが問題だった。
「受け止めるだけなら俺にもできる。切り込むのは足の速いお前たちにまかせる」
「いや、俺の剣には刃がない、受け止めるなら俺が適任だろう」
「ならその剣を貸せ。俺なら爪くらいには耐えられる。証明済みだ」
恭一は目をみはったが素直に剣を渡し、ガーラの剣を受け取った。
「軽いな」
「重いな、おまえこんなものを振り回してたのか」
「元々腕を鍛えるための稽古用だからな」
「これであの動きとは呆れたやつだな」
じゃあ借りるぜと言ってガーラは伯爵に並んだ。
「おまえたちなんの話をしている」
「伯爵、あの化け物は牙を突き立てる時だけこっちの剣も届くらしい」
「確かか?」
「保証はできんが試す価値はある。俺がなんとか受け止めるからそこを伯爵と黒騎士でやってくれ、機会は一度だけだ、さもないとこっちの身がもたん」
伯爵はなんておおざっぱなやつだという顔で呆れたが、互いに四大騎士だ。即座に受け入れてちらと恭一を見やった。恭一は無表情にうなずくと伯爵と同時に獣に襲いかかった。ともに尋常ではない足と剣さばきだがやはり獣の体をすり抜けてしまう。ただし獣の爪や牙も彼らには届かない。これほど速い獲物に出会ったことがないのかもしれない。
そこに三人目が立ちはだかった。
ガーラは他の二人とは裏腹に足を止め、恭一の黒い剣を無造作にぶら下げていた。
「よう、昼間は世話になったな、今度こそ決着をつけようぜ」
恭一と伯爵がやや距離を取り、ガーラはむんっとその気迫を獣にぶつけた。ガーラの殺気に反応したのだろう、獣は巨人の誘いにつられたようにその標的を変えた。ガーラは下段から斬り上げるような構えを見せ、獣は跳躍のためか姿勢を低くする。
一拍の間をおいてすべてが同時に起こった。
まっすぐに首筋を狙って跳躍した獣の牙とすり上げたガーラの剣が交錯し、この戦いで初めて物と物が激突する音が響いた。ガーラの両肩は浅く削られていたが、その剣は確かに獣の牙を受け止めていた。広げた両手で剣を持ち、相手の口を刀身で支えているのだ。刃のない恭一の剣だからこそ可能な受け方であった。
瞬時に飛び込んだ恭一と伯爵はためらうことなく剣を振るった。恭一の剣はやや浅く獣の脇腹を割いたが、伯爵の剣はその腹をほとんど両断するほど深く斬り裂いた。獣の体に青い光点が走り抜け、三者が同時に飛び退くと青い獣は音もなく転がった。胴体が半ばちぎれている。
「やったな」
「妙な手応えだったが」
伯爵とガーラはさすがにほっとした顔だったが、恭一はまだ不審な表情である。彼が「待て、まだ……」と言いかけた時、葵の鋭い声が響いた。
「気をつけて、まだ終わってない!」
なに、と身構えた時にはすでに遅く、青い獣のちぎれかけた下半身が瞬時に復元し、地を這うような姿勢のまま跳躍して男たちの間をすり抜けていた。
倒した、と気を抜いたわけではない。が、四大騎士の二人にしてわずかに対応が遅れた。恭一は半歩早く動いたがそれでも届かなかった。獣の正面にいるのはクーリア王女であり、その前を遮る邪魔者はもういない。ガーラにも伯爵にも、そして恭一にさえ追いすがる足がなかった。痛恨の思いが頭の隅を閃きすぎただけだ。
リーンがわずかに剣を動かしかけたのはむしろあっぱれと言えたかもしれない。体はついてこなくともその目はとらえていたはずである。ほぼ正面から飛ぶようん突進してくる青い獣の姿を。
姫さま、とその心が叫んでいた。
獣の白い目(目? 目でしょうね、あれは)がやけにゆっくりと迫ってくる。あぁ、私の剣と足がもう少し速かったら……。
その時、目の前で光がはじけた。バチバチとなにかが爆ぜるような音が響き、リーンの感覚は瞬時に元に戻った。はっとした彼女が見たものはクーリアの前に飛び出した葵の背中と金色に輝く光、そして跳ね飛ばされて宙を舞う獣の姿であった。
