第46話 白銀の女騎士 その4
(承前)
なんてことをしてくれる、という思いでイアンは頭を抱えたくなった。と同時にこの華やかな夜会の場が予期した以上に危険な予兆をはらんでいることを痛感した。
なにかが起こる。その予感はイアンの中で急速に膨れ上がっていった。
一方、クーリアは人々の輪の中で談笑していた。傍の葵は先ほどの余興を賞賛する声に快活に応じて一躍人気者になった感がある。
二人ともそのことには触れずに笑顔を振りまいていたが、クーリアは葵が示した密かな事実を反芻していた。魔法陣の顕現呪を模してクーリアにだけ伝えられたそれは葵からの告発であり、警告であった。
神殿の博士たちでもなければあれを正確に読み取ることはまずできまい。だから葵は堂々と本人たちの前であのような告発を行ってみせたのである。
葵はまずカルネル・デュトワ子爵を糾弾されるべき者と断じた。
——我、ここに暗き企みをなす者を見出せり——
次に罪人として名指しされたのはグレイン・ラウド伯爵であった。
——我、影より出でしさらなる咎人を今、明らかにせん——
そうして最後に葵が示したのは思いもよらぬ名だった。
——我、天意を以ってここに告げん、潜み、企み、欺かんとする者の名を——
マグナス・ルードワン公爵。常に棘や皮肉を隠さぬ相手ではあったが、貴族を束ねる威厳の持ち主と敬われている人物である。まさかと思った。だが、公爵を見据えた葵の瞳は深くきらめき一点の曇りもなかった。
事実なのだ。
神官の長、祭祀の長として誰よりも天啓を身近にしてきたクーリアにはわかる。あれは紛れもない神託であると。アオイ・キサラギという異世界からの稀人を通じて示された真実の一片なのだ。
それは城門をくぐった時から感じていた漠然とした胸騒ぎに通じるものであった。
葵たちは口に出さないが、今日この城でなにかが動いているという感覚はいよいよ露わになりつつある。人々が気づかないところでなんらかの騒ぎが起きている。目の前の一見平和な光景の裏でなにかが。
クーリアの霊感はそれを直近の未来からのさざ波としてとらえていたのだ。彼女の瞳は今、次第に深まる身内の緊張にきらめきを増していた。
そして声をひそめて言葉を交わす者たちがいる。互いに背を向け、無関係を装いながら短く囁き合っているのは件の三人であった。
「よもやと思ったが間違いない、あの娘は我らの関係に気づいている」
ルードワン公爵の声は低く険しい。デュトワ子爵とラウド伯爵の二人が愕然として目をむいた。
「そんな馬鹿な、ありえませんよ」
デュトワの言葉にラウドが「果たしてそうかな」と応じた。
「先ほどの舞を見たであろう、あからさまに我々を名指しするかのようであったぞ」
しかし、と疑わしげな子爵にルードワンが「待て」と小さく首を振った。
「言い争っている暇はない、そろそろ始まるぞ。あれは持ってきただろうな?」
二人がうなずくとルードワンは「なら腹をくくれ」と一言で命じた。
「我らが危険を覚悟で乗り込んできたのはなんのためだ。ここで臆せば次はないのだぞ」
そこで言葉が途切れ、三人とも沈黙した。周囲を通り過ぎる人々には軽い会釈を返すものの、先ほどまでのように夜会を楽しむそぶりさえ見せない。なぜか三人同時に胸元に軽く手をやった仕草は無意識のことであろうか。
デュトワのにやけ顔もラウドの疑り深い目も今はこわばり、ルードワンの厳しい顔は彫像のように動かない。彼らはともに何事かを待ち受け、備えているのだ。後戻りのできない一歩に。
そしてなんの前触れもなくその時はやってきた。
***
城壁の外に張られた天幕の中で昏睡状態にあった三十名近い捕虜たちがむくりと顔を上げた。
目を見開いて一斉に意味不明なうめき声を発する。
「おおお……あああ……おおああう……いああうう……」
警備の兵たちがぎょっと立ち止まる。それはうめくというより不吉な呪詛であり、その不気味さに何人かが慌てて報告に走り出した。
背後の森がざわざわと鳴り、暗い空から最初の雨粒が落ちてきた。
***
人々の輪の中で談笑していた葵とクーリアはぎくりとして同時に足を止めた。
周囲は賑やかに笑いさざめく人々の熱気に包まれていたが、さっと冷たいものが背中に触れたような感覚は優れた霊感を有する二人には誤解の余地もなかった。
「アオイさま、今……」
「うん、まずいね、この感じ」
「いったいなにが起きているのですか?」
「昼間からいろいろね、できればあなたを煩わせずに片付けたかったんだけど」
声をひそめて囁き合うその様子は周囲の人々の目には王女とその親しい友人らしい微笑ましいものと映っているだろう。だが、そばに控えるリーンにだけは二人の気配が変わったことがわかった。日頃から両者に接している彼女はクーリアの気分には敏感だったし、葵のさりげない目配せも読めるようになっていた。
気をつけて。
葵はそう注意を促している。着飾った貴婦人たちと笑顔を交わしながら、ちらと向けられた目が鋭く光をはじいていた。
リーンは素早く周囲に視線を走らせた。巨人ガーラと黒騎士が常にこちらに注意を払っていることには気づいていた。警備責任者である近衛第七隊のイアン隊長もだ。頻繁に出入りしては部下たちに指示を出す様子がうかがえる。それもリーンのように訓練された者にしかそれとわからぬほどのさりげなさである。
常にクーリアの身の安全を第一と考えるリーンにとって彼らの支えはこの上なく心強い。だがこの社交の場で彼らが王女の周りを固めていては興がそがれることも確かだ。
