第41話 幻影の牙 その5
(承前)
「その格好で夜会に出るの?」
ところどころ返り血の跡が残るガーラの騎士装束を見て葵は眉をひそめた。
人目を避け、庭園の片隅で森での顛末を語ったところである。恭一は腕組みしてガーラの話を検討しているようであり、アルは黙って彼らのやり取りを聞いていた。
「着替えなぞ用意しておらんからな、マントでごまかすさ」
「また森に行くんでしょ、これ以上血で汚すと」
「俺が聞きたいのはだなあ」
ガーラは呆れたように声を上げた。今は服のことなど気にしている場合ではないのだが、この少女が最初に口にしたのがこれである。ことの重大さがわからぬはずはないのだが相変わらず「変な娘」である。
「わかってる。でもね、あなたがちゃんと夜会に出ることも重要なの」
「それも占いか」
「そう、あなたがその場にいることに大きな意味があるの。あとね、さっきの爪や牙でやられた若い人の話、あたしにはそれが気になるの」
葵はガーラに正面から向き合い「危ないのはそっち」と言い添えた。
「あたしが森に感じた危険はまだ続いてる。でもそれは剣や弓を持った兵士なんかじゃない。気になるのは獣、青い獣」
「青い獣だと?」
「うん、正体はわからないけど本当の敵はそっちじゃないかって気がする。もし森で出会ったら充分に注意して」
黙って聞いていた恭一がそこで短く質した。
「葵、そいつはガーラどのでも警戒を要するほどの相手か」
「たぶん。姿ははっきりしないんだけど虎のイメージに近いと思う。でもそれだけじゃない、獣なのに悪意の塊みたいな」
「わかった、充分に注意する。おまえたちはここで伯爵を見ていてくれ。あの人はこの場を抜けるわけにはいかんし、客たちに異常を気取られるとまずい」
この時ばかりはさすがに四大騎士の貫禄である。葵たちは素直にうなずいた。
一方、イアンとラダルは速やかに追撃への体制を固めていた。
事態を知らされた伯爵はほとんど表情を変えなかったが、よろしく頼む、と告げたその声には彼の当惑と怒りがこもっていた。
なぜここに。
なぜ今日なのだ。
なぜそんなことになる。
イアンたちは知る由もないが、娘を救うために周到に準備を重ねてクーリア王女を招くことに成功した今日この時を誰が邪魔しようというのだ。その心の内は知らずとも、伯爵の抑えた怒りは見えない炎のようにイアンを打った。
言われずとも決着は急がねばならない。第一王女が王宮外での宴に顔を出すことなど稀である。不始末があってはならないのは自明だが、彼女を標的とする陰謀が発覚している以上、どのような変事も未然に防ぐ必要がある。
イアンたちはすでに一歩の出遅れを喫しているのだ、速やかに敵を追撃し、ことを終息させねばならない。
「——となると、やはりこの道ですかね」
城から借りた地図はかなり詳細なものであった。通常、城側が整備しているのは例の小さな空き地のあたりまでだが、さすがに百二十年にわたって一帯を管理してきただけあって森の深部のの杣道や獣道まで網羅されていた。三年に一度は更新され、人が通れる道も特定されていた。敵が森の外へ脱出していない限り最短で遭遇する経路は推測できた。
「いいだろう、連中が木の上を走ってでもいない限り、そうだな、このあたりで遭遇戦になりそうだ」
イアンは地図上の一点を指差し、ラダルがうなずくと決断した。
「城の警備に百を残す。正騎士五十と兵五十は城の背後で挟撃に備えろ、他は森の北側の杣道から入って南へ追い立てる。合図は鷹笛一度が接敵、二度が挟撃用意とする」
イアンの矢継ぎ早の指示にラダルが走り回る。兵は迅速に動かさねばならないが、客たちに異変を悟られては騒ぎになる。騎士も兵もただの巡回のように見せかけつつ配置につかせるには練度を要するが、近衛隊はさすがによく訓練されていた。
「では行く」
イアンは短く宣言して百五十の兵とともに森の外を北側へと迂回する道へ急いだ。ラダルは城の背後で警護と挟撃の指揮にあたる。本音はイアンに従って行きたかったが、ガーラが同行している以上、隊長の身を案ずる必要はない。
追い立てられて森から出てくる敵を確実に仕留める、もしくは捕縛することに専念すればいい。万が一、別方向に敵が現れたら正騎士全員を投入してこれを打ち倒す。ラダルたちはそこまでの覚悟で陣を張っていたのだ。
