第39話 幻影の牙 その3


(承前)


 そのときである。葵の足がふいに止まったのは。


 さりげない表情だが、前方の木陰に置かれたテーブルについてどこかの令嬢たちと談笑している男に注目している。


 三十歳前後と思われる秀麗な男である。笑顔を振りまきながら女たちに囲まれた姿は絵に描いたような貴族の典型といえようか。


「どうした、葵」


「ちょっとね、アルくん、あの人は?」


「ええと、カルネル・デュトワ子爵ですね。東部のけっこう有力な名家のご当主です」


「ダンテス家との交流はある?」


「直接の関係は知りませんが、伯爵の義父に当たるギリク・エレオン子爵とはお屋敷も近く、家同士のつきあいは長いようですよ」


 ふうん、と目をきらめかせた葵はアルをその場に待たせて「ちょっと」と恭一を脇へ誘った。


「あの子爵がどうかしたのか?」


「うん、ものすごく嫌な感じがする」


「あいつが?」


「あの人は百パーセント王さまやクーリアの敵、だと思う。夜会の時は要注意だよ」


 恭一の目が鋭くなった。葵の霊感はとびきり優秀だが、それでもここまではっきり言い切るのは珍しい。よほど明確な印象を得たのだろう、実績を知る恭一にはほとんど確定事項に等しかった。


「まさか一連の騒動の関係者か?」


「たぶん。どうもこのイベント、なにか引っかかる気がしてたんだけど、あの人の顔見たらその感じが一気に強くなった」


「となると、ほかにも紛れ込んでるやつがいるかもしれん」


「そのつもりでいた方がよさそうね」


 怪訝な顔のアルには「帰ったら説明するよ」とだけ言ってまた歩き出す。夜会の出席者はざっと三百と聞いていたが、園遊会だけ顔を出すという人もいるのですでにそれ以上の数が庭を散策しているようだ。


 あちこちのテーブルに軽い飲み物が用意され、葵たちも時には立ち止まってそれらを口にしていた。酒類などが出されるのは夜会に移動してからである。


 しばらくすると人々の間に軽いざわめきが広がった。


「お、伯爵さまのお出ましだ」


 首を伸ばして城側に目をやった葵が言う。どうやら主役登場の時間らしい。植え込みの合間に見え隠れする伯爵の端正な長身と傍らの伯爵夫人と思しき女性の髪が陽をはじいて目をひいた。


「奥方さまもきれいな人だね。絵になるなあ、美形カップル」


「すると、あの奥方の父親がギリク・エレオン子爵というわけか」


「はい、ジーナさまは控えめなお方で夜会などにはめったにお出にならないと聞いています。私もお姿を拝見するのは初めてです」


 英雄たる四大騎士の一人にしてこの城の主である。誰もが恭しく一礼し、二言、三言、言葉を交わして深い満足を覚えているようであった。


 人の輪を引き連れてゆっくりと庭を回るダンテス夫妻は貴族の栄光をそのまま背負ったように華麗だ。


 だが葵はそれだけではないものを感じていた。


 初めて王宮の回廊ですれ違った時に感じたかすかな危惧。それが今は一層色濃く感じられるのだ。これはもう悩み事の段階ではない。明らかに変事の予兆である。傍らのダンテス夫人となるとその印象はより明瞭であった。穏やかに笑顔を振りまいているが、その実、彼女の内面は全く笑っていない。


 笑えないのだ。


 彼女が冷淡な性格でうわべだけを飾っているというなら葵にはすぐにわかる。だが、彼女はアルが評したように控えめで誠実な伯爵夫人である。それは一目で伝わってきた。


 彼女は沈んだ心を懸命に支えながらこの晴れやかな場に臨んでいるのだ。そして並んで歩く伯爵もそれを知っている。妻の心痛を思いやりながらそれを露ほども表に出さないのは名のある騎士の矜持だろうか。


 でもなぜ? と葵はいぶかしんだ。


 夫妻の心配事といえば葵に思いつくのは一人娘の病気のことだけだが、そんなに具合が悪いのだろうか。こんなに離れていてさえ不安な印象が伝わってくるほどに。それともほかになにかあるのだろうか。


 この一見平和な宴の裏ではいくつもの思惑が交錯し始めている。


 そう思った時、心の隅を無数のイメージがかすめていった。クーリアの笑顔、伯爵の硬い表情、巨人ガーラの大きな影、走り回る兵たち、そして……歪んだ空と……獣、獣? そうだ青い獣の爪と牙。


