第38話 幻影の牙 その2


(承前)



 ラントメリーウェルは小さいといっても城であるから一般的な貴族の屋敷とは規模が違う。敷地そのものもかなり広い。公式記録にはないが、リンクネス湖も同時に下賜されたようなものなので、一帯の風景はすべてこの城の一部とみなされている。


 湖に面した正門を入ると対称形に造園された広大な前庭、その奥に城の建物が控える。裏手は後庭や厩舎、さらに城を囲む石壁の向こうが森へと続いている。城の建物は小規模な中庭を囲む方形で、四隅に塔があるのはこの国で好まれる様式なのだろうか。


 今、その城の裏手、森の手前を歩く二人の男がいた。


 配置についた警備の兵に軽く頭を下げ、手元から書状らしきものを取り出して短く言葉を交わしていた。その様子からすると彼らもまた宴の関係者らしい。


 一人は明るい表情の若者、そしてもう一人はその若者に「先生」と呼ばれている小太りの中年男である。神官服に似た薄紫のゆったりした装束をまとい、福々とした印象は富裕な街の商人のようでもある。


「ふむ、話には聞いていたがよいところだね。ルフトの流れも濃い」


「森の精気がここまで伝わってくるみたいですね」


「ああ、少し森の中も歩いてみよう」


 若者は空を見上げ、満足したようにうなずいた。


「これなら問題なさそうですね」


「では一人でやってみるかね?」


「それはまだちょっと……」


 若者は頭をかき、男は笑いながら彼を森へとうながした。


 首都の森林公園とは違って野生の森なので踏み込むとかなり奥深い。それでも入口付近には城の手が入っているので散策にほどよい道が作られていた。森林浴という言葉はなくても人々はルフトが醸し出す森の精気を知っている。歩いているだけで気分がやわらぎ、呼吸とともにほのかな力が胸に満ちる。


 しばらく歩くと木々の間の小さな空き地に出た。石造りの長椅子がひとつ置かれ、道はここで終わっている。どうやら城が整備しているのはここまでのようだ。


「ちょうどいい、ここで始めるとするか」


 男はそこだけ森の緑が切り取られたような青空を見上げ、さてと、と長椅子に腰を下ろした。若者が手荷物の中から一枚の薄い円盤を取り出して手渡す。手のひらほどの直径の円盤表面には何重もの円と幾何学模様が描かれ、淡い光沢を放っていた。


 男はしばらく呼吸を整え、やがて手にした円盤にじっと目を凝らした。口元がかすかに動いて古代の呪文らしき言葉がもれる。習い覚えたとおりに詠唱しているが、実はその意味は不明だ。もしこの場に葵やクーリアがいれば容易に解読できたであろうが、一般の魔法士にそこまでの学識はない。


 それでも古語に秘められた言霊のせいだろうか、ある程度の効力は発生する。


 足元に淡い青色の光が浮かび、やがて一個の明確な魔法陣へと整形された。ゆっくりと回転しながら中央の記号が明滅する。周囲の雰囲気が変わり、木々の間を吹き抜ける風からも微妙な涼感が伝わってきた。


「ではこのまま固定しよう。あとはひたすら待つのみだ」


 知らず知らず息を詰めて見入っていた若者がほっと小さく息をもらした。いつ見ても見事な手際だと感心する。


 魔法士とその弟子は緊張を解いてどちらからともなく上空の青空を見上げた。そこになにかの変化が見えるわけではない。むしろ変化がないこと、それが二人が請け負った仕事である。


「執事さんは半日でいいとおっしゃっていましたが」


「その半日がけっこう退屈でね、それに耐えるのもまあ仕事のうちだよ。若い魔法士には向かない依頼だな」


 そう言って師は苦笑した。彼らは今日の催しのために雇われた魔法士である。屋外で行われる園遊会が雨に祟られぬよう晴天を保つのが彼らの仕事だ。


 常に変化している天候にささやかに干渉し、雨雲の発生を阻止するのである。目の前の魔法陣は上空にゆるやかな気流を起こして雲の凝集を防ぐものであった。さほど難しい術ではないが、辛抱強い制御が求められる。