クーリアをその背でかばいながら葵が突き出した右手の先にはまるで盾のように広がった魔法陣の輝きがあった。
数メートルも跳ね飛ばされた獣はさっと身をひねって着地すると間髪を入れずに再び突進した。ガーラたちが立ちふさがる猶予はなく、恭一の剣も空を切った。
だがその行く手を阻んだのはまたしても葵であった。
直径二メートルほどの黄金の魔法陣は獣の牙を寄せ付けず、触れたとたんスパークのように光が爆ぜる異音とともに獣の体を跳ね返していた。誰もが呆気にとられ絶句していた。
獣は三度突進して葵に阻まれたところで動きを止めた。
低い姿勢から隙を伺うように予期せぬ邪魔者を睨んでいる。そして——。
〈ククク、『盾』を使いおるとは……〉
誰もが予想だにしなかったその声に息を呑んだ。当の葵でさえ驚きで目をみはった。
「びっくりね、しゃべれるんだ」
獣の声は嗄れ、くぐもって聞き取りにくいが確かに人語であった。葵は慎重に前へ出る。相手の動きを制約しやすいからだ。
〈牙を受け止めた騎士もはじいた魔法士も初めてじゃ、さすが、と褒めておこう〉
「あなた、もしかして炎の蛇を操ってた人?」
〈汝の水の竜もなかなかの見ものであったよ〉
クーリアもリーンも、そして三人の騎士たちも声を忘れて葵と獣の言葉を呆然と聞いていた。人語を操る化け物など聞いたこともない。
「そんなにクーリアが邪魔なの?」
〈邪魔だな、王よりはるかに〉
「あなたの名前はもしかしてヤグート・ギザ?」
〈ククク、面白い娘よの、立場が違えば一度は語り合ってみたかったが……座興はここまでとしようか〉
言い終わらぬうちに獣は跳んだ。正面から葵の魔法陣に突っ込んでくる。だが彼女がとっさに右手を突き出す直前、獣はもう一度跳躍した。邪魔な魔法陣ごと葵の頭上を跳び越えたのだ。
まずった!
獣のように見えても相手は生身の野生動物ではない。獣の動きを模してはいるが、筋力で動いているわけではないのだ。動物らしい動きに欺かれて魔法陣を広げるのがわずかに遅れた。クーリアとの間に距離を置いたのも裏目に出た。
今度こそ獣の前にはクーリアしかいなかった。リーンではその速度に対応できない。
どうしようと思った刹那、葵の思考は爆発的に加速された。論理的思考だけではない、霊感と称する不可視の智慧の宝庫までも動員してこの窮地を回避するすべを検索した。
すべては一瞬のことであり、解答は稲妻の閃光より素早く走り抜けた。
「クーリア、
葵の叫びは明らかな言霊となってクーリアの魂を貫いた。
その右手はまるで独立した生き物のように自動的に動いて腰の短剣を引き抜いていた。
無心で横に薙いだ短剣はまだ獣の牙とは距離があった。にもかかわらず、白銀の光が弧を描くと獣の胴体は真っ二つに両断された。転がった下半身はそのまま青い光の泡を発して崩れ去り、無数の切れ端となって消滅した。
残された上半身は青い光がまだらとなって身を震わせていた。切断された切り口はこれも見る間に崩れ始めており、先ほどのように復元することは不可能と思われた。
「もう一太刀だ、とどめを刺せ!」
響いた恭一の声に突き動かされるようにクーリアの右手は再度短剣を振るった。十文字に走った白銀の光条が獣の残存部分を四散させた。胴体や脚がぐずぐずと崩れ、消滅していく。転がった頭部の片方の目が弱々しく光っていたが、すでに時間の問題だった。
ぐ、ぐぐ、と獣の呻く声が漏れる。何者かの意志はまだ繋がっているのだ。不明瞭でもはや言葉らしい言葉にはならなかったが、クーリアはその最後の断片を確かに聞き取った。
〈……グ……バカナ……ナゼ、ナゼソレガ……ココニアル……〉
そこまでだった。かろうじて残っていた頭部も泡のように溶け崩れ、またたく間に消え去った。
人々が動き出すまでにしばらくの時間を要した。
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