 あまりにも一瞬のことでヴィジョンをとらえきれなかった。どれも脈絡のないイメージの断片であり、相互に繋がるものなのかどうか、それすらも把握できない。時として霊感が見せるヴィジョンに慣れていた葵にも初めての体験であった。


 それは葵自身にさえ整理がつかない混沌である。まだ恭一の判断を仰ぐタイミングではない。ただ、小声でこう口にした。


「恭一、急にいろいろ動き出してる。気をつけて」


 これでわかってくれるはずだ。恭一はちりっと目を光らせ、無言でうなずいた。葵はここへきて自身の勘が生き生きと作動し始めていることを感じていた。


     ***


 設計者の美意識に従って前庭の左右二か所に配置された薔薇園、その左側の園の傍らで葵たちはダンテス伯爵夫妻と対面した。二重、三重の取り巻きが興味深げな視線を送ってくる。


「こんにちは、伯爵さま、ご無沙汰してます」


 葵は笑顔で挨拶し、恭一も「しばらくです」と頭を下げた。アルは恭一の半歩後ろで会釈しただけだが、これは相手が気安く声をかけられる人物ではなかったからだ。


「今日はよく来てくれた、ゆっくりしていってくれ。そちらは?」


 伯爵の方から水を向けてくれたので、アルはここで初めてこの高名な騎士に挨拶する機会を得た。


「初めてお目にかかります。子爵エルンスト・ウルマンの三男でライン・アルト・ウルマンと申します。現在はキサラギ館にてお二方のお手伝いをさせていただいております。若輩者ですが、どうぞお見知り置きを」


「そうか、ウルマンどのの。お父上の名は温厚で高潔な方だと王宮にも聞こえている。今日はよく来てくれた」


 伯爵が差し出した手を少年は緊張と興奮を覚えながら握り返した。その初々しさが微笑ましかったのだろう、ジーナ夫人もそっとうなずいていた。


「三人ともこの城は初めてかな、なかなかよいところだろう」


「ええ、とても素敵な眺めで感動してます。湖が鏡のようで驚きました」


「リンクネスは散策にもほどよいところだ、あとで少し歩いてみるといい、風が心地よいと思う」


「ぜひ、クーリア姫やリーンさんから話に聞いて楽しみにしてたんですよ」


 いつものことだが、話し手は葵の役目だ。


「姫さまはなにか言われていたかね」


「遠出は久しぶりだから楽しみだと」


「それはよかった。お招きした甲斐があったな」


「夜会にどんな格好で行くか話したんですけど、今夜はちょっと珍しいものが見られるかもしれませんよ。第一王女殿下の女騎士装束」


 伯爵が軽く「ほう」という顔をし、周囲で聞き耳を立てている観客(?)たちが「まあ」とざわめく。


「なるほど、それは楽しみだ。さぞ凛々しいお姿であろう」


「ええ、乞うご期待ですよ」


 そう言って葵が微笑むと伯爵はうなずき、夫人を促しながら「では後刻」と次の招待客の方へと移動していった。大勢の人の輪を引き連れて。


 遠ざかっていくその背を見ながらアルは小さくため息をもらした。


「緊張した?」


「すごくどきどきしました。以前の私だったらろくに言葉が出てこなかったかもしれません」


「だから言ってるでしょ、君はたくましくなったって。で、どう思った? 四大騎士の一人にして名門貴族の当主、シュトルム・ダンテス二世の印象は」


 まだ今の興奮を反芻しているのか、少年は「そうですね」と言ってしばらく言葉を探していた。


「もっと怖い方かと思っていました。近寄りがたいけど弱い者には柔らかく接する。なんというか、すごく厳しく自己を律しておられる人だなと感じました」


「そうだな、君はやはりよい目をしている」


 恭一にそう褒められ、少年は顔をほころばせた。硬質だが暖かい黒騎士の魂は彼の憧れでもある。ダンテス伯爵にはそれと似たものを感じたのだ。あの人とも親しく接するようになれば同じ暖かさを感じるのかもしれない……。