「雨を止ませて晴れを呼ぶにはもう少し手間が要るが、最初から晴天ならこうして雲を吹き散らしてやるだけだからね、あとは魔法陣を崩さないように一定の歩調でルフトを招き寄せればよい」


 その気の長い作業が若いうちは難しい。すぐにはっきりした結果を求めてしまうのは若者に共通した性急さである。


「まあ、午後の半ばまでで充分だろう、そこから雲が湧いても夜会の始まる時間まではもつさ」


 師は軽く弟子の肩を叩き「気長にいこうや」と笑った。


     ***


 園遊会そのものには開始時刻が定められていない。正午過ぎには城側も椅子やテーブル、飲み物などを用意済みで、気の早い客たちを出迎えていた。


 客の方も慣れたものである。大半は貴族階級の人々なので、宴など日常茶飯事ですぐに顔見知りを見つけて話に興じていた。文字どおり人々の社交の場である。服装もまちまちで平服の姿も少なくない。本番は城内で行われる夜会の方であり、着飾るのはその時というわけだ。


 侍女や使用人と思われる人々が馬車から下ろした荷物を城内に運び込む姿が目立つのはそのためであろう。


 宴の主人であるダンテス伯爵夫妻が登場するのは午後の半ば過ぎ、そこから客たちの間をゆっくり回って挨拶を交わすことになる。これが唯一の公式行事といったところだろうか。


 葵たちの馬車がリンクネス湖畔に到着したのは午後二時を少し回った頃であった。


「わお、ほんとにきれいな湖、空がくっきり映り込んでる」


「城も見事だ。築三百年と聞いたがなるほど風格がある。一門が誇りとするだけのことはあるな」


 感心する葵たちに「お城の中も立派ですよ」と言い添えたのは侍女のベリンダである。彼女は王宮勤めの頃、届け物を言いつかった先輩侍女についてこの城を訪れたことがあるのだという。


「ごつごつして派手な装飾とかもないんですけど、重厚というか、それでも趣味がいいというか」


「質実剛健、華美は好まず、か。いかにもあの伯爵らしいな」


「アルくんは? ここ来たことある?」


「いえ、リンクネスの近くは何度も通ったことがありますが、城は遠くから見ただけで。近くの住人は時々ご機嫌伺いに出入りすることもあるそうですが」


 葵が「お掃除大変だろうなあ」とつぶやくと珍しく恭一が吹き出した。


「葵はどうあってもそこが気になるんだな」


「わが社の優秀なお掃除ロボットが百台は要るよ」


「石材仕様じゃないから改良が必要かもしれん」


 アルやベリンダにはいささか意味不明な話で笑っているうちに馬車はラントメリーウェルの城門をくぐった。


 着替え荷物の搬入はベリンダに任せ、葵、恭一、アルの三人は広大な前庭を歩き出した。


 アルは貴族の子弟らしく品のいいシャツに細身のズボン、えんじのループタイという出で立ち、タイの留め具にさりげなく小さな宝石があしらってあるのはさすが富裕なウルマン家の三男といったところか。夜会にはこれに上着を羽織って参加する。


 対する恭一は飾り気のない黒の上下、これは本当に彼の平服である。背中には愛用の黒い剣を背負っているのも同じだ。夜会用には女たちが喧々諤々の主張の末に選んだ騎士装束があるらしい。


 葵もこの時間は普段着に少し飾った程度だ。素材は上等だが目立つものではない。こちらの若い女性がよく着用する袖を絞ったブラウスとベストの組み合わせに膝下丈のスカート、といえば近いだろうか。面白いのは葵も恭一も胸に小さな紋章の刺繍を入れていることだ。葵が茶目っ気を出したもので、実は高城エレクトロニクス社のロゴマークである。縫ったのは侍女たちだが「由緒あるおまじないなの」という葵の言葉に神妙な顔で作業していた。


