第43話 白銀の女騎士 その1



 室内が金色の光で染まっていた。


 床の中央に胡座をかいて座り込んでいるのは巨人ガーラ、その周囲にごくわずかな関係者だけが立ち、固唾を呑んで見守っている。


 ガーラの頭上、天井近くに浮かび上がっているのは黄金の光で象られた幻像であった。円と幾何学模様、そして古代文字で構成された複雑な形象——魔法陣である。その輝きで部屋が染まっているのだ。


 ガーラの傍らに立つのは葵、周囲で見守るのは恭一、アル、イアン、そしてラダルである。沈黙を要求されたわけではないのに男たちの誰一人として声を上げようとはしない。少女の邪魔をするまいという自然な配慮である。


 葵にとっては初めて試みる魔法であった。


 この魔法陣そのものは記憶していたが、実地に使ったことはなかった。閃光や爆音といった無茶な術と違って人の体に直接作用するものである。手加減が上手いとは言えない彼女にとっては慎重にならざるを得ない。


 しばらくして葵はガーラの方にかがみこみ、真顔で尋ねた。


「どうかな?」


 あまり自信はなさそうな声だったが、ガーラはにやりとして軽く肩を回した。


「おまえ、やっぱ近衛隊に入らんか。明日から軍医の頭が務まるぜ」


「あたしは商売とルシアナの遊び相手で忙しいから無理」


 双方ともに軽口で応じているが、それでその場の全員がほっと緊張を解いた。


「戦場で治癒の魔法は何度も見たが、おまえのはものが違うな、当分右腕は動かせんと思っていたが」


「痛みは? 肩はちゃんと動く?」


「問題ない、まるっきりの万全だ。前より調子がいいくらいだ」


 どうやら世辞ではなさそうだと知って葵もようやくいつもの笑顔に戻った。ガーラの傷を見たときは珍しく青ざめた表情を隠せなかったのである。


 葵が魔法陣を解除し、部屋中を染めていた金色の光が消えるとそこでようやく私語が交錯した。アルなどは息を詰めるようにして見入っていたのだ。神殿での一件を除けば少年が葵の魔法を目の当たりにするのはこれが初めてであった。葵につきあって書物はいろいろ読んでいたものの、間近で見たそれは不思議の一言であった。


 どれ、とガーラは立ち上がり、もう一度腕をぐるぐる回して「よし」と満足げに笑った。肩の傷ばかりではない。


 獣の爪は体のあちこちに無数の傷を刻んでいた。それがきれいさっぱりと消失している。痛みもない。冗談でなく傷を負う前より体に力が満ちている気がする。葵の魔法が並ではないとは思っていたが、これはもう神業と言いたいほどだった。


 イアンが心底ほっとしたという顔で葵に頭を下げた。


「アオイどの、心より感謝する。私をかばっていなければガーラももっと自由に戦えたはずなんだが」


 わずかに和んだ部屋の空気がさっと緊張した。彼らが語った青い獣の脅威は信じがたいものであったのだ。こちらの剣はすり抜けるが、相手の牙や爪はこちらの体を引き裂く。青い光に包まれた半ば幻影のような怪物。語ったのが彼らでなければ容易には信じられなかったところだ。


 恭一も難しい顔だ。彼もまたガーラと同じく剣を頼みとする者である。青い獣は剣を振るう者すべてにとっての脅威なのである。いかに強力な剣を使おうとも幻影を斬ることはできない。なのにその牙は幻影ではないのだ。


「どう思う、葵」


「そうだねえ、あたしにはやっぱり納得できないなあ。どうしてもそれは理にかなってない気がするの」


「だがガーラどのの傷は本物だぞ? 剣がすり抜けたというのも事実だろう」


「だから変なんだよね、こっちはさわれないけど向こうはさわれる。なーんか仕掛けがあるような気がするんだけど」


 例によって葵は話しながら考えを巡らせているようであった。話すことは彼女の思考の原動力である。


 イアンやガーラたちも興味深げに聞いていた。この少女が実は稀有な知恵者であることを彼らは知っているのだ。


「ここは魔法の国だけど、魔法や魔法陣の体系はそれなりに理屈に合った組み立てになってる。それからすると幻の牙や爪が直接相手を傷つけるというのはイマイチ理屈に合わない。どうしても物理的接触は必要だと思うの。だからありうるとすれば……」