 そんな夢想にアルが心を漂わせていた時である。葵の雰囲気が急に硬くなったのは。


 葵は小さく「あっ」と声をもらして恭一の手を取った。その目は上空に向けられ、瞳はいつになく強い光できらめいていた。


「葵?」


「空がちょっと変……なんだろう、歪んでるような。ふいになにかが途切れた感じ。もう元に戻ったけどルフトが微妙に揺れた」


「なにが起きた?」


「わからない、でも今、森でなにかが起きた……見過ごせないなにか、とても危ない」


 葵は自らの印象をそのままつぶやいているようだったが、その様子だけで恭一は異変を確信した。葵の手を握り返し周囲に目を走らせる。探しものはすぐに見つかった。


「葵、あそこにガーラとイアン隊長がいる、行ってみよう」


「うん、急いだ方がいいよ」


 アルはこの唐突さに覚えがあった。神殿であの老博士の無謀な実験を察知した時の葵の様子がひらめいたのだ。なにか突発的な変事の予感だ。


 三人は同時に走り出した。


     ***


 イアンは警備の総責任者としてすでに伯爵に挨拶を済ませ、今はラダル、そしてガーラと城門の近くで庭内の様子に目を配っていた。


 彼は職務上、目立たないことを旨としているが、今日は男爵家の次男らしく高級な衣服をまとっている。この場ではそれが正解なのだ。周囲の大半は貴族ばかりであり、華美な装いの方がかえってとけ込みやすい。


「しかし、俺と一緒にいたのではその気遣いも無駄だろう」


「まあ、目立つことこの上ないのは確かだな」


 ガーラは不敵に、そしてイアンはやや苦笑気味に笑った。木の陰にでも隠れない限りガーラの巨体は庭の隅からでもそれとわかる。近くを通る人々は例外なく目をみはり、敬意と信頼のこもったまなざしを向けてくる。


 軽装とはいえ剣を帯びマントを羽織った公式の騎士装束、加えてその巨体である。まさに威風堂々という形容そのままだ。彼がそこに立っているだけで人々が抱く安心感は計り知れない。


 黒騎士に挑んで敗れたというのに人々は彼の奮闘に大いなる感銘を覚えた。今では四大騎士随一の人気者というわが身が彼には少しばかり面映ゆいのだが、そうした賞賛の視線にも慣れた。


「まあ、あいつはますます図々しくなったがな」


「あいつ?」


 ガーラが軽く顎をしゃくると人々の間をすり抜けるようにして葵と黒騎士、それにキサラギ館で見た供の少年がこちらへ近づいてくるところだった。


 イアンも苦笑しかけたが、そこで三人の表情に気がついた。


「待て、どうも様子がおかしいぞ」


「ん?」


 言われてガーラも「おや?」と思った。常に冷静な黒騎士はともかく、あの表情豊かな娘が笑っていない。王宮では彼の姿を見つけると回廊の端からでも手を振ってくるのがアオイ・キサラギという少女なのだが……。


「そういや、馬鹿に真面目な顔してやがるな」


 なにかあったか? といぶかしんでいると駆け寄ってきた葵はさっと周囲を見回した。野次馬がいては話しにくい。幸い、人の流れが途切れたところだったので葵はガーラの巨体に身を寄せた。その目はひたと彼の目を見据えていた。


「ちょっといい?」


「どうした、こんなところで走ると目立つぞ」


 ガーラの軽口を無視して葵は単刀直入にこう切り出した。


「ね、昨日あたしが言ったこと、覚えてる?」


 とたんに巨人の表情が硬くなった。彼はすでに葵の実績を知っており、これだけでただ事ではないのだと察した。


「森に注意、だったな」


「そう、そしてついさっき森でなにかが起こったの。とても危ない、見逃せないなにか。ほうってはおけないよ」


「……なにがあったというんだ」


「わからない、でもすごく危険、騒ぎになる前になんとかしないと」


 隊長、と恭一も厳しい声で続けた。


「葵がここまで言うことは滅多にない、俺なら迷わず戦闘態勢だ」


 呆気にとられていたイアンもこうまで言われては無視できない。彼はカーストン事件の現場にいたのだ。そして目撃した。あの信じがたい光景を。


 アオイ・キサラギの表情はあの時以上に切迫したなにかを感じさせる。


「アオイどの、森と言われたな? 城の背後のあの森ということだろうか」


「うん、間違いないよ、そう深くはない場所、でも気をつけて、さっきからしきりに敵意のようなものが見え隠れしてるから」


 イアンは短く逡巡したが、すぐに決断した。


「ラダル、裏には何人いる」


「三十です」


「よし、ここはおまえに任せる」


「隊長?」


「なにかあるなら騒動になる前に片づける。姫さまが来られる前にな」


 ラダルはまだこの唐突な展開に戸惑っていたが、イアンがアオイ・キサラギの魔法士としての勘に一目置いているらしいことは間違いない。事態は今ひとつ判然としないがここはイアンの決定に従うところだと納得した。


「俺も行こう、昨日から気になっていた」


 おまえたちはここで待ってろ、とアオイたちに言い渡してガーラはイアンと並んだ。


「ラダル、なにかあったらすぐ伝令を出す」


 イアンはそう部下に指示すると足早にガーラと歩み去った。

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