「アルくん、家の人たちは?」


「両親も兄たちもこういうのには慣れっこなので夜会から参加するそうです」


「お兄さんたちってどんな人?」


 そうですね、とわずかに口ごもった少年は「なにもかも私とは正反対です」と言って吹き出した。


「溌剌としてよくしゃべり、よく笑います。社交的で少なくとも貴族として人付き合いに苦労するようなことはないと思います」


 そう兄たちを評したあと「ちっとも勉強しませんが」とつけ加えたので葵が声を上げて笑った。


「君も言うようになったねえ」


 そう肘で小突くと少年も嬉しげに顔をほころばせた。今のアルはこんな軽口も飛ばすようになった。本人にその自覚はなさそうだがずいぶんと図太くなったのは間違いない。キサラギ館を訪れるたびにウルマン子爵が上機嫌なのはそのせいもあるだろう。


「じゃあ歩きながら目についた人の名前を教えてくれる?」


 城の前庭は向こうでなら優に野球場並みの広さがある。庭の中にも木々で囲った小公園や水路、噴水や彫刻などが趣味よく配置されている。人々はさんざめきながらそれらの間を回遊しているようであった。


「優雅ねえ、お庭に大きな薔薇園のあるお宅なんて初めて」


「主人一党より手入れする使用人の方が多いかもな」


 見渡すと子供の姿が少ないのは夜会が大人の集まりだからだ。時折、小学生くらいの小さな紳士淑女も見かけるが、これは貴族としての社会勉強として連れてこられたのかもしれない。夕方には一足先に帰宅することになるはずだ。


「恭一はいつ頃からこういう場に出てたの?」


「けっこう早かったぞ。葵と知り合った頃にはもう親父に連れ回されてたからな」


「すごいねえ、英才教育。どうりで落ち着いてるんだ」


「まあ、それはそれでよかったということにしておくさ。今こうしてここで役に立ってるんだからな」


 そうこうしている間にも多くの人とすれ違う。恭一は目立つのであの三人連れは誰だろうという視線が頻繁に飛んでくる。中には黒騎士と連れの娘の噂を知っている人もいるらしく、ひそひそと言葉を交わしている者たちもいた。


 そういう相手にあえて葵は「こんにちは」と挨拶する。するとほぼ例外なく相手は絶句し、人形のように硬直する。


 そのさまがおかしくてアルは笑いをこらえながら「今のはカッスル男爵家のご長男夫妻です」「さっきすれ違ったのがジント・ケリー伯爵、官吏に人脈を持ち、顔も広いとか」「あれはエルウィン・リンドウ子爵、隣は、ええと確かメルファー家のご令嬢だったかな、そういえば前にもお二人ご一緒のところを見たことがあります」などと次々に説明してくれる。


「苦手なんて言ってた割にはよく見てるじゃない。その知識、ちゃんと繋げてやると面白いかもよ」


「面白い?


「たとえば、アルくんはリンドウ子爵の奥さんの顔、知ってる?」


「存じています」


「ではなぜ、妻ではなく若い令嬢を連れ歩いているのか、しかもこれが初めてではないという」


「それは、その……」


 葵はあえて下世話な話を示唆したのだが少年は少し顔を紅潮させた。


「何百もある可能性のひとつ、でも十や二十は想像できるね。その中のどれが真実に近いか知りたければもう少し材料が要るかな。両家の経済状態はどうか、あの令嬢に恋人はいるか、子爵と奥方の夫婦仲はどうか、両者のご友人はどんな話をしているか、とかまあそんなとこ」


「そんなこと訊けませんよ」


「聞くとはなしに周囲の人の話を小耳にはさむの」


 ここでとうとう恭一が笑い出した。


「そのくらいにしておけ、あんまり悪い知恵つけるなよ」


 そこに至ってアルもからかわれていることに気がついたらしく、がっくりとうなだれてみせた。本気で落ち込んでいるのではないことはその大仰な身振りでわかる。少年は確かにタフになった。


 そのときである。葵の足がふいに止まったのは。


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