 葵は思案顔でゆっくりと言葉を選んだ。


「仕組みはわからないけど、攻撃の時、そう、牙や爪を突き立てる瞬間だけ実体化してるっていう可能性はあると思う」


「それもかなり無理があると思うが」


「じゃあ、普段は気体のように密度が薄くて攻撃と同時に凝集して剛性を帯びる、というのは?」


「なるほど、相転移のようなものか。確かにそれならこちらの剣がすり抜けるのも向こうの牙が突き立つのも説明はつく」


 葵は一歩理解に近づいた気がしたが、だとしてもどう対処するかはいまだ不明だ。イアンたちは二人の話にいささかついていけないものを感じていたが、ガーラは単純に割り切った。


「おまえたちの話はよくわからんが、あいつが爪を立てた瞬間ならこっちの剣も届くってことでいいのか?」


「可能性としてはね」


「覚えておく、手も足も出ないよりはマシだ」


 すると葵はガーラの胸を叩いて「魔法で治るからって無茶なことしないでよね、あてにされても困るんだから」と一言釘を刺した。


「わかっている。俺とてそうそう何度もあんなやつとやりあうのはごめんだからな」


 ラダルもようやく緊張が解けたようだ。イアンが血だらけのガーラと共に現れたときは飛び上がるほど驚いたが、話を聞いて慄然とした。日常の魔法は知っていても彼の上司が口にしたのは信じがたい事実の連続だったのだ。


 そして初めて目の当たりにしたアオイ・キサラギの魔法陣に度肝を抜かれた。近衛隊に所属する治癒専門の魔法士とは桁違いの力感とその効果に。イアンがキサラギ館に出入りするようになった理由の一端がここにあったのだ。


「夜会の警備体制はいかがいたしましょう。そんな化け物は想定外で」


「伯爵の許可はもらっている。兵たちの半分は城内各所、通路の端までを。残りの兵と正騎士は城外。広間は俺たちだけでいい。むやみに人を増やしても動きにくい。四大騎士級が三人だ。なにが起きても対処する。おまえは腕利き十人を連れて姫さまの身辺警護だ、お着きになったら決して目を離すなよ」


 クーリアは宴が始まってしばらくしてから登場する手はずになっている。葵と恭一はそれとなく彼女をガードするつもりだが、昼間の異変を経てその警戒レベルは跳ね上がった。


 人にしろ獣にしろ、招かれざる客の出現はほとんど確定的であると葵の勘は告げていたのである。


     ***


 夜会は予定時刻より少し早めに始まると告げられた。


 夕方から雲行きが怪しくなってきたため、城側が城内への案内を急いだのである。彼らのあずかり知らぬことだが、これは「晴れ男」の魔法が途中で断ち切られたことによる余波であった。天候操作のような魔法は後始末を怠ると反動がくることがある。未熟な魔法士が犯す過誤の大半がこれだ。


 開いた魔法陣は正しく閉じてこそ完結するのである。


 ともあれ、人々はこの時とばかりに着飾り、次々と大広間に入ってくる。どの顔も期待で晴れやかだ。


 舞台裏では用意された着替え用の小部屋がどれも客とその侍女、使用人らでごった返していた。ただし、これは小身貴族や平民の場合で、名のある名家や上級貴族の人々には別室が用意される。身分による扱いの差はかなりあからさまだがここはそういう世界なのである。人々はその賑わいを楽しみこそすれ文句などはどこからも出ない。


 方形をしたこの城の一辺をほぼすべて占有した大広間は王宮のそれに匹敵する大空間である。城主の個性を反映してか華美な装飾などは目立たないものの、風格のある石壁や天井画が歴史ある古城であることを表していた。


 大掛かりな夜会といっても王宮の晩餐会のような公式行事とは違うので厳密な式次第などは決められていないようだ。


 人々が参集し、頃合と判断されたところで宴の主人である伯爵夫妻の登場が告げられた。


 伯爵はマントを羽織った公式の騎士装束で、その胸には幾多の武勲で国王から賜った勲章が燦然と輝き、これ以上はない華麗さである。伯爵にして国の英雄たる四大騎士の一角を占めるシュトルム・ダンテス二世の晴れ姿は歴史画に描かれた英雄譚の主人公そのものであった。


 傍らの伯爵夫人は控えめな賢夫人として知られていたが、豪奢なドレスで英雄騎士と並んだ姿に誰もが息を呑んだ。貴婦人とはまさにこの女性のために生まれた言葉であろう、素直にそのような感慨が浮かぶあでやかさであった。


 伯爵はよく通る張りのある声で客たちにねぎらいと感謝の言葉を述べ、当代の城主としてジェルムの式典を催すことができた喜びを語った。果実酒を注いだ杯を捧げ持つとこう締めくくって夜会の始まりを宣言した。


