第42話 幻影の牙 その6
(承前)
「……来やがった」
「なんの話だ」
「隊長、あんたは逃げろ、と言いたいがどうやら間に合わんようだ」
いったいなにを言ってる? とイアンが質そうとした刹那、衝撃で体が後方に吹っ飛ばされた。ガーラに突き飛ばされたのだと気づいたのは一拍遅れてのことである。ただ、視界の端をなにか青いものが閃きすぎた気がした。
「おい、なにを……」
言いかけた声が途中で途切れた。信じがたい光景がそこにあったのだ。
ガーラが凄まじい勢いでなにかと戦っていた。
風もないのに足元の枯れ枝や土塊が渦を巻いて舞っていた。両者の動きがあまりに素早く、ひらめく剣と青いなにかが交錯するその勢いに巻き込まれ、跳ね飛んでいるのだ。
それでいて剣と剣がぶつかる音は聞こえない。
唖然としてその光景を見ていたイアンは、そこに至って初めて「それ」を見た。
青い獣だった。
目の前だというのに輪郭がはっきりしないのはその体がおぼろな青い光に包まれているからだ。西国の山岳地帯に生息するという獰猛な肉食獣の噂は小耳に挟んだことがあるが、最初に頭をかすめたのがそれだった。
だが、それにしては異様過ぎた。まるで幻影のようにその姿は半透明なのだ。ガーラは幻の獣と切り結んでいるのである。切り結ぶ? いや、そうではなかった。ガーラの剣は確かに獣に届いたように見えた。なのに獣には傷ひとつついていない。
ガーラの剣は獣の体を通り抜けている!
剣が届かないのではない、剣では斬ることができないのである。文字どおり幻を相手にしているかのように。
それは戦っているガーラ自身が一番よくわかっているだろう。額を伝う汗は彼の緊張と焦り、そしてわずかな恐怖をも表していた。その頬に走る三筋の細い傷は爪の跡だろうか。
ガーラの剣は獣に届かないのに獣の爪はガーラに届くのだ。
今また両者は激しく交錯し、同時に跳び離れて距離をとった。そのまま睨み合いになる。動きが止まったことでイアンにも青い獣の全身が初めて見えた。やはり肉の身を持つ野生の獣とは思えない。青い光をまとった半透明のなにか、そうとしか言いようがなかった。
「隊長、かばい切れなかったらすまん、どうも分が悪いようだ」
青い獣から目を逸らさずガーラは意外なほど軽い声で限界を告げた。その響きがあまりにも不吉であったためイアンは絶句した。
「見ただろ、こいつは剣じゃ斬れん、避けるので精一杯だがこれ以上は足がついていかん」
言葉もないイアンにガーラはちらりと目を向け「さて」と剣を構え直した。完全に足を止め、正面からの一撃に賭ける気なのだ。たとえその剣が空を切ろうとも。
おい、待てよという声が喉元に絡んで出てこない。ここへきてイアンはおのれの無力に愕然としていた。あんな化け物などに気のいい巨人の友をみすみすくれてやるわけにはいかないというのに俺にはなにもできんとは。
そして化け物という言葉が不吉な記憶を呼び覚ました。あの時の炎の蛇である。
すると……こいつもそうなのか!
愕然としたその時、青い獣は稲妻の速さで巨人に飛びかかり、剣と牙が交わった刹那、赤い霧が舞い上がった。
ガーラは何事もなかったように振り返り再び青い獣と対峙したが、その首のあたりは血で染まっていた。
「来い、これが最後だ」
平然とうそぶくガーラに獣は低い姿勢から再度の跳躍を狙ったが、そこで異変が生じた。
全身を包む青い光がまだらになり、心なしか暗くなったように見えた。動きが止まり、目の位置で輝いていた光が見えなくなると一声咆哮するように口を開いて……消えた。
消滅したのである。
ガーラもイアンも呆気にとられたが、青い獣の姿はもうどこにもなく、辺りに充満していた不吉な気配も雲散霧消していた。
ややあってガーラが大きくため息をもらしてその場に座り込んだ。まさに精根尽き果てたというありさまで激しい呼吸を繰り返している。我に返ったイアンが駆け寄るとその右肩はまだ血を吹いていた。
短く「爪か」と聞いたイアンにガーラもうなずいた。
「牙はぎりぎりで避けたが、肩を削られた。まあ首を持っていかれなかっただけ上出来だろう。正直、命拾いしたぜ」
「まさかあんな化け物に出くわすとは……」
「聞きしに勝るとはこのことだな、敵兵などより青い獣に注意しろ、そう警告は受けていたんだが」
「アオイどのか、いったいあれはなんだ」
「さあな、あいつにもよく見えんと言っていた。ただ本当の敵はこっちかもしれんと」
本当の敵、と聞いてまたもイアンの頭をあの炎の蛇の記憶がよぎった。もしあんなものが夜会の真っ只中に現れたらと思うと背中が総毛立った。ガーラを追い詰めたあの状況でなぜ消えたのかは不明だが、再び現れないと期待するのは楽観に過ぎるであろう。
「敵兵の方はラダルたちが制圧したようだ。私たちも戻ろう、その傷の手当てが先だ」
「派手に汚しちまったからな、またあいつにどやされそうだ」
ガーラはそう言って苦笑し、大きく息を吸うと「行くか」と立ち上がった。
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