三百で行け、と増員を指示したイアンの言葉は正しかった。あの勘働きはラダルにはまだ真似できない。
「隊長も霊感をお持ちなのかもしれんな」
そうつぶやいたラダルは改めて森の気配に意識を集中した。
***
人跡稀な原生林ならいざ知らず、人里近くの森である。そこには多くの生き物が入り込み、やがて彼らのための道が生まれる。獣には獣の、そして人には人の。森の動物たちは長い歳月を経て遺伝子に組み込まれでもしたかのようにその道を認識する。
人もまた同様だ。慣れた者には木々の間のわずかに踏み固められたパターンが道として見える。むろん、そうした目を持つ者には、であるが。
ガーラはさながら熊か狼のようであった。
森を闊歩することに慣れた大型の獣に似てなんのためらいも見せず奥へ奥へと踏み込んでいく。巨体でありながら他の兵より足音は小さく、歩みにも迷いというものがない。巨躯を持て余すような鈍重さとは無縁なのである。
同行するイアンは今更ながらガーラのしなやかな動きに感嘆していた。四大騎士はそれぞれに特徴的な強みを有しているが、彼の場合は無双の怪力も含めたこの野生の力こそが本領なのであろう。護衛を頼んだわけではないが、彼は常にイアンの二歩先を歩き、その背と暴風のような剣でイアンをかばっている。
だから最初の矢が飛来した時も臆せず兵たちに命ずることができた。
そこは森のほぼ中央に近い地点だった。ガーラが短く「来るぞ」と警告すると同時に無数の矢が飛来したのだ。先ほどの戦闘時よりはるかに本格的な攻撃である。
むんっ! と振り回したガーラの剣が何本もの矢を打ち払い、一拍遅れてイアンは兵たちに応戦を命じた。
「散開! 弓兵前へ、鷹笛一回!」
鋭い笛の音が鳴った。三千歩先まで届くという伝達用の特殊な
弓兵同士の短いが激しい射ち合いの中、木の陰、倒木の向こうに弓を構える敵の姿が見えた。射線が取れないので命中率は低いのだが、それを承知の上で射ってくる。敵もこれで決着がつくなどとは考えてはいないのだ。
イアンの兵たちはじりじりと間合いを詰め、双方わずかな負傷者を出したところで一斉に敵の弓兵が退くのがわかった。
「来るぞ、樹上警戒怠るな」
剣が振り回せないほどではないが、森の深部だけあって直線的な見通しはよくない。弓同士の小競り合いが長続きしなかったのもそのせいだ。
「さて右から来るか左から来るか、今さら上はあるまいが、まさか正面からか?」
「連中、統制が取れているのかいないのか今ひとつわからんからな、こんな時あいつがいれば楽できるんだが」
「だがそれには頼るなと言われたんだろう?」
「そういうことだ、右! なにか動いたぞ」
ん? とイアンが右手の奥に注意を向けた時である。ぎょっとするほど近くにこちらを見ている人間の目があった。
「右方警戒! 各自応戦!」
見通しの利く開けた場所と違って森の木々は遠近感を微妙に狂わせる。さっと気がはじけた直後、敵がわらわらと湧いて出たのである。注意を怠ったわけではないのに驚くほどの唐突さだった。
男たちはあの短い剣を構えて突っ込んできた。
数はおよそ五十というところか。やはりものも言わずに襲いかかってくる。イアンたちは数で勝るが、森の中の乱戦ではその利点をうまく活かしきれていない。木々はイアンの兵たちには邪魔な障害物でしかないが、相手はそれを巧みに盾代わりとしていた。数を頼みに押し破る戦法が機能していないのだ。
しかも気がつけば乱戦の中、敵の数が増えている。いたるところに伏兵が現れ、結局イアンたちは百に近い敵と戦っていたのである。相手は正攻法とは対極の撹乱、囮、欺罔といったまさに森の中の乱戦に持ち込むことを意図した戦い方を仕掛けてきたのだ。イアンたちは戦力で勝りながら応戦に手こずっていた。
だがここに誰の想定をも超えた怪物がいた。
ガーラは敵の男たち以上に巧みに木々の間をすり抜け、その剣はまさに野獣の牙のように容赦なく彼らを引き裂いた。障害物だらけの森の中を平地の野のごとく駆け抜ける動きには敵も味方も唖然とするしかなかった。
四大騎士が戦うために生まれた戦士であることをイアンは痛感した。彼に比べれば兵たちも敵の男たちも愚鈍な素人に等しい。それでいてイアンから離れすぎないように気遣いも見せる。知恵のある野獣ほど始末に負えない存在はない。暴風のように森の中を暴れまわるガーラに、さしも無謀な敵の動きにも乱れが生じた。