「ラントメリーウェルが次のジェルムのその日を迎えてもなお皆さまのご一族が健勝であらんことをここに祈念する」


 歓声がわき、夜の宴は始まった。


 広いとはいえ、さすがに三百人は壮観だ。葵が連想したのは都内の大ホテルで行われる大物芸能人の結婚披露宴というかなり俗なものだったが、着飾った本物の貴族ばかりとなると雰囲気からして違う。


 昼の園遊会が表の顔だとすれば、この夜会は裏の、というより本音と思惑が交錯する場である。葵の霊感には様々な情報が響いてくるが、もちろんそれを口にするほど彼女は悪趣味ではない。


 ただし恭一には何人かの要注意人物の発見を告げていた。


「例のデュトワ子爵級の嫌な感じがもう一人、いえ、二人かな」


「ほう、どいつだ」


「右奥で今、伯爵に挨拶してるあの人、さっきアルくんに聞いたらグレイン・ラウド伯爵といって北部の有力貴族だけどここ数十年は目立たない家だって」


 恭一は鋭い目でそのラウド伯爵なる人物を見やった。


 恰幅のいい中年男だが恭一もあまりよい印象を覚えなかった。葵のような霊感はなくとも子供の頃から企業オーナーやセレブ階級の人々を見慣れている彼には胡散臭い人種はそれなりに判別できる。


 富や権力に反比例して品性が下落する人間が一定数存在するのだ。彼らはほぼ例外なく視線が定まらない。


 下を見下し上に媚び、左右を疑っては警戒する。地位にも財力にも恵まれながら安心できない。


 そうした類の人間に共通した目をラウド伯爵なる人物に感じた。


「なるほど、簒奪者の目をしているな」


「簒奪者?」


「企業のナンバー3あたりまで昇りつめるとなまじ頂上が見えてくるだろ? そうすると強欲に突き動かされてなんとしてもトップを奪い取らねばという衝動を抑えきれなくなる。たまにいるんだ、このタイプが」


「野心家ってこと?」


「それがそうでもない。かつてはトップに忠誠を捧げ、真面目で善良な働き者だったなんてケースが珍しくないんだ。そして首尾よくトップの座を奪い取ると、今度は自分が奪われる立場になったことが恐ろしくて周囲の誰も信じられなくなる。一日も安心できない日々の始まりだ。親父は『あれも人の性だ』と言っていたな」


「ふうん、じゃあおじさま、そんなのにうんざりして占い師が欲しくなったのかな」


 これは軽い揶揄であったが恭一は「かもな」と肩をすくめた。


「確かにそういうストレスもあったんだろうな。で、もう一人は?」


 すると葵は恭一に身を寄せ、耳元で「急に振り向かないでね。……恭一のすぐ後ろ」と囁いたのである。


「後方五メートル、四人の男の人に囲まれてる老人、でも堂々として貫禄ある」


 ちりっと恭一の眉が跳ねた。そのままさりげなく横を向き、目の端でその人物をとらえた。


 葵の表現は的確だった。髪には白いものが目立つが体格のいい老騎士然とした人物である。彫りの深い顔立ちと厳しい眼光が人格的迫力を感じさせた。先に葵が指摘した二人と比べると明らかに格上だとわかる。


「……何者だ?」


「マグナス・ルードワン公爵、前にアルくんに聞いたことがある。現在国内に五つある公爵家の第一位の家柄で今の王さまのアリステア家とも遠い縁戚に当たる、だって」


「そいつは……」


 さすがに恭一も目をみはった。公爵家第一位の当主、それは事実上、貴族階級の頂点を意味する。文字どおり大物中の大物と言えた。おそらく第一王女でさえおろそかにはできない相手である。


 だが葵の勘は彼を警戒すべき危険人物と判定したのだ。


「また厄介な相手が出てきたな。それではイアン隊長でもおいそれとは手が出せんぞ」


「あの人は大物すぎてちょっとやそっとじゃボロは出さないと思う。他の二人のようにはっきりとは響いてこないの。でもこれで三人、第一王女がゲストのパーティーにそろって参加というのは」


「ああ、昼間の一件といい、本気で仕掛けてきたと見ていいかもしれん」


 今日のこの日を狙ったかのように様々なことが一斉にうごめき出している。それらがどう関わり合っているかは不明だが、葵の勘は最終的にすべてが一点に集中するであろうことを予感していた。だがまだ舞台は整っていない。役者が揃っていないのだ。


 最後の一人、すなわち第一王女クーリアが。

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