だから葵が王女の傍にいることがなによりもありがたかった。あの少女は騎士でこそなかったが、言葉にできない頼もしさを抱かせる。ある意味、誰よりも安心できる護衛であった。
その葵がリーンに警戒しろと告げている。
彼女の天啓もクーリアの霊感もなにかを察したのだ。この華やかで平和な夜会の場で油断するなと。
その葵はそれとなくクーリアを誘導しながら並んで立つ恭一とガーラの前を通り過ぎた。足を止めて話し込むことはしない。代わりに二人にだけ聞こえる声で「なにか来る、厳重警戒」と短く告げてそのまま通り過ぎた。
二人の騎士は無言だったが、その表情は厳しさを増した。どちらからともなく広間の壁に沿って歩き出すと左右に分かれて足元を確かめる。クーリアたちの動きに合わせるかのようにゆっくりと立ち位置を変えていた。なにが起きようと最短で王女たちの元へ駆け寄るための態勢である。
騒ぎが起きたのはその時であった。
「もし、子爵さま、ご気分でも」
驚いたような女性の声が上がり、何人かのざわつく様子が注目を呼んだ。周囲の心配そうな視線の先で胸を押さえ、片膝をついているのはなんとあのカルネル・デュトワ子爵その人であった。
「いや、大丈夫、少し夜会の熱気に当てられたようです」
そう言って立ち上がったデュトワは確かに顔色が優れなかった。何度か深く息を吸い、軽く頭を振って周囲の気遣わしげな女性たちに「このとおり」と笑顔を作る。万全とは思えない表情だが、線の細い優男らしくもあり、人々はそれで納得したようだ。
だが、時を同じくしてもう一人の貴族がやはり足元を乱していた。
「伯爵、いかがなされた」
「お顔の色が……」
そう声が上がり、伯爵——グレイン・ラウドはその場で額を押さえて「うむ」と低くうなった。こちらも青ざめた表情で「いや、少々気分が。大事ありませんのでお気遣いなく」と答える声にも冷や汗が滲んでいるようであった。
こうした光景は賑やかな宴席ではままあることだ。人いきれが過ぎて軽いめまいや立ちくらみを起こす人はたまにいる。夜会に慣れた人々ばかりなので、皆さほど心配はいらないと知っている。少し休憩なさっては、と声がかかる程度でラウド伯爵の異変は見逃された。
だが、このささやかな出来事に緊張を強めている者もいた。
恭一は鋭い視線を走らせ、ちらと振り向いた葵が頷くのを確認した。イアンも気づいた様子でちらと葵や恭一たちに目を向けた。人々の間をすり抜けてガーラの立つ
葵は隣に立つクーリアの手を握り、そっと耳打ちした。
「始まりそうだよ、絶対にあたしたちが守るから落ち着いて」
「アオイさまを信じています。でもこの胸騒ぎはなんでしょう、先ほどからどんどん強くなってきます」
「大丈夫、なんとかする」
クーリアは心持ち青ざめた様子ながら周囲の人々に気取られることなく笑顔を絶やさない。彼女がこの夏以降に手に入れた強さである。
もう一人は、と葵が見やった先でルードワン公爵は泰然としていた。だが、よく見るとその公爵の表情も微妙にこわばり、引き結んだ口元がわずかに震えている。彼もまた何事かの不調を感じ、歯を食いしばって耐えているのだ。
これはどういうことだろう、と葵は不審を覚えた。彼女もクーリアも目前の危険を察知しているこの時に、最も警戒すべきあの三人がそろって体調を崩している。彼らの唐突な変調はなにを意味しているのだろう。
と、広間を照らしていた無数の照明が揺らいだ。まるで本物の松明のように明るさが不安定となり、いくつかはそのまま消灯した。人々が「なんだ?」とざわつき、不審げに天井を見やる。
カプリアを使った照明は魔法で制御しない限り半永久的に光を放ち続ける。それが一斉に不調に陥るなど通常は考えられない。ありうるとすれば——。
不協和音、と葵は感じた。辺り一帯のルフトの流れに不自然な雑音が混ざりこんでいるのだ。照明のように小さく単純な魔法はその影響でたやすく安定を失ってしまうのである。
誰もが天井に視線を走らせ、夜会の喧騒がふいに途切れたその時、聞き違えようのない異音が響いた。ぎょっとして人々の動きが止まる。
広間の入り口の扉の向こうから聞こえてきたのは人が争う気配と物音、そして悲鳴だったのである。
足が止まった人々の間を恭一とガーラがすり抜け、その背で葵とクーリアをかばう体勢になる。葵はクーリアの左、リーンは右に並んですでに腰の剣に手をかけていた。
いち早く動いた気配はダンテス伯爵その人である。噂に違わぬ瞬足で異変を察した直後にはもうガーラの隣に立っていた。ジーナ夫人を父親であるエレオン子爵がかばいながら広間の隅へ移動し、イアンは慎重な足取りで扉の方へと向かっていた。
とっさに動けたのはどうやらこれだけのようであった。
どん、と再び物音が響き、苦痛のうめき声が聞こえた。イアンは思い切って扉に近づこうとしたが「だめ! 離れて!」と叫んだ葵の声に足が止まった。一瞬躊躇した彼がなにか言おうとしたのと扉が開かれたのが同時だった。
扉の向こうで警護に当たっていた兵士がよろめきながら倒れ込んだ。顔も胸元も血で染まっている。
そこに至って呆然としていた人々の間から悲鳴と驚きの声が上がった。広間はたちまち夜会の喧騒を凌ぐ騒ぎとなった。イアンたちは本来なら真っ先に騒ぎを沈め、人々を落ち着かせなければならない立場だったが、彼らにその時間は与えられなかった。
倒れた兵の後ろから、のそり、とそれが現れたからだ。
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