臆したのである。
あれほど無表情に攻撃を仕掛けていた男たちが命を惜しんだのだ。
なんの統制も取れていないような彼らの動きにも、押す、引く、散るといった戦いの呼吸を読む感覚は共通している。各自がばらばらのようでいて何人かの要になる者が自らの動きで指示を出しているのだ。無能ではない、だがそれゆえによけいな思考が頭をよぎることもある。ガーラの驚異的な戦いぶりは彼らに一種の迷信的な恐怖を呼び起こした。だから臆したのだ。
自身は戦闘の専門家でこそないものの、イアンは集団を指揮する経験から敵の怯みを感じた。ガーラの奮闘で敵の圧力は明らかに減殺された。連中は素人ではないが、戦力でも個々の訓練でもこちらが優っている。ならば——。
「左右各隊、先行しつつ押し包め! 伏兵注意!」
イアンは一気に数の有利を前面に出し、乱戦から組織戦に持ち込む決断をした。
撹乱を意図した敵の動きをあえて無視し、目の前の倒せる相手だけを確実に削っていく。兵の戦は個対個を好む騎士のそれとは違う。二人がかり、三人がかりで一人を討ち、手強ければ五人、十人で押し包んででも倒す。ゆえに数は力なのだ。
敵にも戦術・戦法はあるだろうが、ガーラの桁外れの暴力が吹き荒れるとすべてが微塵となって潰えた。そこに兵たちがなだれ込んで容赦なく殲滅にかかるのである。いったん崩れると抵抗は急速に弱まり、敵はついに敗走を選んだ。左右を抑えられているのでひたすら後退するのみだ。
戦場は次第に森の南端方向へ移動しつつあった。
それはラダルたちが待機する城の裏手に接近しつつあるという意味でもある。わずかにではあるが木々の密度が減じ、イアンは森の外縁部が近いことを知った。
「頃合だろう」
隣に戻ってきたガーラが言い、イアンもそろそろ決着をつける時だと判断した。
「そのまま追い込め、鷹笛二回!」
再び鋭い笛の音が響いた。今度は二度、ラダルたちに挟撃を要請する合図である。わずかな間を置いて同様の笛の音が一度響いた。了解の意を示す応答である。予想したとおり、かなり近いところから聞こえてきた。あとは時間の問題だ。
案の定、それからいくらもたたないうちに敵に大きな混乱が生じた。城側から挟撃に入ったラダルたちの兵と遭遇したのである。個別の戦闘力に優れた正騎士も加わっているのでみるみる敵を討ち減らしていく。
すでに奇襲や奇策を弄する余地はない。正攻法のぶつかり合いに持ち込まれては訓練されてない相手に勝ち目はないのだ。
「どうやら片づきそうだな」
さすがにほっとした顔でイアンがつぶやく。あとは兵たちに任せておいても大丈夫だろう。ここから先はラダルがうまくやるはずだ。
森の中に何人の屍が転がっているかしかとはわからないが、敵の数は三分の一以下になっていた。国境付近の揉め事はあるにしてもファーラムの国情は安定している。内地でこれだけの犠牲を出した騒乱は極めて稀だ。
ひとまず敵は制圧した。これ以上の伏兵はないと見ていいはずだ。だが、肝心なことはまだなにひとつ解決していない。いったい誰が、なんのために、ここまでの犠牲を払ってことを起こしたというのだろう。
もし、これも一連の不穏な動きの一環だとしたら。
昨日からのイアンの懸念はそこにある。もしそうだとするなら、ことはまだ終わっていない。なぜならばクーリア王女がラントメリーウェルの夜会に登場するのはこれからなのだ。これだけのことを仕組んだ連中がそのまま王女を見逃すはずはない。
だとすれば——。
小規模ながら戦を制したばかりだというのにイアンはますます身内の緊張が高まるのを感じていた。
すでに辺りに敵の気配は皆無である。兵たちは前方へ進撃し、イアンとガーラはしんがりを務める格好だ。イアンに思案をめぐらす余裕ができたのもそのせいだが、そこでふとガーラの足が止まった。
見るとその表情が険しくなっている。先ほどの戦闘中でさえ見なかった顔だ。一般の兵士など彼にとっては弱敵に過ぎず、事実、あの乱戦の中、一人異次元の戦いをしていた男だ。そのガーラの全身が見る間に緊張をはらんでいく。
「どうした」
「……来やがった」
************
この章、もう少しで終わるので本日中にもう一話公開します。
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